怒りを抑える名言が多々あります。
1)「怒りは心身を害し身の破滅を呼ぶ」
確かに名言です。
2)「極悪人といえども、悪口を以って罵るべからず」
これも名言です。
3)「三十六計逃げるに如かず」
飯篠長威斉流の平法(兵法)です。
4)「道の為に命を惜しむなかれ。亦、惜しまざる事なかれ」
平常心が肝要です。
5)「風に向かって座し、日に向かって眠る」
ここまで来ると、不動心と云えます。
6)「死の身近にある事迅速なり」
生の貴重なる事を知る名言でしょう。
7)「仁ありて謗ぜられるは憂いにあらず。仁無くして賛ぜられるは憂いとすべし」
ごく当たり前です。
名言にも間違った想念が多いものです。
1)「無言にて母を三度唱え尚怒り収まらず也」
貧愛の感情であれば、根本の解決策になりません。
2)「悪人討つべからず。天罰を待つが王道」
これは、余り当てにはなりません。世のトップは悪人ばかりです。
3)「唖せず聾せざれば家公とならず」
これは間違い。「唖して聾せず」詰まり「聴く事は聴き沈黙を守る」が正解。優れたトップの必要条件とも云えるでしょう。
4)「学道の人は、世人の情を棄つ可きなり」
愚かな言葉です。世人の情を識(し)らずして、【一即多】を識る事及ばず。情は捨てるのでは無く、学道に順ずれば、自ずと邪魔にはならないものです。情を捨てて道を究めようと思う未熟な方には、正しい見地が観えない。物理的な観点に陥り、間違った方向に行く筈です。
5)「貧にして貪らざる時安楽自在なり」
変な言葉です。「貧にても富裕にても」が正解。詰まり、只貪らなければ良いのです。
「生きものの記録」の原爆非難に対して個人攻撃され、連作に流れる禅の主題を「道徳的に過ぎる」とこき下ろされ、命の尊さや平和の想念を誤解され続けた若き黒澤明監督の言葉に「人を憎んでいる暇なんか無かった」という名言があります。五十六歳にして完成した「赤ひげ」も想像を絶する困難の末に完成した名作であり、何処から観ても日本映画史上の頂点を極めた最高傑作です。初期の名作「羅生門」は、日本の映画関係者と批評家から侮蔑され無視されました。が、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞とイタリア批評家賞、アカデミー賞名誉賞、米国ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞の監督賞、外国語映画賞と欧米の主たる映画賞を立て続けに受賞すると一躍英雄となる。批評家やマスコミに迎合する一流人はいません。当然の事だと思います。非難すらしない。相手にしないだけの事です。それはさておき…。
心底頭に来た時には、「堪忍の、ならぬ堪忍するが堪忍」という、一見穿った名言があります。が、「堪忍する」と思う心自体を放下するのが正しい見地ではないでしょうか。堪忍すると云う気持ち自体に、執着がある。怒りを抑えるのではなく、怒りなど生じないのが一流の人物と云えます。黒澤監督は、その心を「人を憎んでいる暇など無かった」と、冗談交じりにおっしゃったのです。
愛や正義と屁理屈を付けた復讐や殺戮を止めるには、少年少女時代から正しい見地を学ぶ他ありません。僕は新作を書く度に、真の平和のあるべき姿を子供達に直観して貰う様に描きます。一体後何百年待てば良いのか気の長い話ですが、他に確実な方法はありません。
1)「怒りは心身を害し身の破滅を呼ぶ」
確かに名言です。
2)「極悪人といえども、悪口を以って罵るべからず」
これも名言です。
3)「三十六計逃げるに如かず」
飯篠長威斉流の平法(兵法)です。
4)「道の為に命を惜しむなかれ。亦、惜しまざる事なかれ」
平常心が肝要です。
5)「風に向かって座し、日に向かって眠る」
ここまで来ると、不動心と云えます。
6)「死の身近にある事迅速なり」
生の貴重なる事を知る名言でしょう。
7)「仁ありて謗ぜられるは憂いにあらず。仁無くして賛ぜられるは憂いとすべし」
ごく当たり前です。
名言にも間違った想念が多いものです。
1)「無言にて母を三度唱え尚怒り収まらず也」
貧愛の感情であれば、根本の解決策になりません。
2)「悪人討つべからず。天罰を待つが王道」
これは、余り当てにはなりません。世のトップは悪人ばかりです。
3)「唖せず聾せざれば家公とならず」
これは間違い。「唖して聾せず」詰まり「聴く事は聴き沈黙を守る」が正解。優れたトップの必要条件とも云えるでしょう。
4)「学道の人は、世人の情を棄つ可きなり」
愚かな言葉です。世人の情を識(し)らずして、【一即多】を識る事及ばず。情は捨てるのでは無く、学道に順ずれば、自ずと邪魔にはならないものです。情を捨てて道を究めようと思う未熟な方には、正しい見地が観えない。物理的な観点に陥り、間違った方向に行く筈です。
5)「貧にして貪らざる時安楽自在なり」
変な言葉です。「貧にても富裕にても」が正解。詰まり、只貪らなければ良いのです。
「生きものの記録」の原爆非難に対して個人攻撃され、連作に流れる禅の主題を「道徳的に過ぎる」とこき下ろされ、命の尊さや平和の想念を誤解され続けた若き黒澤明監督の言葉に「人を憎んでいる暇なんか無かった」という名言があります。五十六歳にして完成した「赤ひげ」も想像を絶する困難の末に完成した名作であり、何処から観ても日本映画史上の頂点を極めた最高傑作です。初期の名作「羅生門」は、日本の映画関係者と批評家から侮蔑され無視されました。が、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞とイタリア批評家賞、アカデミー賞名誉賞、米国ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞の監督賞、外国語映画賞と欧米の主たる映画賞を立て続けに受賞すると一躍英雄となる。批評家やマスコミに迎合する一流人はいません。当然の事だと思います。非難すらしない。相手にしないだけの事です。それはさておき…。
心底頭に来た時には、「堪忍の、ならぬ堪忍するが堪忍」という、一見穿った名言があります。が、「堪忍する」と思う心自体を放下するのが正しい見地ではないでしょうか。堪忍すると云う気持ち自体に、執着がある。怒りを抑えるのではなく、怒りなど生じないのが一流の人物と云えます。黒澤監督は、その心を「人を憎んでいる暇など無かった」と、冗談交じりにおっしゃったのです。
愛や正義と屁理屈を付けた復讐や殺戮を止めるには、少年少女時代から正しい見地を学ぶ他ありません。僕は新作を書く度に、真の平和のあるべき姿を子供達に直観して貰う様に描きます。一体後何百年待てば良いのか気の長い話ですが、他に確実な方法はありません。