わたしの人生は、長くてもあと10年。
数少ない身内の女性たち(二人の祖母と母親)は
大体80歳前後で亡くなっている。
(母の兄弟姉妹は、皆こどもの頃に
亡くなっているので参考にできない)
「長くても、あと10年」と区切ると
なんだか寿命を知らされたようで(錯覚)
「じゃあ、その間は何をしようかなあ」
わたしの家族(連れ合い)は同い年で
わたしより2ヵ月早く誕生日を迎えた。
その前後によく口にしたのは
「寿命が前もって知らされればいいのに」
なぜかと訊くと
「残り時間がわかっていれば
そのつもりで計画が立てられる。
あと数年なのか、10年あるのか
20年、30年あるならどうしようか…って」
家族は長寿の家系なのだ。
しかも、目標に向かって、計画を立てて
「努力するのが好き」という人。
若い頃からの持病に加えて
加齢による?病気も現れ
それでも前向き。
コップ半分の水は「まだ半分ある」と
考えたい、考えるべきだという人。
わたしは全く違う人種で
「努力」も「向上心」も、いつのまにか
わたしの辞書からは消えている。
前向きな性格とは言い難く、むしろ
過去のことばかり考えているうちに
時が過ぎた… という人。
妙に運命論者なところもあって
重要なコトほど、モノの弾みや
その場の勢いで決めてきた。
これまでも、人生の残り時間なんて
気にしたことはなかった。
「早く人生が終わればいい」とは
こどもの頃から思っていたけど
「長生きしたい(死にたくない)」と
思ったことはなかった。
特に、この10年は
「もう十分、生かしてもらいました」
「ほんとに、もういいんです。十分です」と
寿命を決める存在?に訴えたいような気分だった。
なのに今、「残り時間は長くて10年」なんて
あっけらかんと思う自分。
10年を長いとも短いとも感じない。
ただ「終わりが具体的になったなあ」とだけ。
若い頃にあれほど近く感じた「死」と
高齢になって、着実に近づいてくる「死」とでは
自分の受け止め方だけでなく、「死」の種類も
違うのかもしれない。
仕事をせずに生きてこられたわたしは
身体を酷使せずに済んだ。
命に係わりかねないような持病を
抱えずに済んだのには、それも大きいと思う。
要するに「深刻な苦労はせずに済んだ」
そういう70年だったのだろう。
家族は言う。
「人生ほんとに100年の時代
あと10年で終われるかどうか…(苦笑)
でも、自分で自分のことが決められる
やりたいことがまだ出来る…っていうのは
確かに、あと10年だろなあ」
55年間、身近に暮らしながら
全く違う道を歩いてきた気がするけれど
すれ違いをくりかえして、回りまわって
ちょっとは似た場所に、いつのまにか偶然
たどり着いたみたいで… 可笑しい。
家族はまず手始めに…と
長年勉強してきた英語の仕上げに
外国へ2週間の研修に出かけた。
これで英語はおしまいにして
次は他の外国語をやってみたいと。
そのお陰でわたしは
「100% 好きなように暮らせる」
2週間の休暇を、目下楽しんでいる。
5年前、家族が「ピースボートで世界1周」に出たときは
「貴重な自由時間(3ヶ月!)が出来たのだから
『何か意味のあること』をしたい(しなければイケナイ)」と
源氏物語をせっせと読んだりしたけれど…
自分でもなんだか、檻の中のクマが
ウロウロ歩き回りながら、仕方なく
古典なるモノに挑戦してるような気もした。
「100% 自分の自由だった」とは思えない。
今回の2週間(まだ6日目)は
あのときのような「勉強」要素のない
「ただ楽しく心地よく暮らせる」時間に
なっていると思う。
わたしが自分でそうしたいと思い
そういう時間の使い方、暮らし方を考えた。
どういう理由で、何がきっかけでそう決めたのか
例によって自分ではワカラナイ。
正直に言うと、ただ「そうなった」のだ。
自分でそうしたのだという自覚はあっても。
「70歳になる」というのは、わたしにとっては
そういうことだったらしい。
この後の10年は、果たしてその延長上にあるかどうか…
実のところはわからない。
良いコトばかりが続くはずはないし、かといって
この期に及んで、悪い想像をしてもはじまらない。
「これまでどおり、何があろうと
家族みんなで助け合えますように」
なんのことはない、何歳になろうと
そこだけは変わらないのを再確認して…
今日はここまで。
取りあえず、洗濯物でも取り込もう(^^)