※使用素材 thanks for ORIGIN Designer's Site『Kigen様』
書き認(したた)める想い。
送るわけではなく、告げるでもない。
ただ自分の気持ちに整理をつけたくて、ただ自分の想いを終わらせたくて。
狂おしいほどの感情に自分を見失い、ただ恋焦がれ想い溢れる。
誰かが、自分を呼ぶ。
その名は自分だと分かっている。
なのに返事ができない。
「ちょっと! どうしたんです?」
肩を掴まれ、振り返る。
「墨、零れてます」
言われて見れば、墨を含ませた筆が空中で留まったまま、雫だけが紙に色を落としていた。
「大丈夫ですか!?」
その言葉は自分を案じてくれているものだ。それは分かる。なのに、自分には、この女性が誰だか分からなかった――。
明るい和室だった。
まるで時代劇に使われるような、綺麗で透き通った布が部屋を仕切っている。
その中央、床の間に向かい硯がしつらえてあり、自分はそこに座っていた。磨られた墨は黒々と、光沢を帯びて反射している。
何か、大事なことを書こうとしていた。
そう、誰にも告げられない想いを閉じ込める為に、墨を磨った。そして書く為に、筆を取る。
何を書こうとした。そう、大切な想いを。
声をかけてくれた女性がいぶかしんで、今度は顔を覗きこんでくる。
「あなた誰」
考えるより、先に問いかけてしまった。
彼女の表情は一瞬固まって、そして黙って部屋を出ていった。
結局、誰かは名乗らぬままだ。
あの人はいったい誰だと言うのか…
改めて、筆を取った。
書かなければならないと、何かが告げている。
何を。
そう、大切な想いを。
『あなたを愛している』
そう書いた。
和紙は墨を染み込ませ、文字を形作る。
人は、文字を読む。
想いは伝わる。
否、伝わっては駄目だ。
誰かに気付かれてはならない、この想い。
隠し隠して、隠し続け、そして墓場まで持ってゆく。
白衣を着た、若い男の医師が入ってきた。
「気分がいいようですね。今日は、何を書いているんですか」
優しい言葉だった。
「大切な人への、恋文を」
「そうですか。想いは伝わりそうですか」
いや、駄目だ。想いは伝わってはならない。悲しい気持ちが、心に影を落とす。
「分かりました。では、私がこのお手紙を預かりましょう」
医師はそう言って、書き上げた和紙を指した。
そうだ。それがいい。
「誰にも知られずに、誰にも伝えずに、何処かに葬って下さい」
筆を置き、手紙をたたみ始める。
黒塗りの文箱が、部屋の隅に置いてある。
「あの文箱を、お借りしてもよろしいですか」
「あれは、あなたの大事な人からの贈り物ですよ」
自分への、贈り物…。
あゝ、そうだ。
彼女がくれた。多くの恋文と、濃紫色の花を添えて。
何も知らなかった。
自分を慕ってくれていたなんて。
身を引くことが彼女の幸せだと信じた、あの頃。
こんなに綴った恋文を、何故、一度として出すことをしなかったのか。一度でよかった。たった一度送ってくれたら、我々の人生は変わった筈なのに。
十月。
神は、いらっしゃらない。
神の居られぬその月に、彼女は、その文箱だけを遺し消えた――。
*
「先生。今日の手紙はなんだったんですか」
先程、部屋に入った介護士の女性が聞いてきた。
「恋文だそうですよ」
「最近は、恋文ばかりですね」
脳の記憶が、単調な働きしかできなくなっていく。
「墨を磨ったり、筆を持ったり、彼は充分優秀な患者さんです」
「もしかしたら本当に、叶わなかった恋があるのかもしれませんね」
介護士の言葉に、黙って頷いた。それは間違いないだろう。
終末医療の現場に、長く生きる者は少ない。
彼の脳に生きる女性が、今、彼を生かしている。主人公を演じた自らの人生、その命の幕切れに彼は日々恋を失う。
【了】
※濃紫色‥[のうしいろ]と読みます。
著作:紫草