寄宿舎細則の修正、
明治二十一年二月から建築が始まっていた黒髪の校舎新築が竣功したことに伴い寄宿舎も古城から黒髪に移転したので
その実情に合わせて寄宿舎細則の改正が行われている。創建以来古城で授業が行われていたが同時に寄宿舎も設置されていた。
その寄宿舎が黒髪への移転したことに伴い寄宿舎細則も修正されている
明治二十二年十月十一日の寄宿舎細則修正建議の件として起案され、これを起案しているのは舎監とあるが
習学寮史によればこの時の舎監は10年の役で薩軍に参加した勇士清水元吾、石川県の志士飯田秀魁の両氏であったとある。
即ち西南戦争に参加した鹿児島西郷軍の兵士であった。
更に田中尚志氏の話に依れば、教育方針は国家本位の教育であり「寄宿舎は寝台を用い、
教科書は全部原書で、英語専門の観があった、森文相は急進欧化主義、外国語を奨励したが、これを実践したのは野村校長であった。
一方に於いては天下の豪傑を集めて、教育の任にあたらせたため学生の気風は活発勇壮で生活問題の如きは少しも無く、
教育者も被教育者も国家本位であったのは、如何に政府が人材教育に急であったかを思わしめる」ということである。(kaminokawa)