生まれは嘉永二(1849)年八月十四日、石川県旧金澤舊名甚五郎
明治六年未九月八日には金澤藩の陸軍軍曹として入隊し、同年の十一月二十三日には東京詰めを金澤藩から申し渡され、二十九日には正式に東京鎮台陸軍四等軍曹に任官している。その後九年三月十一日に満役になっている
明治十年三月八日に名古屋鎮台で陸軍軍曹に任ぜられ陸軍中佐長屋重名に奉じている。西南戦争に従軍するため・・・。
その後名古屋鎮台で小隊長など軍隊生活を歴任し、更に八月六日には陸軍曹長を征討総督本営から任ぜられている。そして十一月十三日に陸軍を免官している。
明治十年十一月二十一日には石川県職員(第二課)に採用され十一年十二月二十一日には羽咋郡の書記として大書記熊野九郎に奉じている。羽咋郡の郡役所で十三年二月三日には勧業事務取扱に七月十一日には会計科の事務も兼務し、さらに十一月八日には租税科事務も兼務している。十二月十三日に第二部長に昇任し仝十八年五月三十日まで羽咋郡役所に奉職している。
石川県は明治十八年五月三十日文部省への出向を命じ、文部省は六月十八日文部八等属にして、文部大書記辻新次に奉じている。同日には学務二局詰めを申付けられている。
そして同年七月九日には体操伝習所詰めを兼務している。体操伝習所では銃器係兼務として会計係も申し付けられて十一月二十六日文部七等属に任ぜられている。同時に文部大書記辻新次に奉じている。なおこの時の体操伝習所は文部省直轄である。
明治十九年一月八日には東京師範学校七等書記として小牧昌葉に奉じている。六月一日付けで第一高等中学校書記に任用される。
明治二十年七月十六日には第五高等中学校の書記として熊本に赴任している。熊本在住は七年間で死去は明治二十七(1894)年五月二十七日四十五歳であった。
初代校長に第一中学校校長であった野村彦四郎が五中校長に任命されたのは明治二十年六月四日で、同月二十一日熊本に着任するや開校に向けての活動に移った。新校舎の建築は基よりまず仮校舎の物色から始まった。永井は体操伝習所から第一高等中学校そして第五高等中学校へと常に上司であった野村彦四郎に従いその書記としての仕事に従事している。
野村彦四郎が森有礼の腹心の部下であったように永井は野村の書記の部下であったことが窺える。