YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

惜別の情でロンドンを去る~フランスのヒッチの旅

2021-11-10 07:02:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
フランスのヒッチの旅(千里の道も一歩から)

・昭和43年11月10日(日)曇り後晴れ(惜別の情でロンドンを去る)
 明日、ロンドンを去る予定であったが、何もする事が既に無い状態で部屋に居るのは、寂しくて堪らず、1日早く出立する事にした。昨日、予め旅支度、身の回りの整理をしておいたので、1日早くても問題は無かった。
 今後の旅について考えるとここ2・3日、部屋に居ると居ても立っても居られない気持であった。そして今、ロンドンをいざ去ろうと思うと、如何してか寂しさ、悲しさが募った。
朝食を軽く済ませた。今朝、霜が下りて特に寒かった。ストーブ料金がまだ残っていたので、暖を取ってから部屋を出た。
 思えば一宿一飯、そしてこの部屋を借りるのにお世話になったミルスおじさんにその後、一言もお礼を言わずロンドンを去る事は、本当に心苦しかった。早く心臓の病が良くなり、退院出来るように祈るばかりであった。
 8時半頃、住み慣れた部屋を出て階段を下り、別れの挨拶がしたい為、2階のマリアンのドアをノックした。彼女はまだ寝ていたのか、眠たい目をしながらパジャマ姿で出て来た。
「マリアン、私は今からロンドンを去ります。一昨日、マリアンのお陰で、私は楽しい一時を過ごす事が出来ました。有り難う御座いました」と私。
「Yoshi、ドーバーまで送ってあげるよ」とマリアン。
「有り難う。でも、ヒッチで行きます。マリアンに余り迷惑を掛けたくないし、気持だけで充分です。今日は日曜日、それなのに早く起こしてごめん」
「いいのよ、Yoshi。それでは元気で旅をして下さい。時々手紙を書いて下さいね」
「約束します。君も書いて下さい。それではマリアン、さようなら」と私。
「グッド ラック、Yoshi」とマリアン。私達は固い握手し、そして私は階段を下りた。
マリアンは、私が階段を下り切るまで、手を振って見送ってくれた。本当に別れ難い、そして私好みの女性であった。シーラから心変わりしたのでないが、もっと早くマリアンと知り合えたならば、私のロンドン生活も違った、もっと楽しいものになっていたかも知れない、再びそう思うと残念でならなかった。
 大家さんの所にも挨拶に行った。おばさんが出て来て、今から去る旨を伝えた。2日分の部屋代をバックして貰えるか聞いたら、断られてしまった。「又、ロンドンに来た時、ここに来ればその分の部屋代は取らない」とおばさんは言った。しかし、再びロンドンに来る事が果たしてあるであろか。
アンテスィペイト エンジェルのアパートを出た。ストーブで暖を取って来たが、外は一段と寒く、直ぐ身体は冷え切った。私がこちらに来て以来、一番寒い日になった。
通い慣れたアーボン ロードのこの道も、そして周りの建物も何もなかったように静まり、日曜日の朝はまだ目覚めていなかった。
 アンダーグランドでロンドン ブリッジ駅まで行き、そこから列車でDortford St(ドートフォード ストリート駅)で下車し、そこからドーバーに向けてヒッチする予定であった。このコースは予めハイド パークにあるロンドン大地図で調べておいたのだ。大都市のヒッチは難しいので、郊外からの方が良いと思った。そして何処の郊外まで出たら良いのか、その地図で検討しておいたのでした。
 ロンドンで買った暖かそうなカーキ色のジャンパーを着て、青のジーパンを履いて、そして灰色のリックを背負い、フランスで買った茶色の布製バッグを持ち、颯爽とした旅姿で、私は住み慣れた街を後にした。
 日曜日のアンダーグランドは空いていた。そしてロンドン ブリッジ駅から郊外通勤用列車に乗り、ロンドンを後にした。この列車は、日本の中距離列車と異なっていた。お互いに向き合った座席は長く(8人~10人座れる)、その中央に出入り口用のドアが付いて、各車両にこのドアが6つ~7つ付いていた。
 マリアンは、「私をドーバーまで送ってくれる」と言っていたが、実際はシ-ラに送って貰いたかった。ロンドンを1人寂しく去るのは、余りにも虚しかった。
7年間文通し、色々なプロセスを通してイギリスに遣って来た。そして2ヵ月半滞在し、色々な事があった。車窓からその光景が、1コマ1コマ走馬灯の様に私の頭の中を過って行った。それらの思い出は、6年半の苦悶と外国へ行って見たいと言う想いの結晶でもあった。もう2度とイギリスには来られないのであろうか。青春の一時を過したこの大都会・ロンドン。する事が無くなり、寂しくてロンドンを早く去りたかったが、現に去ろうとしていると何故か心残りと言うのか、名残惜しく感じるのでした。しかし列車はそれらを打ち消し、ロンドンを離れて行った。
「又、いつかきっと来るぞ。きっと又、来るのだ。シ-ラ、私は心に決めたぞ。シ-ラも元気で、さようなら」
彼女も間もなく去るロンドンの方に目をやり、心の中で何回も自分に言い聞かせた。寂しさ、不安さ、そんなごっちゃ混ぜの心境でシンガポールに向けて1人旅が今、始まった。
 ドートフォード駅は、ロンドン ブリッジ駅から10キロ程度であろうか、ここまで来ると田園風景、既に郊外になっていた。
 駅からドーバーに向かう街道に出た。日曜日のヒッチ率は案の定悪く、1時間経っても私をピックアップしてくれる車は無かった。少し歩いて行くと道路際に旅行用移動ハウス車があり、そこに人が住んでいた。貧しそうな家庭であった。そこの親子が焚き火をしていたの
で、寒かったので暖を取らせてもらった。
 その後、直ぐヒッチ合図をしたら1台目が止まってくれた。この車で半分以上来てしまった。ロンドンの薄暗い部屋に1人で居るよりも、こうしてヒッチの旅をしていた方が、よっぽど楽しいのであった。
 午後の2時頃、3台目でドーバーに着いた。明日の乗船券を買おうと発売所を探したが見付からず、ユースへ行って泊まる手続きをした。
 ドーバーは、イギリスとフランスの交通の要、大きな街にも拘らずホステラーは、アメリカ人男性3人とカナダ人12歳の女性3人であった。彼女達は3人でヨーロッパをヒッチで旅行しているとの事であった。日本の中学生よりずっと行動力を感じた。同時に12歳と言えば小学6年か中1なのだ。学校は如何したのであろうか。夏季や冬季の休みではないし、娘3人連れの旅を、親はよく許したものだと思った。
 このユースにペアレントの手伝いをしているアメリカ女性も居た。彼女は旅費が無くなってしまい、本国から送金されて来るのを待っていた。その間、ユースの仕事をして無料で泊めて貰っているとの事であった。色々な外国女性が居るものだ。
 ペアレントに乗船場所と乗船券について尋ねたら、乗船場所と乗船券は明日、そこへ行ってからでも買える旨を教えてくれた。
 私はイギリス最後の夜をドーバーのユースで過した。8月24日から11月11日まで計80日間、イギリスに滞在した事になった。


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