もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

「ああ、これは私の大事な・・・」 

2016-09-20 18:16:05 | K市での記憶
子どもの頃、病気ばかりしていた私の
看病をしてくれたのは、母方の祖母だった。

祖母はまだ五十代。

小さな医院とはいえ、入院患者さん、看護師さん
そして家族・・・と30人近い人数の
日々の賄いを担当していた。

コマネズミのよう・・・という形容がぴったりで
小柄な祖母は一日中、クルクルと立ち働いていた。

それなのに、苛立ったり不機嫌だったりといった
いかにも「忙しそう」な風情は
私は見たことがなかった気がする。


早くから起きて、まず最初に汲む水を
高い所にある水神(みずがみ)さんに供える。

その後、茶の間の神棚と蔵座敷の仏壇にも供えて
榊や切り花の水も替える。

濡れ縁を小走りに行く途中で朝日が射すと
足を止め、手を合わせて拝む。

「なまんだぶ、なまんだぶ・・・ありがたいの」

大きなガス釜にご飯を炊く片方で
大鍋にお味噌汁を作る。

用意が出来ると、どれも出来たてを
おままごとの道具のような漆器によそって
可愛らしいお膳に載せて、仏壇に供える。

「神さん仏さんは、出来たての湯気を召し上がる」
などと祖父は言っていたけれど
祖母は何も言わず、ただ忙しく
表の台所と奥の蔵座敷の間を行き来した。

その頃には、住み込みの看護師さんたちも起きてきて
手分けして入院患者さんたちに食事を出したり
自分たちも朝ご飯を食べたりして
田舎町の小さな医院の「朝」は始まった。



私がその医院で祖父母と暮らしたのは
昭和30年代の、ほんの7年ほどのことだ。

私が10才の時、両親は姉と私を連れて
金沢に引っ越した。

婿養子だった父は、医院のあとを任せられる人を探し
自分は子どもの頃からの願いだったという
肢体不自由児施設の医者になったのだ。


その後まもなく、祖父は劇症肝炎で急死した。
60歳を過ぎたばかりだった。

それまで寝たり起きたりの生活が長かったのも
「肝臓の具合がずっと良くなかったからだろうなあ」と
後になって、父は語った。

父自身もその頃には慢性肝炎、肝硬変
やがて肝癌という経過をたどりつつあった。

当時の外科系の医者にとっては
職業病のようなものだった。


祖母は、結局医院を畳み
残ったそれまでの家と、隣の県の私たちの家とを
行き来しながら暮らすようになった。

祖母は元々、大声で何かを言い立てたり
言い募ったりするような人ではなかったので
私は、祖母が何を思っているのか
あまり気にかけたことがなかったと思う。

それでも、開業していた頃よりも
家族として一緒に過ごす時間が多くなってみると
祖母と母、或いは祖母と父との関係が
子どもの私の目にも入ってくるようになった。

祖母が、たったひとり生き残った子どもである母を
どれほど大事に思っているか・・・が
私にも少しずつ解ってきた。


日常的には、祖母と母は
毎日「親子喧嘩」?をしているようなもので
それに口を挟むことは誰にもできなかった。

といっても、文句を言っているのは母だけで
祖母は大抵は黙って聞いていて
ごく稀に言葉を返すだけ。

それなのに、それが「喧嘩」であることが
どうして私などにも判ったのだろう。

一方的に文句を言われているように見えて
祖母は決して「可哀想」ではなかった。
(「喧嘩」に「負けて」いたのは
もしかしたら母の方だったかもしれない)


祖母は、父に逆らうようなことは
ほとんどしなかった。

けれど、祖母は父が嫌いなのだということを
私は田舎で一緒に暮らしているときから感じていた。

大人になった今となると
わざわざ言葉にして書くほどのことでもない
世間によくあることだったのだとわかる。

一人娘を「取られた」母親の寂しさから
幼い孫を「抱きしめて」いたかったのだろうということも。
孫は何かの代わり、要するに「モノ」だったのだということも。

すべては遠い昔の話だ。



祖母は晩年、病院に入院したまま亡くなった。
臨終の時、誰も傍には居なかったという。

認知症が進んだこともあったけれど
父の闘病のためもあって
母は祖母を入院させたのだと聞いた。

入院生活が祖母にとって快適な筈がないということは
承知の上での、母の決断だった。

「どうしたらいいのかは誰にもわからない。
でも、決めたことの結果は全部私が担ぐから」


入院した祖母の認知症は進んだ。

たまたまその病院に職を得た姉は
祖母の姿を見ながら
複雑な気持ちになったという。

「もう少し私が面倒見てあげたかった。
もうあとほんのちょっとの期間しか
無理だったかもしれないけど、それでも・・・」

母のやり方に「口出し」することは
姉にも出来なかった。


遠く離れて暮らしていた私が
晩年の祖母に会いに行ったのは
たった一回だけだった。

そのときの祖母の姿は
今も忘れられない。


看護師さんが一々「これは誰?」と
面会に行った私たちを指差すのに
私は苛立っていた。

判らなくてもいいじゃないの。

祖母は私が身近に知っていた頃より
二周りくらい小さく?なっていたけれど
顔色も良く元気そうに見えた。

私たちにも看護師さんにも気を遣っている様子が
昔の祖母のままなので
私はなんだか・・・辛かった。

勿論、祖母は私が誰かなんて判らないし
判らなくて当然なのだ。

あれほど身近に居て、あれほど心配かけて
いつも看病してもらった頃の私は
もうどこにもいないのだから。


最後に、看護師さんは母を指差して聞いた。

「この人、誰かわかる?」

母を見た祖母の目に、パッと
それまで無かった光が灯った。

そして、みるみる涙があふれた。

「ああ、これは私の大事な・・・私の大事な・・・」


名前が出てこなくても、母のことは判っているのが
見ている私たちにもはっきり伝わってきた。

私もしばらく涙が止まらなかった。

母は、祖母にとっては
本当に特別な人なのだということが
よくわかった瞬間だった。


母は、祖母の晩年については
その後ひとことも触れなかった気がする。

「お墓の中まで私が一人で持っていく」と言った通り
何も言わずに、4年前母も亡くなった。




私は、60歳過ぎた今頃になって
自分が性格的に一番似ているのは
あの祖母だ・・・と、思うようになっている。

日の出を見ると手を合わせたくなるのも
周囲の人の言葉に左右されやすい?のも
料理が好きでもないのに、台所に立つことや
洋裁が出来るわけでもないのに、針を持つことが
それほど苦にならないのも
「社会に出たい」と全く思わないのも。

だから、祖母のことを断片だけでも
書けるものなら書きたかった。

でも・・・

やっぱり何も書けなかったと思う。

ごめんね、おばあちゃん。








(2014年11月~2016年9月)
コメント (2)
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