一高では森有礼が凶刃に倒れた日に校旗「護国旗」が公開されたが、一高では明治23年2月に全寮制の寄宿舎体制が整う。木下広次校長の下で寮生自治による自治寮が始まった。
ここで高等教育の黎明期に大きな影響を与えた肥後教育人脈を検証して見る。五高開校式当時の校長は平山太郎である、平山は5年間アメリカに留学する。初代校長野村の武人風に比べて、平山は学者風であった。開校式出席者は長崎医学部からの参加者80名もあったが、来賓348人、当時の五高の職員は40名くらいで中央の教育レベルに追付くには程遠かった。
五高開講式の祝辞で注目されたのは文部省専門学務局次長浜尾新の挨拶であった。この挨拶では高等中学校と大学との連結を強調され、熊本中学校の廃校以来の、東大予備門のような学校は熊本には済々鱟の充実をもくろむ位で東大へは一高と二高からで地方からの東大への道はなくそれがこの挨拶で開かれたようで、この挨拶に対し当時の、在校生は感激した。
佐々友房の開校式演説で理化学思想の推進を強調したが、五高の入学者の学力のレベルは補充科を設置せざるを得ない状況であった。新しい高等教育の題材が出来た事を喜んだ。
五高の寮は古城時代は自習室、野村彦四郎は東京と友愛な環境を築くことを心がけ五高と一高との関係を確立した。これは兄弟校・・ライバル校を目指した。国家有為の人材養成で生徒の気概はあったが済々黌に対しても学力の不足はどうするか問題であった。初代校長野村彦四郎は馬術、野球などのスポーツを奨励した。山崎練兵所で五高の馬を飼っていた。、 五高は制服、制帽,徽章いずれも一高を参考とした。
突然に明治22年9月野は村非職になる。西邨貞を校長事務取扱とし、翌23年2月平山太郎校長就任する、
それに教頭 桜井房記・・幹事に文部省視学官 椿蓁一郎を起用する。
野村の五高に対しての愛情は樹木の寄贈があって、お茶の木、年額100円を寄贈、非職後も4年間続けている。森文相は3万円を各高等中学校へ6千円ずつを配布している。
一高では古荘嘉門校長、木下広次教頭、幹事高橋長秋、舎監森田愿(げん)熊本人脈であった。
帝国憲法の発布式典,22年2月11日校旗「護国旗]を公開する。デザインは柏葉とオリーブで青山御所から皇居へ・・天皇の馬車で向陵建学の理想を象徴している・・・一高のシンボル
生徒たちは早朝から制服に身を包み、ゲートルを履いて、正門から宮城へ行進した。護国旗を高く掲げていたのは後の首相若槻礼次郎である。明治天皇は一高生が前を通り過ぎる時軽く頷き校旗に敬意を表した.
これは一高生の終生の思い出として国を守る建学の理想が生まれ済々鱟の人脈がすなはち古荘の高等教育管理体制は幹部に済々鱟人脈をそろえていた。
肥後流の学校運営と剛毅朴訥な校風樹立への情熱が見える。