オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

都幾百姿 世尊寺の月

2017-04-21 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『世尊寺乃月』 少将義孝

明治二十一年印刷

 

 

藤原義孝(ふじわらのよしたか)は 平安時代中期の公家・歌人

天暦8年(954年)天延2年(974年)

摂政・太政大臣 藤原伊尹の四男 母は醍醐帝の孫 恵子女王

 

 京都郊外の世尊寺の庭で物思いに耽る義孝

 

国立国会図書館デジタルコレクション 030

 

天然痘にかかった義家は天延二年九月十六日

朝に亡くなった兄挙賢(たかかた)に続き夕に亡くなった。

 

世尊寺は京都一条の北、大宮の西にあった寺院

貞純親王の桃園邸の地に長保3年(1001年)藤原行成が建立した

藤原行成は義家の息子!! しからば こ、これは。。。

 

小倉百人一首 50番歌

 

『君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな』

 


都幾の百姿 花山寺の月

2017-04-20 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『花山寺の月』

明治二十三年届

 

 

花山(かざん)天皇は第65代の天皇(永観2‐寛和2)

安和1年(968年)~寛弘5年(1008年)2月

冷泉天皇の第1皇子 母は藤原伊尹の娘懐子

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション 008

 

歴史書「大鏡」などでは寛和2年(986年)6月22日深夜に

宮中から姿をくらませ出家するという劇的な退位をおこなうが

すべては藤原兼家一家の策謀によるもので

兼家の命を受けた 源満仲らに護送されるようにして

山科の花山寺(元慶寺)に着いたとされている

 

脇差を右手に辺りを見回す源満仲

 

ここだけ取ると権力闘争の犠牲者のようにも思われますが

即位式でのやんちゃぶりなどもあり どれが本当で

どれが嘘なのか判らなくなってしまいますね。

 

ただ、この絵では月岡芳年は間違いを冒しています

22日であるならば満月ではなく下弦の月でなくてはなりません。

 


月百姿 あまの原ふりさけ見れは春日なる・・・

2017-04-18 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『あまの原ふりさけ見れは春日なる

三笠の山に出し月かも』

明治二十一年届

 

阿部仲麻呂(あべのなかまろ)

文武2年(698年)~宝亀元年(770年)

奈良時代の養老元年(717年)3月 遣唐留学生として入唐


国立国会図書館デジタルコレクション 048

 

天平勝宝5年(753年)11月15日

仲麻呂が30年以上滞在した唐から日本に戻ることになると

帰国を惜しんだ王維ら友人たちが送別の宴をひらきました

その際に詠まれたのがこの詠 『空を見ると月が出ている 

あれは故郷の三笠山に出ていた月と同じものなのだなあ』。

 

しかし帰国に向かった仲麻呂の乗った船は暴風にあい

はるか南方の安南(ヴェトナム)に漂着していまい

その後も帰国が叶うことはありませんでした。

 

小倉百人一首 7番歌

 


都幾百姿 やすらわて寝なましものを小夜ふけて

2017-04-17 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『やすらはて寝なましものを小夜ふけて

かたぶくまでの月を見しかな』

届年不明

 

赤染衛門(あかぞめえもん)

平安中期の女流歌人で中古三十六歌仙の一人

天徳、応和年間(957~964年)に生れ

長久2年(1041年)以後に80余歳で没したと推測される

良妻賢母の誉れ高く『紫式部日記』がその人柄を伝えている

国立国会図書館デジタルコレクション 062

 

小倉百人一首 59番歌