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△ 1666年のロンドン大火記念塔(PFN)
第6章 ロンドン滞在
仕事と部屋探し
*その1からの続きです
・昭和43年9月16日(月)曇り後小雨(車中で今後の事を考える)その2
日本までの帰りの切符は、フランスのマルセイユ~横浜間のフランス商船(M&M)で、予定通りなら出航は、10月中旬となっていた。
色々悩み考えた末、折角日本を出たのであるから、『もう少し色々な経験をしてみよう』との結論に達したのでした。従って『この乗船券』をいつでも使えるように、その乗船券代金分(150,000円)に相当する『航空券併用』に変える必要があった。
その変更手続きをOさん(会社の先輩)がJTBに知り合いが居ると言う事で、彼を通してお願いをする予定であった。それで私の持っているM&Mの乗船券をOさんへ送り、JTBで変更手続きをして、再度私の所へ返送するまでの相当の期間が必要になった。私はその変更手続き相当期間プラス1週間程度(約1ヶ月間)ロンドンに滞在しなければならなかった。
その変更手続き相当期間、そして私は出来れば外国人用の英語学校へ行きたい希望もあったので〝滞在費節約の為〟(生活をする場合、ホテルは勿論、気軽にペンションやユースは利用出来ない)、安い貸し部屋と滞在費を賄う上でも、何か仕事を探さねばならなかった。しかし、簡単に部屋を探し、仕事を見付け、そして学校へも通えるようになるのか。そんな訳で、何としてもこれ以上、手持金をロンドン滞在中は減らしたくなかった。むしろ今後の旅に備えて手持ち金を増やしたかった。
私の現在の手持ち金は、トラベラーズ チェック250ドル(9万円程度。出国当初時は430ドルと聖徳太子2枚を持っていた)だけであった。
私の心に秘めていた事(今回の旅の原則)は、ロンドンに滞在する事によって必然的に実現するのであるが・・・。右も左も分らない、頼れる人は居らず、おまけに言葉が不自由な異国の地でそう易々とそれらが出来るであろうか、非常に不安であった。
シーラは、私のウェールズ滞在が終ったらロンドンを旅立つと思っているので、私がロンドンに滞在する事になるなど知らないのでした。但しダディに話してあるので、彼はこの事を知っていた。
私とシーラの文通友達としての関係は、彼女の家に滞在までだった。従ってシーラにはこれ以上、心配や迷惑を掛けられないし、掛けたくなかった。叉、日本男児、自分の事は自分で解決しなければならない、と思っていた。
ニース駅からパディントン駅への列車の中で、そんな事を考えたり、不安がったりしている内にロンドンに到着してしまった。
実際これからの事を思うと、復路の列車では、『景色が如何の、イギリスの鉄道が如何の、乗客が如何の』と言う旅の気分は、既になかった。
前に泊まったユースは、ロンドン郊外であったので、何泊かしても日本人に全く会わなかった。折角外国に来たので、なるべくなら会わないようにと郊外にしたのだ。しかし今回はその様に思わなくなっていた。と言うのは、私は1ヵ月近く、全く日本語を話していないので、日本語に飢えていた。誰かと思いっきり日本語で話をしたかったのと、ロンドン滞在する上で何らかの情報が得られないか、と思っていた。そんな理由で、ロンドン中央近くの地下鉄アルチュウェイ駅下車のユースに泊まる事にした。
夜、このユースで知り合ったカナダ人の青年(Ralph Bergmanラルフ バーグマン)と、ラウンジ・バー(酒場)へビールを飲みに行った。このバーは、一般庶民が来る様なパブ(詳しくは、後で書いてみたい)ではなかった。
いずれにしても、ロンドンに来て初めてシーラ以外の人と親しく話し、そして飲みに行ったので嬉しかった。この時、「私は今、仕事を探しているのですが、如何したら良いのか」と彼に聞いてみた。そうしたら彼は、ピカデリー サーカス近くのStuff Agency(職業斡旋所)を地図に書いて教えてくれました。そして彼も職を探しているとの事であった。
今夜はカナダ青年と知り合って、本当に良かった。
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