『君戀しやと、呟けど。。。』

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月にひとつの物語『葉月』

2010-08-22 07:28:59 | short(テーマ)/月にひとつの物語
 逢う魔が時。
 この世は魔界との道を開く――。

 禍々しい程の美しさをそのかんばせに湛え、霧の向こうに浮かぶように在る。
(もう少し此処にいてくれ)
 そう云った心算の声は空に消え、そこに在り尚も消えぬその影に、呑み込まれそうな感覚に囚われ、が、翡翠はやがて瞳を閉じてしまう。
 駄目だ。
 ここで意識が途切れてしまったら、二度と遇うことはない。
 駄目だ。

 しかし駄目だという警鐘は役に立つことはなく、翡翠は眠りに堕ちてゆく…
 次に目覚めることが、果たしてあるのか。もしあるとしたら何年後か。否、何十年、何百何千年後かもしれない。
 その時に、またあの女に遇えるのか。
 忌々しい深い眠りが、人ではない翡翠の意識を呑み込んでゆく…


               * * * * * * * * *

「風がない」
 そう言った自分の言葉が、上手く発音できていないことに気付いた。
「兄さん。帰ろう」
 背を向けて歩く義兄に声をかけた。その言葉すら、何処かに吸い込まれているような感じだった。
「兄さん!」
 和弥は義兄を追いかけ、その右腕を掴んだ。
 霧の深い夜だった。よく知る筈の自分の町が、まるで違うもののように感じた。

 駄目だ。
 この先にあるのは、あの屋敷だ。
 御伽話のように神隠しに遭ったように、行ったきりの戻れない一本道。あの屋敷に足を踏み入れ、戻った者はいないと聞く。
「兄さん。あそこに近付いちゃ駄目だよ。別の道を行こう」
 そうは言ったものの、和弥は義兄が自分を何処へ連れていこうとしているのかを知らなかった。
「兄さん!」
 掴んだ腕を離さぬままに、和弥は義兄の名を読んだ。
「英則兄さん」

 彼は、そこで漸く足を止めてくれた。
「和弥。どうした」
「どうしたじゃないよ。いきなりついて来いって言うだけで何も言わないし、この先の屋敷には近付くなって、この町の暗黙の了解だろ」
 小さな頃、和弥の母親が教えてくれた。この先の道へ行ってはならないと。
「暗黙の了解?」
 英則の小さな呟きが、耳にひっかかる。やっぱり少し変だ。
「何処に行くのか教えてくれないけれど、この道は嫌だよ。きっと姉貴も同じことを言うよ」
 姉というのは今度、この英則と結婚を決めた和弥の八歳違いの姉。
 条件はたった一つ、一緒に住むこと。
 冗談じゃないと言いたかったけれど、両親のいない中学生の和也にそれを拒否することはできなかった。

 英則はいつものように、和弥に微笑みかけた。
 その顔はいつもの彼と何ら変わらないような気がするのに、何処か、神々しいような何かを背負っているような感じがしてしまう。
「和弥。今から話すことは、男同士の話。決して誰にも言わないこと。勿論、君の姉さんにも」
 そう言った英則は、やっぱりあの屋敷へ向かって行こうとする。
 男同士の話。
 和弥には少しだけ秘密めいた、その言葉が恐怖を振り払った。

「和弥。俺はね、あの屋敷から生きて帰ったたった一人の人間なんだ」
 ええええええ~
 という胸の中の叫びは、声にはならなかったようだ。
 曰く付きの例の屋敷に辿りつくと、英則は自分の家のように門をくぐり中に入っていく。
 その姿を見ると、確かにここは彼の知っている場所なのだと思った。

 中に入って、ひとつの部屋に入ると、応接セットのテーブルに一通の手紙が見えた。
 外観の古ぼけた感じからすると、中はそれに反してとても綺麗に掃除がされていて、その置かれた手紙もついさっき置いたもののように見える。
 英則はただ黙ったまま、大きな一つの扉の前に立ったいた。
 和弥は差し当たっての危険はないだろうと思い、少しだけその大きな部屋にある扉を一つずつ見て回り始めた。すると、その中の一つが異様とも思えるほど、冷たく感じるものがある。直接、扉に触れる前から、明らかに冷気を含むその扉に和弥は手を触れるのを躊躇った。

「兄さん」
 顔こそ向けてはくれないけれども、英則に自分の声は届いているようだ。ちゃんと返事が返ってきた。
「ここに来たのは二年振りかな。ここを出た後、区画整理で家が壊されて、でも何故かこの屋敷だけ残された。きっと持ち主が分からなかったんだろう」
 英則は、その扉を開けることもなく、ただそこに佇み話し続けた。
「この手紙に気付いて、中には誰か愛するものができたら一緒に来て欲しいと書いてあった」
 愛する者。
「ええええ~?」
「あの怖がりの姉さんを連れてくるわけには行かないだろ。それに俺も誰かに話したかった。絶対に秘密を守ってくれると思える奴に」
 最初、めちゃくちゃ怖がったくせに、何だか凄くいいこと聞かされてる気がして、ちょっと喜んでしまった。

 和也は英則の言葉を聞きながら、明らかに空気が変わったと思った瞬間のあった扉の前に立ったままだった。
 何だろう。
 でも足が先に進まなかった。結局、英則に声を掛けひとつの扉を指した。

「この扉、何か変だよ」
 そう言って初めて彼はこちらを向き、そこまで歩いていって一気にその扉を開けた――。

「何、これ」
 和也は、素直に思いのままを告げた。
「氷室だよな」
 英則の言葉に思わず反発する。そんな馬鹿な。この暑い愛知の土地で、どうしてエアコンもない部屋に氷室があるんだよ。
 でも彼は躊躇なく、その氷の扉を叩き割った。
 そこに在ったのは、否、居たのは、美しい人だった。
「兄さん。あの手紙、中身何て書いてあったの?」
「其処に残るものを助けてくれ、と」

 氷室の奥に居た人は、一人の名を口にした。すると英則が、思いもかけないことを言う。
「魔木子は死んだよ。多分、向こうのあの風鈴の鳴る部屋で横たわっているんじゃないかな。俺には見えないけれど、君になら見えるかもしれない」
「死んだ」
「俺らの世界では、消滅なんてことはないから。人は寿命がくれば死ぬんだ」
 美しいその人には、死ぬということが理解できないのか。
 英則は、和弥には意味不明のことを話し続けた。ただ分かったこともある。彼の名は“翡翠”といい、魔木子という人の為にこの氷室に入った。本来なら未来永劫、出ることのない約束だった。


 翡翠は、建物のなかにあって、更に風の吹かない筈の部屋の風鈴の音色を響かせていた扉の前に立った。そして改めて、風鈴の音を響かせ扉を開ける。
「和弥。走るよ。きっと、あの扉が開けば、この屋敷は崩れ落ちるから」
 意味を理解する時間はなかった。英則は和弥の手を取ると、走り始めた。

「和弥」
 全力で走って、もう無理だと思う時になって英則は足を止め名を呼んだ。
 でも返事なんてできたもんじゃない。ただ頭を軽く、振るだけで意思表示をする。さすがスポーツやってる人とは体力に差がありすぎる。
「ここは、もう消えるよ――」
 そう始めた英則の話は、和弥にとっては御伽話かSFかと思うようなものだった。
※使用素材 thanks for ORIGIN Designer's Site『Kigen様』

 でも英則は言った。
「これで魔木子の最後の望みを叶えてやれた」
 と。
 それは、あの翡翠を解放してやることだったのか。それとも消滅させてしまうことだったのか。
 でも、そんなことはどうでもいいような気がした。英則が自分を男と見込んでくれたから。男同士の秘密を持てたことが和弥を大人にした。
「兄さん。秘密なんだよね。この屋敷のことも、あの翡翠って人のことも、兄さんの子供の頃の話も全部」
 彼は、声には出さず、あゝと答えた。

 消えた筈の風鈴の音が、何処からか聞こえてきたような気がした。
 あの屋敷のものかどうかは分からない。
 でも和弥は、あの屋敷で鳴り響く、最後の音色のような気がした。


               * * * * * * * * *

 逢う魔が時。
 この世は魔界との道を開く。

 ただ人は、近付いてはならないその道を知らない――。
 今日もまた、新しき誰かが魔界へと攫われるのかもしれない。
                      【了】
                       著作:紫草

*このお話には、もとになった「英則」と「魔木子」のお話があります。
HP「孤悲物語り」より
novel『月宮星』表紙 別窓で開きます。
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