五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

龍南会の発足

2011-12-05 04:25:34 | 五高の歴史

龍南会の創設まで
明治二十四年四月頃この設立の話が起こっている。新学期の9員と生徒の中から七人の創設委員を決めて龍南会規則を作って十月二十四日に役員を決めて十一月三日に龍南会開会式が行われている。会長は嘉納治五郎校長で委員長は習学寮の自治を確立した生徒藤本充安であった。

生徒の間で研志会というものを組織して毎月雑誌を発行していたが雑誌も二十号を超えていた。龍南会の発足に伴い雑誌部として加入し、龍南会雑誌第一号を発行することになった。

学術を研究し品格を高尚にして弁論を磨いて学生間の交流を図るために土曜会と言うものがあった。その創立は二十二年五月で初めの会員は四十余名であったが、会員の熱心さと奨励を以って特に教員の有益な談話で益々の隆盛を来して現在の会員数は百名を越えていた。そのため演説部として龍南加入することにし、委員は雑誌部委員が月毎に交代でその事務を執ることにしている。

気力養成は体育には必要であることは凡てに人が認めるところであるが、明治二十四年五月学内の有識者が相談して平山校長にお願いし職員の給与から幾分かの援助を受けることをお願いして、武具数十組を誂えて雨天体操場を道場にあて師範に和田伝氏を招聘して練習に励んできた。龍南会が創設されるに及んで撃剣部として加入することにした。今までの組織を改革して会員を募集して規模を拡張している。

各地の柔術家、矢野、星野、江口、の諸流に入門し学び、更に講道館を創設した嘉納校長が校長であることに伴い、嘉納校長曰く柔道は気力を鍛錬し精神を修養するを以て目的とす。として嘉納校長自らの門弟肝付氏を師範に聘したので入会者は百八十名を越えてさかんであった。

体育の隆興の余波は遂には射術会の組織まで及ぶようになった。野村校長は主として射の人身に利があることを認めて生駒新太郎師範を招聘してこのことを徹底させた。弓道場を設けて園助教授が教えて一盛、一衰は常には無かったが、今回龍南会に加入するになって弓矢を整えて興隆の時機が起こっていた。
明治二十一年に第五高等中学体育会と云う名称を付け体育普及を目的として毎月二回は小演習を実施して春秋の二期には大演習を施行して来た。この龍南会の創立によって組織を改正して職員、生徒を会員にして今まで使用してきた機械を新調して事務を整理して名称は戸外遊戯部として龍南会に加入しその活動範囲は益々拡張している。