愛媛県大洲市河辺町の今

ど田舎だけど町おこしできたらなーって思いまして。独断で勝手に河辺町の日常を綴って行きます。

特に何も無いが、、、

2016年04月13日 | 何ちゃない日常
四月からヘルパーさんで働きだしたんだけれども、
基本お年寄りの皆様は昔話が大好きなので、
昔の楽しかった話や、武勇伝など色々話を聞きもって業務を遂行しています。

まだ新米なのでちょっと時間オーバー気味。
優柔不断なのでご飯のメニュー決めが時間かかりますσ(^_^;)

それはさておき、「昔食べた物で心に残るふるさとの味みたいなものは無いですか?」
と、聞いたところ、
「そんなに食べ物があったわけじゃ無いからねー」
とのお答え。( ̄▽ ̄);>あら、、、

でも、こんなエピソードを。
「親について畑仕事に行った時の話。
弁当箱にごはんに梅干しだけ詰めていく母。
そして後をついて山に上る途中の畑で、人参、大根などを引いて上がったそう。
まさかと思ったが、昼ごはんのおかずだったと。
味噌も一緒に持って上がっていて、
野菜に味噌をつけて食べた。」とな。

野菜スティックか~、おしゃれ~♪( ´▽`)と現代風に脳内変換したが、
きっと鎌で輪切りとか、人参は丸かじりとかだったと思われる。

河辺でも裕福な家庭とそうで無い家庭があって、色々話を聞きます。

うちの実家の本家は金貸しをしていたらしく、
母から見て本家の爺様はお金持ちだったそう。
そしてちょうどその時期、回りに子供がいない時期だったのでえらい可愛がってもらったと。

昭和17年生まれの母。
甘い卵焼きを隣の爺様からもらっていたそうな。
お砂糖は貴重な時代だったらしい。
甘いお菓子もその爺様から頂いていたって。

うちの先祖は、体が弱いから土地を分けてもらって分家にしてもらったらしいんだが、
体が弱いので結局、借金抱えただか、土地がすっからかんになったとか。

そっからひい爺様が養子だったかな?で来て、盛り返して土地を戻してもらったと。
ひい爺様は木こり専門だったらしく、家族のものが田植えで忙しくしてても、
1人山に行って、木を見て回っていたらしい。
その大切に育て、よく観察して選んだピカイチの木を使って、
今の隠居は建てられたそうな。

もう引退するとか、したとかいう、腕のいい大工さんを無理やり?説得して、
建ててもらったそう。
ひい爺様は大工さんが綺麗に引いた材に、長持ちするよう“ベンガラ”とかいう、
赤いコーティング剤を一本一本塗って行ったそうな。
それを幼い母は見ていたらしく、その仕事っぷりを何遍か聞かせてもらった。
他の兄弟はその当時のことは覚えていない。

母は長女でひい爺様ひい婆様に特に大事にされた。
祖母の兄弟は幼い頃軒並み亡くなってしまって、祖母だけがようやっと育ったらしく、
それゆえ、ひい爺様達は、生まれた母を「死なせちゃいかん」と
1月生まれの母を懐に入れて冷えないよう、細心の注意を払って育てたんだと。

その後4人も生まれた。ばあちゃんグッジョブ!祝。

ひい爺様にはそんな感じで可愛がってもらい、
ひい婆様には社交の技術を習ったようである。
よく方々に連れまわされたと。
だから、誰がどこの人で親戚だとか何とかは兄弟の中で1番母がよく知っている。
そしてひい婆様はどこで習ったのか、お灸をしたり、産婆さんもしたりしてたんと。
そんなんもあって、色んなとこに母は助手としても出かけたようである。
昔は免許なんてもんは無く、できる人がやるって感じでしていたらしい。

色々あって、母は鍼灸師の免許を取った。
そして私も鍼灸師の免許を持ってる。
ひい婆様からお灸の流れが続いてるのは面白いと思う。
その当時の道具とか出てきたら面白いのにな。
墨つぼをいつも持って行って、糸でツボの位置を決めていたんだって。
母はおぼろげにしか覚えていないらしい。
もったい無いことよな。

うちの新田分家はこれで終いになりそうな。
叔父には子供がいないし、養子になろうかっ?ていうのに、叔父は断ったからね。
人の世は儚いものよな。
人はいなくなっても、山はあり続ける。

家も朽ちて無くなる。
しかし相変わらず山はある。山は偉大だ。

生態系もだいぶ変わるだろう。
自然林と里山とどちらがいいかはわからない。

新田でなくても、私は田舎が好きだから、
田舎で暮らしたいと思う。どこかはわからないけれどね。
ナンチャッテ東京人は流れ人。(三代住まないと江戸っ子認定下りないんだよね。
だから私は東京の人でも無いのだ。悲しいことに。)故郷が無いからどこへでも。
必要とされるとこへ流れていくのみ。

私が生きてる間は少なくとも今のまま、里山であってほしい。
欲を言えば、もう少し手入れの行き届いた山にしたいなー。
まー先がわからなから現時点ではだけどねー。

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