愛憎
それから五年の月日が経った。
呉王僚は、隣国の楚に侵攻する計画を着々
とたてている。
伍子胥は畑を耕しながら市井に潜伏し、
復讐の時機をうかがっている。
子仲は名を専諸と変え、公子光のもと、
指令を待ち続けていた。
楚では嬴喜の産んだ太子が軫と名付けられ、
六歳となった。
包胥はその後見人として、母子を心の面で
支え続けている。
奮揚と紅花はその包胥を心で支え、
そして彼と彼女はお互いを心の面で支えあった。
政治的緊張が続いた五年間であったが、
幸いにもこの間にその緊張の糸が切れる事態は
発生せず、人々の暮らしは、表面上平和であった。
しかしその後、糸は突然切れたのである。
この年、楚王は崩御した。
突如心音を乱し、その太った体を悶絶
させながら倒れた姿を、人々は茫然と眺めた。
誰も王に何が起きたかを瞬時に理解できず、
それがある種の急性の病気であることに思い
至らなかった。
「呼吸が止まっております」侍従の報告を受け、
片腕の費無忌は目を閉じながら言った。
「お亡くなりになったか。来るべきときが、
いよいよ来た。……
しかし慌てることはない。このときのために、
わしは太子建を追放したのだ。
新たな太子の軫さまは未だご幼少だが……
構わぬ。王座に据えることとしよう」
このとき死んだ楚王には「平王」と諡され、
国を挙げての葬儀が催されることとなった。
かくして、嬴喜は未亡人となり、同時に王太后
となったのである。
しかしこのとき、嬴喜は齢よわい二十五
にも達していなかった。
費無忌は、その嬴喜に向かって
「新王になりかわって政治を見よ」と告げた。
「黙れ」このとき包胥は、そのひと言だけを
費無忌に向けて放ったという。
その言葉の裏には、どこまで彼女の人生を
弄もてあそべば気が済むのだ、という意が
込められていた。
しかし費無忌はこの発言に対し、激怒した。
「賢き平王の忠実な臣下であったこのわしに
向かって、地方の大夫に過ぎない男が、
なにを言う!
貴様の不遜な態度は懲罰されるべきものだ。
覚悟せよ」
費無忌は激情をそのままに、包胥を罵倒したが、
彼も黙っていない。
常にない挑発するような口調で、
費無忌に対した。
「誰がこの私を懲罰すると言うのか。
未だ幼い新王か。それとも嬴喜さまか。
このお二方が揃って私を罰すると言うので
あれば従おう。しかし、それ以外の者の指図を、
私は受けぬ。
ましてや貴様のような傾国の佞臣が言うことなど!」
そう言うと後難を恐れる態度も見せず、
場を立ち去った。
当然のことながら、嬴喜は包胥を罰すること
を認めず、また、自らが先頭に立って国政を
担うことも若齢を理由に拒否した。
楚には宰相を意味する令尹れいいんがたてられ、
摂政の役目を果たすことになる。
これを受けて、相対的に費無忌の権力は
減衰した形となった。
「まあ、そのうちにまた盛り返してみせるさ」
費無忌は親しい者に向かって、そのように述べた。
その言葉は、彼が国外に存在する危機に
気付かず、内輪の権力闘争にうつつを
抜かしている現れであった。
その証拠に、費無忌はその後の危機に
何も対応することができなかったのである。
呉王僚は、楚の国葬のどさくさにつけ込み、
自らの弟二人を将軍としてついに出兵した
のである。
呉楚間の本格的な抗争がついに始まった
瞬間であった。 …
初体験。 生まれて初めて尽くしだった。
初めての救急車、初めてのICU、初めての入院。
出産経験のない自分は、なんとなく入院とは縁が
なく年を取っていくんだろうなと、根拠もなく思い
込んでいた。
たいした自信だ。今考えると、バカじゃないかと思う。
自分自身の身体に対する根拠のない自信。
思えばこれが、すべての元凶だった。
51歳、既婚、子無し、職業・小説家、京都の一軒家
(賃貸)で、同じく物書きの夫とふたり暮らし。
まだ閉経しておらず。 いつまで自分は女でいら
れるんだろうかなんて考えていた私が、女でいる
どころか、心臓の一部が動かなくなって死にそうに
なった顛末です。…
何でもかんでも「更年期だから」と思ってた
2022年5月半ば。 私はひとりで和歌山へ旅していた。
大阪まで出て、「特急くろしお」に載り、紀伊勝浦へ。
そこからバスで、熊野古道の入り口である補陀落山寺
を参り、再び紀伊勝浦に戻り、「ホテル浦島」へ。
このホテルの「忘帰洞」という、洞窟の温泉に
以前から入りたかったのだ。
念願である温泉を満喫し、夕食を食べ、早々に眠る。
翌朝は送迎の車で紀伊勝浦駅に戻り、そこからは
バスで那智大社へ。
バスを降りてから、数百段の階段を上り、
那智大社にお参りする。 やっと来れたと、
感慨深かった。
それにしても、階段がきつかった。 途中、
ゼイゼイと息が苦しくなり、何度も休憩していた。
バスガイドという仕事をやっていたこともあり、
お寺の階段なんて、しょっちゅうパンプスで
ひょいひょい上がっていたのに。
小説家になり体力が無くなったのと、何より加齢、
そして更年期障害かもしれないと思い込んでいた。
あとになって気づいたが、これはまさに翌日倒れる
重要な兆候だったのに。 今年に入ってから、
「更年期障害」らしき症状がいくつか顕著になり、
動悸息切れ、階段がしんどい、怠い、浮腫む……
それらを市販されている漢方薬や更年期の薬など
を飲んでごまかしていた。
なんでもかんでも更年期のせいにしていた。
自分の体は自分でメンテナンスできると思っていた
那智大社でお詣りをしたあと、ベンチに腰掛けて
スマホを眺めると、
「ダチョウ倶楽部」の上島竜平さんが亡くなった
というニュースが目に飛び込んで、「え?」と
声が出そうになる。
どういうこと? しかも自宅での縊死だという。
SNSには衝撃と悲しみの声が溢れている。
日本中が知る、人気芸人の突然の死。
特にファンではなくても、衝撃だ。
身近な人からしたら、想像を絶する喪失感だろう。
なんで? と、混乱を抱えながら、
私は西国三十三か所観音霊場第一番目の札所
である青岸渡寺、そして那智の滝をお参りする。
那智の滝に行くには、石の階段があり、雨だった
せいもあり、降りるときは転ばないように気をつけて
歩き、帰りに上がるときは、さきほどの那智大社の
参道と同じく、何度も休憩しながら階段をあがった。
更年期って、しんどいなぁ……でも、数年経てば
楽になるとも聞くし……なんて考えながら。
そうしてバスに乗り、紀伊勝浦駅近くで昼食を
食べたあと、「特急くろしお」で大阪まで帰り、
乗り換えて京都の自宅に戻った。
寝る前、足のむくみがすごかったので、
着圧ストッキングを身に着ける。
よく歩いたからなぁと、考えていた。
実はこのむくみこそが兆候だったのにも関わらず、
私はどこまでも能天気だった。 こうして振り返っても、
「バカじゃないのか」と、自分に呆れる。
病院に行くのを先延ばしにしていた とはいえ、
「病院で検査してもらわないとな」とは、以前から
薄っすらと思っていた。
フリーランスになってから、健康診断には
行っていない。
「病気が見つかったら怖い」という気持ちと、
前述のような根拠のない自信があった
。うちの親族は癌で亡くなる人間が多いが、
基本的に弟妹も健康だ。長生きしている親戚も
たくさんいる。
数年前の祖母の法事には、90歳を超えた親戚
だらけだったし、祖母も病気らしきものはせず
94歳で大往生した。
今年に入ってから、つまりは50歳を過ぎてから
のときどき訪れる不調を更年期のせいにしつつ、
どこか恐れてもいた。
正直、仕事がそんな忙しいわけでもなく、
今年に入ってから余裕もあったけれど、
本の刊行予定やら出版イベントやらあるしと、
結局「病院に行く」のを先延ばしにしていた。
たぶん、今回のことがなければ、先延ばし
し続けて、さらに悪化させて突然死していただろう。
そういう意味では、死ぬ前に、倒れてよかった
のかなと、今は思っている。
また、私のように、病院を避けて放置し、取返しの
つかないことになった人も、たくさんいるはずだ。
だからこそ、今回、自分の身に起こった出来事を、
こうして書き残しておこうと決めた。 …
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