
△ユーゴスラビアに入った途端、荒涼とした大地に変わり寂しさが漂う
ユーゴスラビア・ヒッチの旅(荒涼とした原野を越えて)
・昭和43年11月23日(土)晴れ(社会主義国・ユーゴスラビアに入る)
*参考=ユーゴの1Dinar(ディナール)は25円、1Para(パラ)は25銭
歴史あるトリエステの町から道幅の狭い石畳の道路を国境に向かって歩いた。両側は、古い建物が建ち並んでいて、ユーゴスラビア(正式名称はユーゴスラビア社会主義連邦共和国。以後「ユーゴ」と言う。)へ行く主要道路であるが、走っている車は無かった。
道は上り坂になっていて、その途中、小さな食料品店があった。お昼用のパンを買おうと思い、店に入った。その店は田舎の商いで、店内は薄暗かった。声を掛けたら奥から出て来たおばさんは私を見た途端、「店から出て行け」と言った様な大声と素振りで、売るのを断られてしまった。
如何しておばさんは、あんな態度を取ったのであろうか。私の身なりを見てお金が無さそうに見えたのか、物乞い者に見えたのか、強盗の類に見えたのか、はたまた、私が東洋人であるが故の偏見からだったのか。それは、まるでマルセイユで受けた感じと同じで、嫌な感じであった。如何して人間は身なりや、服装、或は人種偏見で人を判断するのか。又、乞食の様に何か恵んで貰いたく、店に入ったのではないのだ。食料品を買うぐらいの金は持っているのに、外見だけであしらわれるのは悔しかった。しかし天気は良いし、気持だけは晴ればれであった。私は国境に向けて歩を進めた。
国境までもう少しと言う所で、1台の乗用車が遣って来た。その車に乗せて貰った。イタリアの出入国管理事務所もユーゴの出入国管理事務所も旅券を見せるだけで、出国、入国が出来た。社会主義国ユーゴは、出入国に関して西ヨーロッパと同様に、思ったより簡単であった。国境を越えて500m程走って、私は降ろされてしまった。このドライバーはここに用事があって来たので、先には行かないとの事であった。私は折角乗せて貰ったので、多いに長距離を期待したのであったが、国境を車で越えただけで、1キロも乗っていなかった。。それならドライバーは、如何して私を乗せたのであろうか。500mでも1キロでも乗せたかったのか、冷やかしであったのか。これから先の旅が案じられた。
所で、私はソ連のナホトカからハバロスク、モスクワ、レニングラードを見聞して来た。従ってある程度、社会主義国について理解しているので、ユーゴに於いてもそれ程変わりないと思っていた。ユーゴは社会主義国だから、ヒッチの旅も今までの西ヨーロッパの様に全ての面で上手く行かどうか不安もあり、且つ、ある意味で苦しいと言うか、厳しい旅になるであろう事は感じ取っていた。
とにかく、私はユーゴの国境の小さな村に入った。両替所でイタリアのお金リラを多少持っていたので、ユーゴのディナールに変えた。そして近くの共同マーケット(個人経営ではなさそうであった)に入り、お昼用にパン1個(固いパンでコッペパンの2倍程の大きさ)とユーゴ産の瓶詰めジャムを買った。周りの買い物客は、日本人(東洋人)が珍しいのか、それとも私の旅姿が面白いのか、私に視線を注ぎ、買い物している間、私は注目の的になってしまった。それは、彼等の嫌悪感から来るものでないから、私も嫌な感じがしなかった。
マーケットからブラブラと歩き、直に家も見当たらない街道に来た。その先は、車が走って無い1本のアスファルト道路が一直線に伸び、そして見渡す限りの原野が広がっていた。そこは国境から距離にして1キロもない、西ヨーロッパの光景とまったく違っていた。冷たい風が草木を揺らし、何か果てしない荒涼とした原野の真っただ中に放り出された様で、寂しさ、不安さが沸いて来た。
車が来るまで道の端に腰を下ろし、先程買ったパンにジャムを付けて昼食を取る事にした。苺ジャムの美味しい味がするパンが、私の喉から胃の中に入って行った。日本の甘みのある水っぽいジャムではなく、濃い苺そのままの味であった。
ここに来て初めて車が近づいて来た。今度いつ通るか分らないので、立ち上がって願いを込めてヒッチ合図をした。しかし、私の願いと裏腹に、車は通り過ぎて行った。又、腰を下ろし、パンを食した。冷たい風が、『ヒュー』と鳴って草木を騒がせ、いっそう荒涼としたものを感じた。忘れた頃に又、車が来たが、そのまま素通りして行ってしまった。1時間経っても2時間経ってもゲット出来なかった。お昼を過ぎたばかりにも拘らず、既に夕方の感じがして来て、寂しさも一段と増して来た。
『もし今日、車が止まらず、次の町まで行けなかったら何処に泊まれば良いか』
『国は広いし、次の町まで歩いて行くには途方もなく遠い。歩いて行ける訳がない』
『それでは、この国境の村に泊まる所があるのか。どう見ても、そんな宿泊施設がある感じではなかった』
『それでは歩いて国境を渡り、トリエステへ戻るのか』
昼を過ぎたばかりで、既にこんな事を考え始めた。そんな状況だが、気持だけは愚図愚図しておれない心境であった。じっとしていると焦りだけが先に出てしまっていた。旅費の心細さが、不安を煽っていた。
それでも私は、いつ来るとも分らない車に期待しながら、道路端で待った。すると1台の車が又、国境方面から来た。これを逃したら、今度いつ来るのか分らない、『必死の思いでヒッチ合図』を送った。大きな魚が掛かった手応えを感じて、ググッと車を手元に引き寄せた。止まってくれたのだ。すかさず、「Ljubljana(リュブリャーナ)までお願いします」と言ったら、OKの言葉があった。私は、『助かった』との思いで一杯であった。これで先に進めるのだ。じっとしているのは、堪らないので本当に有り難かった。
ドライバーは、ギリシャ人の神父さんであった。それにしても走っている車は、本殆んど無かったが、道は良く整備され、快適なドライブになった。
神父さんが、「昼食を食べたか」と言うので、「まだです」と答えると、チキンとパンを出してくれた。肉を食べるのは久し振り、栄養を付けさせて貰った。
それほど高い山ではないが、山岳地帯に入ると雪が積もっていた。車は野を越え、山を越え、快適なドライヴであった。国境の村はずれで、あれ程色々な事を心配し、不安な状況が嘘の様に何処かへ飛んで行ってしまった。いつもヒッチの旅は、そんな状況、心境変化の繰り返しであった。
いつしか車は、リュブリャーナ(スロベニア共和国の首都)に入った。神父さんは、「今日はZagreb(ザグレブ)まで行く」と言うので、私も願ったり叶ったりで便乗させて貰った。実際に今日、ザグレブまで行けると思ってもいなかったので、内心は大喜びであった。
車内から見るユーゴの家々は、西ヨーロッパより一目瞭然に貧しく見えた。又、リュブリャーナは、それなりの都会的であったが、街の中はやたらと多くの警察官や兵隊の姿が目に付き、何となく暗い感じ(ソ連と同じ共産圏の重苦しさ)がした。
リュブリャーナを過ぎ、快適なドライヴが続いた。夕方、トリエステから約250キロ進んだザグレブに到着した。街の中央で下ろして貰い、感謝の気持で神父さんに絵葉書1枚を渡した。
ザグレブは、クロアチア共和国の首都。ユーゴでは、第2の都市で街は、流石に大きかった。歴史を積み重ねた様な古い石造りの建物が整然と両側に建ち並んでいた。世界第二次大戦中、ユーゴはドイツに侵略され、至る所破壊されたと聞いていたが今、車や目抜き通りを歩いて見て、そんな感じは全く無かった。
しかし土曜日なのに、そして大都会なのに大通りに人影はまばら、街の様子は静かであった。逆の言い方をすれば活気が全く無く、経済・商業活動が滞っている感じがした。
大通りを歩いている数人に安いホテルを尋ねたが、英語が全く通じなかった。暫らくの間、街の中をウロウロせざるを得なかった。そうしたら、向こうから歩いて来た中年女性から、「Can I help you?」と声を掛けられた。私は「はい、安いホテルを捜しているのです」と言うと、彼女は近くにある建物を教えてくれた。教えられたその建物へ行ったら、BOAC(英国航空会社)の事務所に入ってしまった。突然、私が入って来たので皆もビックリとした様な、或は、怪訝そうな顔付きで私を見た。場所違いであったか、何も尋ねず出て来てしまった。
その建物を出ると直ぐに、ユーゴの紳士が近づいて来た。私が尋ねもしないのに彼は、安いホテルとレストラン(両方とも街の中央付近のメイン通りにあった)を教えてくれて、そこまで案内してくれた。両方ともBOACから割りと近かった。でも如何して彼は、私が願っている事が分ったのであろうか、不思議でならなかった。ユーゴ人は愛想が良く親切な人がいて、好きになれそうな国である感じがした。
案内されたのはホテルでなく、ペンションであった。1室4~5人が寝られるのに宿泊者は、私1人であった。宿泊のみの値段は、13ディナール(330円)、値段の割に部屋やベッドは上等であった。荷物を部屋に置き、教えて貰った近くのレストラン(実際はカフェテリアであった。色々な料理が並べられ、自分の好きな物をお盆に取って、最後にお金を払うシステム。この様な店は日本にまだ無かった)へ夕食を食べに行った。店は、7割程度お客さんが入っていた。私が入った途端、皆の視線を感じたが、意に介さずテーブルに着いて食べた。久し振りに美味しい料理を腹いっぱい食べて、11ディナール(280円)であった。これは確かに安かった。
カフェテリアを出てペンションへ真っ直ぐ帰ったが、ユーゴ第2の都市・ザグレブの中心街は、官庁街ではないのに午後7時半を過ぎたかどうかの時間帯で全ての通りは、既に人の気配が無く、静まり返っていた。まさに「不気味」と言う言葉が当てはまる状態であった。大都会の土曜日の夜と言えば、色々な意味で街は、活気付くものなのに、まるで正反対の寂しい感じがした。しかも、広告等商業的ネオンも無いので街全体が暗く、あたかも真夜中の様であった。1口で言えば、ソ連と同じ印象を受けたが、それは無理もなかった。私は今まで西ヨーロッパの資本主義諸国にいたのに、急に社会主義国へ入ったので、余計にその様に感じた。いずれにしても、社会主義国に対してマイナス的ないメージを持っているのは、むしろ私を含めて我々が知らない内に資本主義的ブルジュア思想にタップリ侵されているからであろうか。一夜の憂さを晴らす華やかな、或は賑やかな歓楽街のバー、キャバレー等の飲み屋街、「お客様は神様です」と言い含め、人間の欲望を逆手に取って無きなしのお金を吸い取る商業的行為、及び繁華街等々の存在。我々勤労者・労働者にとって、それらの存在が本当に価値ある、幸せになる条件であるのか。
明日も何が起こるか、どんな旅になるのか分らないのだ。難しい事を考えず、早め(9時前に寝たのは外国に来て始めて)に寝る事にした。
・昭和43年11月23日(土)晴れ(社会主義国・ユーゴスラビアに入る)
*参考=ユーゴの1Dinar(ディナール)は25円、1Para(パラ)は25銭
歴史あるトリエステの町から道幅の狭い石畳の道路を国境に向かって歩いた。両側は、古い建物が建ち並んでいて、ユーゴスラビア(正式名称はユーゴスラビア社会主義連邦共和国。以後「ユーゴ」と言う。)へ行く主要道路であるが、走っている車は無かった。
道は上り坂になっていて、その途中、小さな食料品店があった。お昼用のパンを買おうと思い、店に入った。その店は田舎の商いで、店内は薄暗かった。声を掛けたら奥から出て来たおばさんは私を見た途端、「店から出て行け」と言った様な大声と素振りで、売るのを断られてしまった。
如何しておばさんは、あんな態度を取ったのであろうか。私の身なりを見てお金が無さそうに見えたのか、物乞い者に見えたのか、強盗の類に見えたのか、はたまた、私が東洋人であるが故の偏見からだったのか。それは、まるでマルセイユで受けた感じと同じで、嫌な感じであった。如何して人間は身なりや、服装、或は人種偏見で人を判断するのか。又、乞食の様に何か恵んで貰いたく、店に入ったのではないのだ。食料品を買うぐらいの金は持っているのに、外見だけであしらわれるのは悔しかった。しかし天気は良いし、気持だけは晴ればれであった。私は国境に向けて歩を進めた。
国境までもう少しと言う所で、1台の乗用車が遣って来た。その車に乗せて貰った。イタリアの出入国管理事務所もユーゴの出入国管理事務所も旅券を見せるだけで、出国、入国が出来た。社会主義国ユーゴは、出入国に関して西ヨーロッパと同様に、思ったより簡単であった。国境を越えて500m程走って、私は降ろされてしまった。このドライバーはここに用事があって来たので、先には行かないとの事であった。私は折角乗せて貰ったので、多いに長距離を期待したのであったが、国境を車で越えただけで、1キロも乗っていなかった。。それならドライバーは、如何して私を乗せたのであろうか。500mでも1キロでも乗せたかったのか、冷やかしであったのか。これから先の旅が案じられた。
所で、私はソ連のナホトカからハバロスク、モスクワ、レニングラードを見聞して来た。従ってある程度、社会主義国について理解しているので、ユーゴに於いてもそれ程変わりないと思っていた。ユーゴは社会主義国だから、ヒッチの旅も今までの西ヨーロッパの様に全ての面で上手く行かどうか不安もあり、且つ、ある意味で苦しいと言うか、厳しい旅になるであろう事は感じ取っていた。
とにかく、私はユーゴの国境の小さな村に入った。両替所でイタリアのお金リラを多少持っていたので、ユーゴのディナールに変えた。そして近くの共同マーケット(個人経営ではなさそうであった)に入り、お昼用にパン1個(固いパンでコッペパンの2倍程の大きさ)とユーゴ産の瓶詰めジャムを買った。周りの買い物客は、日本人(東洋人)が珍しいのか、それとも私の旅姿が面白いのか、私に視線を注ぎ、買い物している間、私は注目の的になってしまった。それは、彼等の嫌悪感から来るものでないから、私も嫌な感じがしなかった。
マーケットからブラブラと歩き、直に家も見当たらない街道に来た。その先は、車が走って無い1本のアスファルト道路が一直線に伸び、そして見渡す限りの原野が広がっていた。そこは国境から距離にして1キロもない、西ヨーロッパの光景とまったく違っていた。冷たい風が草木を揺らし、何か果てしない荒涼とした原野の真っただ中に放り出された様で、寂しさ、不安さが沸いて来た。
車が来るまで道の端に腰を下ろし、先程買ったパンにジャムを付けて昼食を取る事にした。苺ジャムの美味しい味がするパンが、私の喉から胃の中に入って行った。日本の甘みのある水っぽいジャムではなく、濃い苺そのままの味であった。
ここに来て初めて車が近づいて来た。今度いつ通るか分らないので、立ち上がって願いを込めてヒッチ合図をした。しかし、私の願いと裏腹に、車は通り過ぎて行った。又、腰を下ろし、パンを食した。冷たい風が、『ヒュー』と鳴って草木を騒がせ、いっそう荒涼としたものを感じた。忘れた頃に又、車が来たが、そのまま素通りして行ってしまった。1時間経っても2時間経ってもゲット出来なかった。お昼を過ぎたばかりにも拘らず、既に夕方の感じがして来て、寂しさも一段と増して来た。
『もし今日、車が止まらず、次の町まで行けなかったら何処に泊まれば良いか』
『国は広いし、次の町まで歩いて行くには途方もなく遠い。歩いて行ける訳がない』
『それでは、この国境の村に泊まる所があるのか。どう見ても、そんな宿泊施設がある感じではなかった』
『それでは歩いて国境を渡り、トリエステへ戻るのか』
昼を過ぎたばかりで、既にこんな事を考え始めた。そんな状況だが、気持だけは愚図愚図しておれない心境であった。じっとしていると焦りだけが先に出てしまっていた。旅費の心細さが、不安を煽っていた。
それでも私は、いつ来るとも分らない車に期待しながら、道路端で待った。すると1台の車が又、国境方面から来た。これを逃したら、今度いつ来るのか分らない、『必死の思いでヒッチ合図』を送った。大きな魚が掛かった手応えを感じて、ググッと車を手元に引き寄せた。止まってくれたのだ。すかさず、「Ljubljana(リュブリャーナ)までお願いします」と言ったら、OKの言葉があった。私は、『助かった』との思いで一杯であった。これで先に進めるのだ。じっとしているのは、堪らないので本当に有り難かった。
ドライバーは、ギリシャ人の神父さんであった。それにしても走っている車は、本殆んど無かったが、道は良く整備され、快適なドライブになった。
神父さんが、「昼食を食べたか」と言うので、「まだです」と答えると、チキンとパンを出してくれた。肉を食べるのは久し振り、栄養を付けさせて貰った。
それほど高い山ではないが、山岳地帯に入ると雪が積もっていた。車は野を越え、山を越え、快適なドライヴであった。国境の村はずれで、あれ程色々な事を心配し、不安な状況が嘘の様に何処かへ飛んで行ってしまった。いつもヒッチの旅は、そんな状況、心境変化の繰り返しであった。
いつしか車は、リュブリャーナ(スロベニア共和国の首都)に入った。神父さんは、「今日はZagreb(ザグレブ)まで行く」と言うので、私も願ったり叶ったりで便乗させて貰った。実際に今日、ザグレブまで行けると思ってもいなかったので、内心は大喜びであった。
車内から見るユーゴの家々は、西ヨーロッパより一目瞭然に貧しく見えた。又、リュブリャーナは、それなりの都会的であったが、街の中はやたらと多くの警察官や兵隊の姿が目に付き、何となく暗い感じ(ソ連と同じ共産圏の重苦しさ)がした。
リュブリャーナを過ぎ、快適なドライヴが続いた。夕方、トリエステから約250キロ進んだザグレブに到着した。街の中央で下ろして貰い、感謝の気持で神父さんに絵葉書1枚を渡した。
ザグレブは、クロアチア共和国の首都。ユーゴでは、第2の都市で街は、流石に大きかった。歴史を積み重ねた様な古い石造りの建物が整然と両側に建ち並んでいた。世界第二次大戦中、ユーゴはドイツに侵略され、至る所破壊されたと聞いていたが今、車や目抜き通りを歩いて見て、そんな感じは全く無かった。
しかし土曜日なのに、そして大都会なのに大通りに人影はまばら、街の様子は静かであった。逆の言い方をすれば活気が全く無く、経済・商業活動が滞っている感じがした。
大通りを歩いている数人に安いホテルを尋ねたが、英語が全く通じなかった。暫らくの間、街の中をウロウロせざるを得なかった。そうしたら、向こうから歩いて来た中年女性から、「Can I help you?」と声を掛けられた。私は「はい、安いホテルを捜しているのです」と言うと、彼女は近くにある建物を教えてくれた。教えられたその建物へ行ったら、BOAC(英国航空会社)の事務所に入ってしまった。突然、私が入って来たので皆もビックリとした様な、或は、怪訝そうな顔付きで私を見た。場所違いであったか、何も尋ねず出て来てしまった。
その建物を出ると直ぐに、ユーゴの紳士が近づいて来た。私が尋ねもしないのに彼は、安いホテルとレストラン(両方とも街の中央付近のメイン通りにあった)を教えてくれて、そこまで案内してくれた。両方ともBOACから割りと近かった。でも如何して彼は、私が願っている事が分ったのであろうか、不思議でならなかった。ユーゴ人は愛想が良く親切な人がいて、好きになれそうな国である感じがした。
案内されたのはホテルでなく、ペンションであった。1室4~5人が寝られるのに宿泊者は、私1人であった。宿泊のみの値段は、13ディナール(330円)、値段の割に部屋やベッドは上等であった。荷物を部屋に置き、教えて貰った近くのレストラン(実際はカフェテリアであった。色々な料理が並べられ、自分の好きな物をお盆に取って、最後にお金を払うシステム。この様な店は日本にまだ無かった)へ夕食を食べに行った。店は、7割程度お客さんが入っていた。私が入った途端、皆の視線を感じたが、意に介さずテーブルに着いて食べた。久し振りに美味しい料理を腹いっぱい食べて、11ディナール(280円)であった。これは確かに安かった。
カフェテリアを出てペンションへ真っ直ぐ帰ったが、ユーゴ第2の都市・ザグレブの中心街は、官庁街ではないのに午後7時半を過ぎたかどうかの時間帯で全ての通りは、既に人の気配が無く、静まり返っていた。まさに「不気味」と言う言葉が当てはまる状態であった。大都会の土曜日の夜と言えば、色々な意味で街は、活気付くものなのに、まるで正反対の寂しい感じがした。しかも、広告等商業的ネオンも無いので街全体が暗く、あたかも真夜中の様であった。1口で言えば、ソ連と同じ印象を受けたが、それは無理もなかった。私は今まで西ヨーロッパの資本主義諸国にいたのに、急に社会主義国へ入ったので、余計にその様に感じた。いずれにしても、社会主義国に対してマイナス的ないメージを持っているのは、むしろ私を含めて我々が知らない内に資本主義的ブルジュア思想にタップリ侵されているからであろうか。一夜の憂さを晴らす華やかな、或は賑やかな歓楽街のバー、キャバレー等の飲み屋街、「お客様は神様です」と言い含め、人間の欲望を逆手に取って無きなしのお金を吸い取る商業的行為、及び繁華街等々の存在。我々勤労者・労働者にとって、それらの存在が本当に価値ある、幸せになる条件であるのか。
明日も何が起こるか、どんな旅になるのか分らないのだ。難しい事を考えず、早め(9時前に寝たのは外国に来て始めて)に寝る事にした。
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