終戦から六十六年を迎えNHKのテレビ放送で証言記録太平洋戦争がまた放映されていた。ただ眺めていると90歳前後の人たちの証言は?
大本営の戦争拡大方針によりニューギニア島はじめ太平洋の島々に送り込まれたが食糧の補給は現地で調達せよとかの命令、武器・食糧の補給はなく、軍事力に勝るアメリカ軍の反撃により、戦争は負け続け、太平洋の島々に兵隊は取り残され玉砕、玉砕と発表されていた、仲間は次々に戦闘ではなくしてほとんどの人が食糧不足で餓死で死んで行ったことの証言。現地住民を虐殺し、人肉さえも食し、物資を略奪し、戦争の集団心理というものが描き出されていた。しかし全ての証言者が言うことは上官の命令に従い行動しただけであり、命令に従わなければ上官からリンチされさらには軍法会議までにかけられると恐れて命令に従わないと自分が殺されると言うことだけであった。
しかし大本営発表は玉砕したということであるが玉砕というのは部隊が戦闘活動が出来なくなった時を玉砕と言ったのだろうか?証言者達は生き残り、既に六十六年も生き続けているじゃないか、当時の国民が大本営の発表を信用したことも全く嘘の発表を信用したのであったのだろう。なにしろ取り残されて人間の餓鬼の状態に追い込まれながらも生き続けた人々の証言であるが、全て上官の命令、上官の命令と言うことで上官に責任の転嫁していたと言うことは、飢餓状態に追い込まれても、なおながいものにはまかれろの精神が生きていたと言うことを感じた。
此処では戦時中までの五高の教育、それまでの学校教育はどうあったのか、将来の日本の指導者になろうと考え思っている五高生の習学寮の総代日誌を眺めて見ることにした。
昭和十二年十一月の総代日誌から、寮生は漸く個人主義に傾き、自己の部屋とい閉じこもり、人間の集合体としての切磋琢磨の実を上げるという寮生活の意義は空文化になってしまった如くであった。これは寮の構造に起因するものである
「乱雑の陣形とでも言いたい状態をとって進んでいる自分も五高生だが、且つまた遅刻したのだがこれが五高生の本領かと思うとき唖然たらざるを得なかった。且つ自己に対しても殆どすべての五高生が遅刻したのではなかろうか、慚愧、」[拠rしむべし知らしむべからず。・・・しかしあくまでも理想は知らしむべく行はしむべく起きたしむべしでなければならぬ、新聞!抱負あり定見あり洞察力あり世道人心を率い世論を構成し得る新聞が望ましい」
当時の熊日紙上五高を塾愛する一市民の投書から「龍南の沈滞叫けばるヽ折から、その中心生命たる習学寮々生諸君、自覚して此弊風を打破されたし、最近の風儀よろしからず。先日の提灯行列のじょうたいは何ぞ」熟しするに悪い意味でのエゴイズムが充満し、何ら有機的な寮の生命というものは感じられなかったと思われる。「自覚と権威」との欠けた支離滅裂の龍南、一貫した理想と覇気の欠けた、枯死つつある龍南とある。