五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の資料整理顛末記  2000

2010-06-09 05:50:30 | 五高の歴史
八月二十九日 火 晴
二千年の八月も最後の週になり朝夕は大分涼しくなった感じである。朝からの私用で少々早く出る。開室は九時週一回の窓開放では足りないのかカビの臭いがする。廊下の窓、キャビネの戸を開放し扇風機で風を送る。涼しいうちにと整理を始める。
ビニール紐で括った手紙の束が出て来た。出征軍人(生徒)からの手紙としての付箋紙がつけてある。内容は生徒より職員の頼りが主であり、昭和十一年に勃発した支那事変に従軍した職員の戦地から学校の様子をうかがった物が多い。支那派遣軍中尾部隊 少尉稲葉三男・・西部六四部隊 吉田三二・・中支派遣軍 藤田繁一(約二年間従軍している)等々の軍事郵便である。台帳には出征軍人からの手紙七三、学校と学校長宛となっており、内容について興味がわく。支那事変については出征した者も戦争に出征するというより観光気分の雰囲気さえ見えるのはそれだけ日本が押さえていたのか、中国人を差別した言い回しも多く支那人という言葉も多く使われている。しかしビルマ派遣軍森一〇五九〇部隊の小貫章になると事態も変わって来るように感じた。
 

黄砂に覆われた熊本市
                                             近頃は時々このようなことも多い


丹部敏祐の戦死の通知手紙は資料としての価値も存在すると思われる。「五高と戦争」とした展示を考えるときには貴重な資料となるであろう。学徒動員より先に出征している。丹部敏祐について昭和十一年四月五高文科に入学同十四年京都帝国大学経済学部に入学、同十九年一月濠北派遣群一一〇六四へそして三月二十七日南海方面で戦死している。
遺族母丹部葉子さんから五高時代、そして幹部候補生時代の写真を同封、戦死の通知が入れてあった。この時代になれば可哀想と言うより深刻である。この関係手紙、はがきは七十七通あった。今日は弁当水筒持参であり、動かなくそのままの状態で整理にあたった。生徒関係の資料でも在学証書、在学保証書は内容は全く同じであるが別項目として登載してありこんなことはどうでもいいことであるが、よりすっきりさせるためには纏めることにより冊数も減るし、項目も減るのではないか?
U教授は来週また出てくるといっていたが今日心待ちしていたが等々現れず、当てにしているとすってんをかまされる。
二時過ぎ工学部三井教授が東大教授とかを六名案内していいらした。知人のところに夏目漱石の本物の声の録音があるが聞き取れないので現代の技術でどうにかならないか。関係部署で検討してもらっているとか言うことであった。資料館検討委員会工学部北野教授に言っておかれた方がいいのではないでしょうかと言うことはアドバイスしておいた。
帰りに館長のところに顔を出し第二回五高記念館公開講座の案内ポスターを預かり、管財に事務局の玄関の掲示板に貼らせて貰ってきた。