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昭和初期。満州事変の勃発で日本は再びの大戦景気が望まれている。
部屋にいるのは独りきり。
それでも眞綺が動けば空気も動く。格子の向こうに見えるのは、今宵の昏い空ばかりーー。
深窓の令嬢と言われれば聞こえはいいが、決してそうではない。父には本妻がいて、その人は母ではない。長く子宝に恵まれず、外腹の子である眞綺が本宅の離れに閉じ込められるように暮らし始めて早三年(みとせ)。彼女も一五になっていた。
引き取る時の条件で、いつか婿養子を取り財閥の仕事を補佐することになっている。継がせるとは言われていない。そこが父のずる賢いところなのだろう。
日本で初めて物産と名付けられた商社で、しぶとく生き抜く姿は軍人とはまた違った意味で力を持つ男だ。祖父以上の遣り手だと聞き、素直に納得してしまった。
武藤眞綺が初めて本宅に来たのは小学六年の夏だった。翌年、尋常小学校を卒業する前にと連れてこられた。冬休みには高等女学校への入学が約束されそのまま本宅へ引っ越すことになった。
屋敷には父の両親、つまり祖父母と婚家から戻ったばかりの叔母もいた。眞綺を引き取る話を知らされていなかった叔母は自分が婿を取ると言い張った。様々な言葉が投げられたが、まだ子供だった眞綺にその意味は殆んど通じず叔母の品のなさだけを記憶する結果となった。
その昔、眞綺の母は流行りのカフェで女給をしており、そこで父に見初められたらしい。子供心にも両親の立場は理解していたので、詳しい話を聞いたことはない。
継母には虐められるという先入観でもあったのか、父は当初から本妻に眞綺の世話をさせなかった。奉公人も多かったため、誰にというわけでなく皆に構ってもらったように思う。そして可愛がってもらった。
眞綺は素直な子供だったから。皆が愛おしいと思ってしまう少女だったから。
祖父母も最初こそ厳しく言われたが、眞綺を知るにつけ次第に甘やかすようになっていった。そんな眞綺もまた皆を慕う女の子だった。
この日は珍しく帰宅の早い父を囲み、勢揃いでの夕食となった。
そこで父から眞綺の見合いについて伝えられる。相手の名前しか分からないが、その人は翌日には家に入るという。正式な結納や式が挙げられるのかは分からない。父の言葉は絶対だ。その人の部屋を翌日までに用意しておくよう命じられ話は終わった。
こんなに突然、決まるものなのだと思った。
外腹の子は披露目も必要ないということか。このまま夫という人がやってきて気にいらなければ追い出すのだろう。そこに父以外の意思が考慮されることはない。
食卓に残っていた眞綺に、祖父がソファにくるよう呼んでくれた。
「絲弥はあれでも眞綺を可愛がっているよ。だから安心して相手を待つといい。私も知っているが、いい漢だよ」
祖父の言葉は優しかった。祖母はとっておきのお茶を点ててくれた。きっと二人とも眞綺を気遣っている。
「大丈夫です。私は自分の役目を果たしとう存じます」
そう言うと二人とも頷きながら頭を撫でてくれた。
嫁ぐわけではない。今も居候のような感覚があるものの、それでも知らないところではないのだ。
孝貴という名のその人は、東京帝国大学をこの春に卒業。大学院に進む話のあった時に父が会社に招いたという。始めから婿養子候補だったのかは分からない。
しかし秋になるまで父の下で修行したのだから、お眼鏡に適ったということだろう。
寫眞の一枚もないというのが父らしいということか。祖父のお蔭で気持ちが随分穏やかになっていた。
離れに戻り、庭に向く一面の窓を開く。
今宵は朔。見上げても星の回りに月はない。
夏とは違い、秋らしい風が頬をなでてゆく。昼間はまだ残暑に悩まされるというのに、夜は確実に季節を運ぶ。
そんなことを考えていた時だった。
暗夜のなかに人影を見た気がした。
「闇夜に烏、の筈だったのですが」
闇からの声は若い男だった。
「何故、此処に入ることができたのでしょう」
常に冷静あれ、と教えられたことはこんな時も生きていた。よく考えれば、門番の前を通らなければ此処には来られない。そこで冷静になれ、と自分に言い聞かせ考える。
分からない…
では聞いてしまえ、ということで聞いてみた。どうやって入ってこられたのかを。しかし返事はなかった。
「初めまして。矢木孝貴と申します。どうやら貴女の婿候補のようです」
何となく予感はあった。こんな奥まった離れに人が住んでいるなんて、教えてもらわなければ分かる筈がない。
「父が引き入れたのでしょうか」
その問いに、まさかと即答される。では、何故此処にいるのだろう。
「先に帰ると言って隠れていました。姿だけ見たら帰る心算だったのですが、思いがけず見つかってしまいました」
孝貴の声は心地よく耳に残る。黒い影は星明かりだけでは殆んど何も見えないのと同じ。彼には眞綺の姿は見えているのだろうか。部屋の灯りは背に受けている。
「今宵はこれで引き上げましょう。明日、ゆっくりと貴女の御尊顔を拝します」
影はそのまま闇に消えた。
このことを眞綺は誰にも話す心算はなかった。
嘘をついているかもしれない。野蛮な輩かもしれない。それでも全てを言いなりになるしかない自分にとって、漸く持つことの許された小さな秘密だったから。
今宵の朔に感謝するとしよう。
明日には全てが明らかになる。どんなに繕っても、その身から漂った匂いまでは変えられないだろうから。
部屋に戻り窓掛けを引く。
祖父が手渡してくれた一枚の寫眞には、制服に身を包む孝貴の姿が写っていたーー。
【了】 著 作:紫 草
続編 ~雁渡し、受けて立ち~