先月の記事「南原繁-曲学阿世の徒と呼ばれた元東大学長」でも書いたが、南原は戦死した兵士の崇拝に批判的な見解を述べ、「『真の神』が発見されない限り、人間や民族や国家の神聖化は後を絶たないだろう」と語っていた。対象が一個人、国家問わず明らかに神格化反対論者だが、彼に限らず現代の日本の学界では「神聖化」反対論者が主流となっている。だが、この種の神格化の連続が人類史でもある。
神格化といえば、日本では天皇絶対制の国家神道を思い出される方が多いだろう。天皇は現人神であり、神聖にして犯すべからず存在であった。現代そう考える 者は極右でも稀だろうが、この現人神の一例で日本の宗教の特殊性を糾弾する方は、他宗教における「神格化」の事例や歴史をまるで分かってないと公言してい るのと同じだ。
現人神だが、神道は多神教なので地上における至高の存在は生き神様になるのは当然の流れなのだ。「神」といっても多神教なので、 一神教の「唯一絶対神」とは質や重みが全く違う。徳の高いと思われる生きた聖者信仰は現代もヒンドゥーで盛んに行われており、功徳のある行者が死後聖人と 格上げされるのも珍しくない。8年前の日本公開時、ヒットしたインド映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」で、主人公は花で飾られたM.ガンディーの肖像画にさらに花を捧げていた冒頭を見れば、もはや神さま同然となっているのが分かる。七福神 の布袋など、元は中国僧だった。
一方、一神教のキリスト、イスラム圏もこの種の「神格化」と無縁ではない。一神教なので人間は「神」と はなれず、ローマ法王やカリフは「神の代理人」だが、それでも教義の建前と裏腹に一般庶民と対等の存在どころか、完全な雲の上の人である。これまた建前は イスラムに職業化した聖職者はいないとムスリムは主張するものの、異教徒はもちろん一般のムスリムさえ信じないだろう。徳の高い“聖職者”は死後聖人とな り、華麗な霊廟まで作られ、善男善女が列を成して巡礼に訪れる。個人崇拝はイスラムの教義に背くとして、1805年メディナにあったムハンマドの墓廟を破 壊したワッハーブ派などは、むしろ例外。「神と国王のために死ぬ」を世界で最も実践していたのはイギリスだが、日本の国家神道にも影響を与えたのは確実だ。
宗教否定の共産圏くらい、共産党指導者への「神格化」が激しいところもなかった。洋の東西問わず町の中心の広場に仰々しい名称を付け、「偉大なる領袖」といった称号付きの巨大で美的価値もない彫像を据えるのが恒例となっていたのだから。
何故人間はある対象を神格化するのだろう?雲の上の人と化した特権階級も崇拝したがるのか?『ローマ人の物語』(塩野七生 著)12巻に実に人間の本性をついた箇所がある。
「いわゆる「貴種」、生まれや育ちが自分とはかけ離れている人に対して、下層の人々が説明しようのない敬意を感じるのは、それが非合理だからである。多くの人にとってより率直に胸に入ってくるのは、合理的な理性よりも非合理的な感性のほうなのだ」
人間は対等の存在に親しみは感じても、畏敬は感じないものなのだ。同等もしくは下の者には敬意など絶対払わない。平等を口にする人は、果たして自分より下 の者との平等を望む方がどれだけいよう。己の手が届かない存在だからこそ敬意を感じ、「神格化」の基礎が形づくられる。
聖職者や国王ばかりでなく、カリスマと崇められる芸能人も多数いるが、これもまたある種の「神格化」ではないか。手が届かないお星様だからこそ、スターとなれる。
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神格化といえば、日本では天皇絶対制の国家神道を思い出される方が多いだろう。天皇は現人神であり、神聖にして犯すべからず存在であった。現代そう考える 者は極右でも稀だろうが、この現人神の一例で日本の宗教の特殊性を糾弾する方は、他宗教における「神格化」の事例や歴史をまるで分かってないと公言してい るのと同じだ。
現人神だが、神道は多神教なので地上における至高の存在は生き神様になるのは当然の流れなのだ。「神」といっても多神教なので、 一神教の「唯一絶対神」とは質や重みが全く違う。徳の高いと思われる生きた聖者信仰は現代もヒンドゥーで盛んに行われており、功徳のある行者が死後聖人と 格上げされるのも珍しくない。8年前の日本公開時、ヒットしたインド映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」で、主人公は花で飾られたM.ガンディーの肖像画にさらに花を捧げていた冒頭を見れば、もはや神さま同然となっているのが分かる。七福神 の布袋など、元は中国僧だった。
一方、一神教のキリスト、イスラム圏もこの種の「神格化」と無縁ではない。一神教なので人間は「神」と はなれず、ローマ法王やカリフは「神の代理人」だが、それでも教義の建前と裏腹に一般庶民と対等の存在どころか、完全な雲の上の人である。これまた建前は イスラムに職業化した聖職者はいないとムスリムは主張するものの、異教徒はもちろん一般のムスリムさえ信じないだろう。徳の高い“聖職者”は死後聖人とな り、華麗な霊廟まで作られ、善男善女が列を成して巡礼に訪れる。個人崇拝はイスラムの教義に背くとして、1805年メディナにあったムハンマドの墓廟を破 壊したワッハーブ派などは、むしろ例外。「神と国王のために死ぬ」を世界で最も実践していたのはイギリスだが、日本の国家神道にも影響を与えたのは確実だ。
宗教否定の共産圏くらい、共産党指導者への「神格化」が激しいところもなかった。洋の東西問わず町の中心の広場に仰々しい名称を付け、「偉大なる領袖」といった称号付きの巨大で美的価値もない彫像を据えるのが恒例となっていたのだから。
何故人間はある対象を神格化するのだろう?雲の上の人と化した特権階級も崇拝したがるのか?『ローマ人の物語』(塩野七生 著)12巻に実に人間の本性をついた箇所がある。
「いわゆる「貴種」、生まれや育ちが自分とはかけ離れている人に対して、下層の人々が説明しようのない敬意を感じるのは、それが非合理だからである。多くの人にとってより率直に胸に入ってくるのは、合理的な理性よりも非合理的な感性のほうなのだ」
人間は対等の存在に親しみは感じても、畏敬は感じないものなのだ。同等もしくは下の者には敬意など絶対払わない。平等を口にする人は、果たして自分より下 の者との平等を望む方がどれだけいよう。己の手が届かない存在だからこそ敬意を感じ、「神格化」の基礎が形づくられる。
聖職者や国王ばかりでなく、カリスマと崇められる芸能人も多数いるが、これもまたある種の「神格化」ではないか。手が届かないお星様だからこそ、スターとなれる。
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ある個人を神格化するのは、人間という、最も身近で、コミュニュケーションをとれるものを媒体としたかったため。偶像崇拝と、ほとんど同じような気がします。スターの神格化は、まさに偶像(アイドル)崇拝ですね~。
今回も的外れかもしれませんが。スポーツの世界でも神格化は少なくないですね。例えば、野球の打撃の神様といえば、日本は川上哲治、米国はテッド・ウィリアムスです。サッカーではペレやジーコも神と呼ばれます。
また、日本限らないと思いますが、祟りや御利益で敬い、神格化された者も少なくないでしょう。日本では天神様は菅原道真ですし、中国の関羽は商売の神様として、信仰されています(後者は中華街でよく拝見されると思います)。
スポーツの世界では素晴らしい功績や技術に対する、最高の賞賛が神なのかもしれません。また、政治や軍事で負けた者(菅原道真は政争、関羽は敗死)の祟りを畏れから、神格化される場合もあるのでしょう。いずれの場合にしろ、崇拝するかどうか個人の心の問題で、他人が批判する類のものではないと思います。
ユダヤ、イスラムは偶像崇拝は厳禁してますが、結局彼らもある特定の人物への神格化を禁止することは出来ません。禁じたら信者とのコミュニケーションは断ち切られてしまうから。神格化をとかく非難する学者先生は、人間性に盲目です。
R・ストーンズは以前、結構聞いてました。クラシックになりましたが「黒く塗れ」が一番好きです。
ちなみに私はクイーン信徒です。
そういえば、スポーツの世界での神様もいましたね。芸術の世界もいる。
むしろ、人間の情としてはこの方が自然です。「真の神」云々言っていた東大元学長は人間の精神をまるで分かっていなかった。これが日本の最高学府の長とは。
共産圏の神格化ほどキ○いものもないですね。共産主義の是非よりも、この思想体制を受け入れた国の精神の方が問題ありなのでは、と感じられます。マオのお隣の国など、宗教、民族、因習、カーストと山ほどの問題を抱えながらも、共産主義が振るわなかったのは興味深いと思われませんか?
神格化といえばカルト宗教は凄いですね。宗教政党のボスにこの言葉は通じないでしょう。
「宗教は個人の私的関心事である。それは政治や国家の問題と混同させてはならない」-M.ガンディー