今
龍南物語に記載されている大正時代の武夫原の様子を記載してあるので現在の熊大グラウンドの様子と比較する。
「三四郎たちは、よく武夫原といふ。
武夫原とは五高の校庭の名。自分で口ずさめば極めてこころよい情緒に酔うことができるし、人に語れば強いほこりを覚える。
阿蘇へつづく街道に面した宏壮な煉瓦の正門から、第二の門まで、松の木の植え並べられた土塀に囲まれた広い附属地がある。
今は麦畑。昔は広い葉かげに煙草の花がちらほら匂う煙草畠であった。
この附属地をつらぬいて,二丁計りの曲った道が二つの門をつらねる。両側を埋める並樹は春の夕まぐれにいい桜の木である。
第二の門の前、両側へ広がった南国の匂いや、色彩の濃い花や、木の実のうるはしい植物園をながめ乍ら門を這入れば、
本館の高い煉瓦の建物が、横に幾すじかの直線をまぜて甚だこころよい調和を示して巨人のごとく聳えて居る。
強い日に照りかがやく黒い道路を除けば一面の芝原。玄関前のまるい芝生には南国にふさわしき数本の蘇鉄が深緑の葉をのばして、
風たてば幽けき葉づれの響きをたてる。玄関は年中開かれたことのないままながら、その直ぐ前の珍しく高い枝垂れ槙の巨木は、
衛士のように一境の幽逐と荘厳とを増して居る。本館の右に連なっては、水色の二部の校舎が夢よりも淡いいろを漂わせて、
松林の間に隠見して居る。空気は澄んで明らかに、色彩は柔らかにして鮮媚。南洋の富裕な貴族の家を思わせる、
静かなる境地である。四つの寮は、本館のうしろに連り、山に近いだけさらに静かでさらに悲しい。
武夫原はそれ等の左をかぎる長方形の広い芝原である。
原を繞ぐる松林の葉づれに、暗い冬の日をなげく歔欷(すすりなき)が消えて仕舞ふと、雪融けの黒い真土の庇から,絵具でそめたような草
の若芽が萌える。はじめは、針のように細く。黒髪のように柔らかに。
晴れた日には、珍しくひょろ長いN先生の馳足姿がうれしい春の追憶を甦へらせる。その頃には原は猛、
一面に天鵞絨のようなやわらかな草に蔽はれて、あざやかの色取りの上を、時を理大きな雲のかげがいと怒るやかにうごいてゆく。
くらい冬は逝ってしまった。そうして私たちの原にも春がきた。
けれども試験前のいそがしい私たちには、草を蓐似,石鹸の泡のようなやわらかな春の光につつまれて、
紅い嘴の小鳥の唄に聞きとるには、余りにはげしい不安が湧いてくる。」
☆
中門 風景 記念館周辺
前記の文章で現代の武夫原と異なっているところを紹介する。
広壮な煉瓦の正門から第二の門まで、熊本大学図書館、学生会館、熊大厚生施設等々の建物がある
、サインカーブは桜と杉の並木になって少しは昔の風情も偲ばれる、
国の重要文化財に指定されている煉瓦の正門は創建当時の建築のままで百三十年を経過して
とても百年以上を経過しているとは思えないほどの迫力である。
漱石が来校に当たり「いかめしき門を入れば蕎麦の花」と詠ったのは、この門のことである。
当時の畑地部分は熊本大学大教センター初めの文学部、法学部、教育学部等の各学部の建物がある。
植物園は雑木林的になっているが、昔の樹木も数本残っており植物園の趣も残っている。
第二の門を入れば、玄関前の蘇鉄は昔のままの風情を残して五高時代の歴史を思い出させ、
玄関は、記念館の一般公開により平成十六年の国立大学の独立行政法人化に伴い毎日の公開になって連日の開放になっている。
玄関前の高い枝垂れ槙の木は今も殆どその昔の姿であり、ゆっくりした槙の木の生長が忍ばれる。
武夫原についてはその広さはこの時代と同じであるが、平成五年の工事で武夫原が大きく変わった。
この時代までの松の植込みがあったものはじめ、その後植栽された植込みの樹木は凡て取り除かれ、
学生の授業・課外活動の為のグラウンドとして整備された。
一周三百メートルの陸上練習場はじめ、サッカー場一面、ラグビー場一面が新設され、
その上夜間照明も設置されて学生の体力増進に寄与している。
昭和50年代に熊本大学のグラウンド整備のために武夫原の工事を行いこれからも既に30年近くになる
老朽化も大分進んでいるようである、今後の全面整備を期待するばかりである(T,Higashi)