YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

旅をしていると色んな人と出逢うものだ~ギリシャのヒッチの旅

2021-12-06 10:22:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・昭和43年11月29日(金)~12月6日(金)(アテネ滞在と今後の旅程)
 私は今後の旅について、来た道を戻ってテッサロニキからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、マレーシア、タイを経由してシンガポールへ旅立つべきか、或いは寄り道してIsrael(イスラエル)へ行こうか、迷っていた。
 アテネに着いてから今後の旅程について悩んでいると、ある日本人から「イスラエルのキブツは良いぞ。食事は好きなだけ食べられるし、部屋は勿論、生活必需品全て与えられる。仕事は農業関係だが、ただお金は貰えない」と言う話であった。
『手持金を減らさないで一つの所でゆっくり過ごせたら良いなぁ』と思ったし、又次の理由でイスラエルへ行く事にした。
  • ロンドンに居る時、陸続きでイスラエル行きを考え、シリアやレバノンの査証収得に動いていたが、「戦争状態でシリア、レバノンからイスラエルへ渡れない」との事であり、陸続きで行くのを断念した経緯があった。
  • もう少しで私の誕生日(12月10日)、そして直ぐにクリスマスから正月になるので、クリスマスや正月休暇もあると思うので、ゆっくり何処かのキブツで過ごしたい。
  • キリスト教の聖地・イスラエル(パレスチナ)で、クリスマスを過ごすのも魅力である。
  • キブツで色々な体験もして見たい。
  • それにM&M商船のシンガポール、又はバンコクからの出航は3月上旬なので、急いでそこへ向かって旅立つ必要もない、等々であった。 
 イスラエルへ行くのに如何なる国境からも行けないので、アテネからは船か飛行機を利用する以外に行く方法がなかった。私は417ドル相当のM&M乗船券引き換え証を持っているので、それを使ってエール・フランスの飛行機で行けるし、そしてテルアヴィヴまでの航空運賃は86ドルであった。
 そんな訳で11月29日午後、イスラエル大使館へ査証申請に行ったら、「街のその辺にあるインスタント写真機で撮った写真では駄目だ」と言われた。仕方なく、写真撮影専門店へ行って、査証申請用写真を撮った。45ドラクマ(約450円)、意外と高かった。それに出来上がりまで3日間掛かった。
私はエール・フランス営業所で航空券を作って貰ったり、JALへ行って相談、話を伺ったり、或は、トルコ航空営業所で諸情報を得たりして、写真及び査証の出来上がりを待った。
中近東では20ドルのトラベラーズチェックを一々その国のお金に両替していたら、手数料や時間的なロスもあり、又それらの国では1国で20ドルも使わないので、トラベラーズチェックの一定額をアテネでドルに現金化しておいた。  
 大学を休学してこちらを旅している長倉は、私が11月28日到着の前3日間、病気になってユースで臥せていたと言う。彼は現在、元気になった。私がアテネに到着した日、2人でコニャックを飲みにレストランへ行ったが、彼とその後もちょくちょく、ユースの裏手にあるそのレストランで食事をし、又大いに語り合った。
よく利用するこのレストランは、下町の一般庶民を対象とした大衆食堂なのでしゃれた、綺麗な感じでなかった。どちらかと言えば、薄暗い感じの雑然とした店であった。大体20ドラクマで食べられ、出される料理も値段の割に美味しく、私は満足していた。他のホステラーもよく食べに来ていた。その後、長倉は12月3日、テルアビブで再会を約束(?)し、イスタンブールへ向けて旅発って行った。
 長倉がユースを去った後、日本人が9人もこのユースに遣って来た。ユースに9人も日本人が宿泊する機会があったのは、初めてであった。ユース滞在中、その内の数人(3~4人)と、アテネの街へ散策に出掛けた事もあった。アテネの街の中心は、シンタグマ広場からオモニア広場に架けてであり、その間を2本の大通りが並行して走っていた。その2本の通りに沿って、銀行、国会議事堂、ホテル、国立博物館、アテネ大学、国立図書館、レストラン、カフェ店、商店等があり、街を形成していた。気の合った仲間達と語らいながらのアテネ散策は、私にとって何よりも楽しい一時で、今までの旅の寂しさを癒してくれた。
 所でその9人の内、日高(パリ、リヨン、ニース、ジェノバ、ベネチア、そして今回で6回目)、 藤森(ニースで逢った)、寺島(愛知県知多郡横須賀町出身、大学生で登山をする旅人。以前どこで逢ったか忘れた)、そして鈴木とアーロン(ベネチアで共に観光巡りした)とも再会できた。お互いに再会した時は、「やあー、又逢いましたね」と言って、握手をしてお互いの再会を喜び合った。そして、お互いの旅の話題で話は盛り上がった。ヒッチで行き先が同じだと、よく逢うものだと本当に感心した。
皆は、中東方面へ行くのであろうか。それともヨーロッパは、寒くなって来たので南下して来たのか。「旅は道ずれ、世は情け」と言うが、私も彼等も同じ行き先・方向でも、「一緒に旅をしよう」と言う言葉は一度も無かった。比較的安全なヨーロッパに於いては、気ままな一人旅の方が良い事が分かっていた。そんな意味からも、私は彼等の行き先に、余り関心が無かった。しかし、情報によると中近東やインド辺りは、複数で旅をした方が安全・安心の様であった。これらの地域は、盗難事故、或いは、身の危険もあるらしいとの事であった。
 話は変わるが、旅券の渡航先にイスラエルが未記入の為、査証申請が出来なかった。12月2日、日本大使館へ渡航先追加記入をして貰いに、ユースで知り合ったある日本人と共に行った。この際、合わせて東南アジア諸国を追加記入して貰った。
 我々はこの時、日本大使館でギリシャ移住の日本女性と出逢った。話によると彼女は、ギリシャ人の船員と結婚して、こちらに来てまだ1個月と少しだと言う。その彼女が、「私の家に遊びに来て下さい。味噌汁をご馳走します」と言って、我々を家に誘ってくれた。彼女は日本語の飢え、或いは、故国が恋しくなって我々日本人を誘ったのか。いずれにしても味噌汁の誘惑に負けた我々は、彼女の後に付いて行った。彼女の家は海岸近くで、ギリシャでは高級住宅の部類に入る幾つかある建物の内の一軒家であった。
 家には義母(勿論ギリシャ人)が居て、私達を迎えた。でも、内心は快く思っていなかった様に見受けられた。それはそうであろう。結婚したばかりの新妻が何処の馬の骨だか分らない、先程2・3言葉を交わしただけで家に引きずり込んで来るのを見て、お義母さんは訝ったのであろう。
 何れにしろ、一般のギリシャ人の家より広く、そして立派であった。主人は、船員だと言っていたが、どんな船に乗っているのであろうか。漁船か、貨物船か、それとも豪華客船の船長なのか船員なのか知らなかった。彼女の話しによると、1回航海に出て行くと、中々帰ってこないらしい。彼女は寂しいので、話し相手が欲しかったのであろう、と推測した。
 彼女が作ってくれたオカズの無い味噌汁とご飯(日本米)がこんなにも美味しいとは、改めて自分は、日本人である事を再認識した。7月出国以来、ロンドンの日本レストランでシーラと食事をした時と今回で味噌汁とご飯は、2度目であった。
 3人で世間話をしていたら、西武や東急の話も出て来た。西武と言えば堤康次郎であり、東急は後藤啓太。色々な点で共通していたが、好色な点(女好き)でも似ていたのだ。そして彼女の口から、「堤さんも、後藤さんもよく知っているのですよ。2人一緒の時、箱根や新橋のお座敷によくお呼ばれされていました。そんなお座敷で、聖徳太子(1万円札)の札束で顔を撫でられ裸踊りをさせられたり、立ちもしないのに蒲団に一緒に寝かされたりした事があったのよ。老いて益々女好きよね。アハハハハ」とこんな事を聞かされた。
ギリシャのアテネで私が勤めていた会社の元会長の裏話を、当事者本人から聞かされるとは、夢にも思っていなかったので、本当にビックリした。しかし会長の女好きは、社員皆知っているので別に驚かないが、アテネで当事者の女性から聞かされたので、驚きであった。
彼女が芸者関係の女(男相手の仕事)であった事の方が、以外であった。『なるほど、それでギリシャ人とそんな関係で知り合ったのかな』と私も想像を働かした。しかしこの場に於いて私が故堤康次郎の経営していた会社の社員であった事など、一言も口に出さなかった。
 その後、我々3人はマージャンをして過ごした。私と共に味噌汁とご飯をご馳走になったその日本人は、メガネを掛けた30歳位の男性であった。大学卒業後、ある貿易会社に入社したが、退職して旅に出て既に2年半と言う人物であった。それにしても、旅をしていると色んな人と出逢うものだ、とつくづく思った。


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