五高時代の木柱を復元した中塀、現在の塀はコンクリート柱である
競馬開催通知
藤崎台ニ於ケル競馬ハ本日午後二時
ヨリ開催ノ由之有ニテ候間通知申上候
大正五年五月一日 庶務課
職員御中
桟敷番号第二十九、三十、三十一号
本年四月三十日五月一日招魂祭ニ於テハ藤崎台
競馬場桟敷前記之通リ招魂祭団ヨリ当
校職員へ配当致来候間此段御通知候也
大正五年四月二十九日 庶務課
生徒課、図書課、特別教室
御中
追而桟敷ニハ両日共小使ヲ差遣シ幕之震之ヲ座を敷クモ番衡至セシ置候間御来観被成度也
熊本においては以上の事は明治二十年代から開催されていたようである。これらの通知文書には公文書ではなく唯単なる学内の職員に対する通知文であるので実際はどうなっていたのか判らないが明治くまもと文学散歩「寅彦と熊本』の資料のなかで山崎練兵場、招魂祭、競馬開催等々のことについて寺田寅彦が五高生時代の明治三十一年の日記中に次のようなものが見られたので確認の為転載した。
明治三十一年五月六日 金 晴
此の日は招魂祭を山崎練兵場に行はるゝ筈故、我校生徒一仝九時過ぎより参拝す。到処の街々両側に七五三(しめ)を張り造花を拝み紅球国旗を掲げ辻々にはアーチを造り車馬の往来さながら織るが如し、参拝場は工兵営内にて大旆数流を立つ。工兵の意匠より成れる大灯籠二基は尤も妙なりき 場の西方なる広場には馬場を構え競馬の催しあり 又西北隅には撃剣試合場あり〈此の日我植田君等も試合をなし賞を得たり〉.旧城内各営業所内は一般の縦覧を許したり。夜は仕掛け花火などもあり