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名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio
詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。
♪ スクリューボール・ジョーク 【唯一人の生存者】
2024年08月11日
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日記
「ロープが細くて切れそうだ。十一人をささえきれない。誰か一人とび降りろ」
「下は流氷の流れる凍て付いた荒海だ。その上、鮫がうようよしている」
ヘリコプターの海兵隊員がロープを引き上げ様とすると、細縄は今にも切れそうだった。
「女性は私一人ね。それなら私が飛び降りて犠牲になります。私達女性は…、夫と子供達の為に何もかもを奉げ、何ひとつ見返りを望みません」
十人の男達は、その感動的な名演説に…思わず拍手してしまったと伝えられる。
♪ スクリューボール・ジョーク 【LAPDの捜査方法】
2024年06月09日
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日記
CIA(中央情報局)、FBI(連邦捜査局)、LAPD(ロサンジェルス市警察)の競技会が海辺で開かれた。
「海の中からウサギを捕まえた組織が勝者だ」
CIA特別捜査官が云った。
「海の中に…ウサギがいるものか。CIAは、論理的根拠が無ければ動かん」
FBIの古顔は、別な立場から見解を述べた。
「我々は大事件専門だし、理屈にも合わん。LAPDの捜査領域なので辞退する」
顔に古傷のあるロサンジェルス市警の警部補は、葉巻をくわえたまま海に入ると亀を掴まえて審査員の前に放り出した。審査員席は騒然となり、苦情の嵐に包まれた。
「これは、亀じゃないか。ウサギを捕まえろと云った筈だ」
甲羅を無惨に割られ顔に殴打された傷跡のある亀が、声高に主張した。
「白状します。私は、ウサギです」
@ 非論理エッセイ 【血文字の遺言って、どういう意味】
2024年03月26日
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日記
「血文字の遺言」という常用語が、ある訳ではありません。昔の作品ですが、如何云う意図で書いたものか久方振りに想い出してみます。
この宇宙には、地球40億年の歴史でさえほんの一瞬と云える果てしない時空を超えた因果律がある。それが「血文字の遺言」ですので、確実に存在します。現代の科学レベルでは解明出来ませんし、一般の学者や宗教家に任せる観点でもありません。そういう巨大な世界観から、現実のあるがままの真相を看破する観点が【血文字の遺言】という物語の底辺に流れています。禅思想がその入り口にある訳です。
拙著には「血文字」という名のICチップが登場します。これは、人間の脳波を絡ませた【知的計算機】です。詰まり、人間の血を受け継いだ機械なのです。但し、SF映画の様な論理ではありません。現状は核分裂などの真性乱数開発が暗号解読の最先端技術ですが、将来必ず【血文字】の様なICが実現する科学的根拠があります。その時に、地球史上最大の危機が訪れる事でしょう。
お伽話の様なSFが世の中に溢れていますが、科学技術の行き着く先には進化と共に現実の危機が混在しています。手遅れの人的災害が多々ありますが、責任の所在は曖昧です。「血文字の遺言」をお読みになる未来を担う若者達に、正しい見地をお持ち頂く様、祈る様な気持ちもあります。戦争はドラマでも幻想でもありません。この世界に確として存在する現実であり、人類が創造した地獄なのです。
読む方の世界観によって異なる理解となります。が、放下思想がこの世の真相を捉えるきっかけとなる事、お若い読者層には何らかの思想形成の門出になる事を願っております。
@ 非論理エッセイ 【エベレスト登山隊】
2024年03月26日
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日記
「我々はエベレストを征服したのではありません。エベレストの機嫌の良い時に、登らせて貰っただけです」
登山に限らず、科学の発展と予算の掛け方に拠って今後探検の難易度は下がる事でしょう。コロンブスではなくアメリゴ・ヴェスビッチがアメリカ大陸に初めて到着した偉大な船乗りであるという観点に異論はありませんが、最初の発見者ではありません。
その五千年以上も前にアラスカ経由で現在アメリカと呼ばれる大陸に移住したモンゴル人の苦難は想像を絶する奇跡とも云えます。何世代も掛けてその苦難を乗り越えた方々は、一行の言葉さえ残していません。南極探検にせよ、宇宙旅行にせよ、当初その難事に挑戦し続けた世界観に頭が下がります。
藝術も似ています。優れた作品が生まれる時は主軸となる機鋒があり、それにからむ題材、動機、表現、リズムなど全ての要素が機嫌良く調和するものではないでしょうか。おそらく、完成直後の藝術家は偶然の作用と力を感じる事でしょう。不為の作品というものは、作家の構想や技巧に縛られませんし、エベレスト山を登る時の様に幾多の偶然が重なった結果とも云えます。
ベートーベンの第九に限らず、セロニアス・モンクのジャズ演奏などにしても、きっかけから大団円まで持ち堪える構想と技巧の調和に深い感銘を受けます。音楽家の想念や技巧の欠片が微塵も残っていない。それが、偉大な藝術に相通じる共通点かも知れません。
♪ スクリューボールジョーク 【内助の功】
2024年01月17日
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日記
「結婚してから、あの駄目亭主を百万長者にしたのは私なのよ」
「へえ、すごいわね。ご主人って、結婚前はどんな状態だったの」
「億万長者だったの」
@ 非論理エッセイ 【貝原益軒の言葉】
2023年09月07日
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日記
「食は身を養うものなり。飲食をもって、却って身を損なうべからず。善きことと悪しきことは、心の作用と深く関わる。食は、慎ましく愉しむべし」
いいですね。こんな風に考えて生きている人が、本当の智者だと思います。益軒先生には貝原損軒という正反対の号もあります。矛盾を同時に思考なさる益軒先生風に、反対を考えてみましょう。
「食は楽しむものなり。飲食をもって、身を損なうくらいでないと、美食家とは云えず人生も観えない。美食は、心を養う。食は、贅沢に選ぶべし」
要するに、何を美食と考えるかによるのかも知れません。
さて…あなたは、どちらでしょうか。
@ 非論理エッセイ 【詩人ランボーの言葉】
2023年09月07日
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日記
「なぜ後戻りはいけないのだろう」
これは、アルトゥーロ・ランボーが十九歳の時に書いた詩です。(「地獄の季節」)
後戻りする思考はたのしいものです。反省でも、批判でも、後退でもなく、ノスタルジーとも異なります。正しい見地は、内に矛盾を含まない。論理的な個々の要素というよりは、直観的全体像がとらえられます。ていねいに解析すると単純な真理が見える。ゆえに禅思想では「一即多」と表現される。駄目なものをだめだとする論理解析は徒労です。或る現象の欠点を評する場合でも、その背後にある総体的真理が見えないと面白くありません。
正しい非論理はたのしいものです。自然は美しい。が、食物連鎖の残忍な実態が背後にある。子供達は可愛い。が、優れた子供ほどひねくれている。上手な演奏家の音楽はたのしい。が、時には下手な技巧に不可思議な妙味がある。武満徹が好んだ南アジアの音楽【ガメラン】の味わいは、完璧に調律しない音のずれにあります。酒は百薬の長である。その反面、呑み過ぎると命を削るカンナともなる。禅詩想は面白い。が、論理的思考しか出来ない方々は逆説・矛盾と誤解なさる。アホな友達ほど話していて愉しい。利口な人間に限定すると、友達が一人として居なくなってしまう。かく云う作家本人も、かなりいかれている。ほらね、中々気分の良いものです。一度試してみて下さい。
@ 非論理エッセイ 【光のドプラー効果】
2023年09月07日
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日記
特殊相対性理論「E=MC2」によれば、光速で動くと光のドプラ-効果で、近づく物体は青く、遠ざかる物体は赤く見える。赤という色には、遠ざかる本質があります。
交通信号の「赤では止まれ」「青は進め」は適正でしょうか。なぜ赤が停止となったものか、もう何十年も推理し続けておりますが、科学的合理性がありません。「牛が好む赤と同じ原理」と云ったスペイン人がいますが、失格退場。牛は色盲です。闘牛で使う赤いケープは、観客を喜ばせる演出に過ぎません。何故斯様な誤解が生じるか。人類には「赤を観たら突進」という心理的かつ特殊な本能があるからなのです。
一般相対性理論「Rij-1/2gijR=-KTij」に従えば、物体の質量と重量計算から時空の歪みが検出出来るそうです。(重力場理論)
コンピュ-タの出現が光速のシミュレ-ションを可能にしました。「光速度不変理論」に反し、重力のある世界で光は曲がる。虹の様なものです。アインシュタインは金星の近日点移動から時空の歪みを発見し、光の絶対性を証明しました。その結果、ニュ-トンの重力理論をくつがえした訳です。一つだけ予言しておきますが、光の絶対性もいずれ覆される事でしょう。大予言が外れても非難は受けません。その時には、人類そのものが存在していないからです。
非本格推理小説は科学理論に似ています。犯罪状況と犯行との間に接点がない。物質的なヒントは明示しないので「非本格推理」、あるいは「推理小説と云えない」とさえ揶揄されます。ところが、物理的なヒントが無い推理だからこそ面白い。非推理小説の名探偵は、天才科学者に似ています。一見何の関係もない混沌と矛盾の狭間から、一般法則を発見する。百万年前の迷宮入り事件すら解決出来る訳です。何ゆえにこれを本格推理小説と呼ばないのか、摩訶不思議と思われる向きが多いかと存じますが、原因は明白です。ほとんどの読者に理解出来ないからです。
詭弁と誤解されるのを承知で申し上げますと、過去の大作家やアインシュタインも同じではないでしょうか。「ファウスト」(ゲーテ)「オディプス王」(ソフォクレス)「異邦人」(カミュ)の主題、或いは相対性理論の本質を理解するのは無理なのです。非本格推理作家は、理解不可能な真理を追究しているとも云えるでしょう。ちなみに「キュリー夫人」という名作映画は、太陽の影響を受けない巨大なエネルギー源たるラジウムを発見するまでの過程を描いている。ゆえに飛び抜けて面白いのです。その上、名優グリア・ガースンの魅力満載とも云える傑作です。この映画を観終わった時は、三日間ほどボーッとしてしまいました。
交通信号を「赤は進め」「青は止まれ」に変更すれば、交通事故が減少します。科学的根拠は、光のドプラー効果で立証されております。
そうかも知れないと思われた方は、科学的思考と藝術思想の門をくぐる事になる。…かも知れません。
¶ キネマ倶楽部 【名画史上ベスト10】
2023年05月29日
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日記
矛盾と誤解されそうですが、拙著「キネマ倶楽部」の名作三百選に☆印(推奨映画)が付いていない映画もあります。初めの三作品は、80年代以降の映画になれた娯楽志向の皆様にはお薦め出来ません。
「8 1/2」をご覧になった殆ど全ての知人は「チンプンカンプン」とおっしゃいます。しかしながら、知性と感性を合わせ持った方々は…と本音を洩らすと失格退場絞首刑となりそうなので閑話休題。本ものの藝術映画にご興味のある方々にお薦めする作品です。逆に云えば、「8 1/2」に対する反応だけで思想的な人物の深みが分かります。これは、社会的な地位とは無関係であり、むしろ逆に出ると云えない事もありません。
『8 1/2』
フェデリコ・フェリーニ
映画製作を放棄した映画監督の覚醒。これこそが本ものの映画であり、世界中の賞を総なめにした傑作中の傑作です。
『気違いピエロ』
ジャン・リュック・ゴダール
モーツアルト、ランボー、ベラスケス等の引用効果が増幅された佳作。
『アポロンの地獄』
ピエル・パオロ・パゾリーニ
古典戯曲「オディプス」の古代的リアリズム表現。
『フィツカラルド』
ベルナール・ヘルツォーク
特撮無しで完成した執念の実写映画。
『バベットの晩餐会』
ガブリエル・アクセル
非の打ち処の無い洒落た名画。
『ノスタルジア』
アンドレイ・タルコフスキー
映画表現の極地ともいえる名作。
『F for フェイク』
オーソン・ウエルズ
贋作から藝術の核心に迫るウェルズの遺作。
『赤ひげ』
黒澤 明
禅精神を貫く純日本映画の代表作。
『野いちご』
イングマル・ベルイマン
ウェルズの「審判」と並ぶ意識下表現の意欲作。
『ライムライト』
チャールズ・チャップリン
悲愛を核に覚醒観を描き切った傑作。とはいえ、チャップリンを選ぶとベスト10を埋め尽くしてしまう為、熟考を重ねて選んだ作品です。
上記の10作品には共通した観点があります。それは、人惑の論理を超えた世界観を描いたまれに観る傑作群だという事です。どれが最高かという順位の付け様もありません。超論理とは云え、どんな概念も論理的に表現できます。詰まりは、あらゆる現象は分離した小極から相対的な大極を経て、全てが融合した無極に至るのです。これを屁理屈と捉える向きが多い様ですが、真剣切って生きた方々にしか分からない単純な真理かと存じます。我ながら不思議に思うのは、初めに挙げた三作「8 1/2」「気違いピエロ」「アポロンの地獄」だけは、偶然出来た傑作ではなかろうかと感じる点です。
「8 1/2」のフェリーニは、公開直前に結末を「予告編専用に撮った特殊映像」に変えました。元々は死の世界へと向かう列車のシーンだったそうですが、それでは台無しです。作品自体の主題を見い出せない映画監督の迷いそのものが、稀に観る見事な映像で完結しています。が、計画されていた訳ではありません。完成後に急遽変更した映像が、物語に主題無き主題の美学を与えているのです。この作品の評価は極端に分かれます。当の映画作家でさえ掴んでいない無極の美学が、一般の観客に理解出来よう筈もありません。処がプロの映画関係者からは熱狂的な絶賛が多々あり、世界中の映画賞を受け、歴史に遺る名作と云われています。この映画に感銘を受ける人々は、人生の歓びを享受するに違いありません。
「気違いピエロ」のゴダールは、好悪の別れる監督です。当時のゴダールは、撮影自体を偶然にまかせる作家でした。「気違いピエロ」の完成度だけが、例外と云えない事もありません。その秘密は、名優ジャン=ポール・ベルモンド、及びアンナ・カリーナのアドリブ演技、ラウール・クタールの卓越した撮影術、そしてアントワーヌ・デュアメルのたぐい稀な音楽というコンビネーションに依存している様に感じます。演技、美術、音楽の力が、傑作を生み出したのではなかろうか。他のゴダール映画とは、一線を画している様に思います。もう一つの要素は、映画で鮮明に浮かび上がる詩と絵画藝術そのものの魅力でしょう。名作から引用した言葉の洪水があふれ出す。終幕は、アルチュール・ランボーの「地獄の季節」です。絵画も、ピカソ、マティス、ルノワール、ヴェラスケス、現代の戯画と連なります。詰まり、引用された作品群の藝術的魔力が、映画に満ち溢れているのです。特に感銘深いのは、モーツァルトが死の間際に書いたとされる「レクイエム」の「ラクリモーサ(涙の日)」でしょう。ヴァイオリンで奏でられる単調なメロディから、天才音楽家の絶対的な感性に圧倒されます。
パゾリーニは、退廃と醜悪な現実を写実的な狂気で描く作風ですが、「アポロンの地獄」だけは別格です。先ずソフォクレスの戯曲自体に、文学史上にも稀な完成度がある。大筋の物語は、戯曲そのままです。が、果たして映画作家がソフォクレスの大極から無極へと至る思想を狙っていたかどうか、大きな疑問です。映画の完成度が、オディプス王を演じるフランコ・チッティの歴史に遺る名演に依存している点は、先ず間違いありません。そして、シルバーナ・マンガーノ(「ベニスに死す」「家族の肖像」)、アリダ・ヴァリ(「第三の男」「かくも長き不在(ふざい)」)、ルチアート・バルトーリ、カルメロ・べネと揃った俳優陣が物語にリアリティを与えている。もう一つの素晴らしさは、自然の背景自体でしょう。この作品だけは、パゾリーニの作品系列と異なります。詰まり、監督の意図とは関係無い要素から出来上がった傑作の様に思えてならないのです。
他の7作品は、計画的に人為的計算と努力により完成した奇跡の映画芸術と感じます。全ての作品に、偶然ではない「技巧の消えた完成度」がある。どの一作を取っても、史上最高の名画と云う事が出来ます。他にも、上記作品群に一歩のひけをも取らない傑作が多々ございます。ほんの一例を挙げてみましょう。
奇跡の人
ペーパームーン
レベッカ
大地
テキサスの五人の仲間
第三の男
審判
人情紙風船
博士の異常な愛情
裸足で散歩
シビルアクション
ストレンジャー・ザン・パラダイス
東京物語
ミラーズクロッシング
東京裁判
ニュールンベルグ裁判
野のゆり
素晴らしき哉人生
イヴの総て
恐怖の報酬
モダンタイムズ
アンドレイ・ルブリョフ
アラバマ物語
三人の名付け親
ミツバチのささやき
スケアクロウ
フレンチコネクション II
カスパーハウザーの謎
クル―ニ―・ブラウン(邦題:小間使い)
山河遥かなり
麗しのサブリナ
ガス燈
華麗なるヒコ―キ野郎
キュリー夫人
きりが無いので、それはさておき。
近年、国際映画祭の受賞作品群を覗くに付け、新しい映画を観たいという意欲が低下しており、それよりは見逃している過去の名作を順次観たいという気持ちがあります。とは云え、技巧的に優れた映画作家はごく僅かながらも存在します。しかしながら、分離した小極にこだわれば、戦後の不条理文学のごとく22世紀以降は塵箱行きとなる事は先ず間違いありません。たとえ一作でも、上記の名画に並ぶ様な、或いはより優れた映画を見過ごしているとすれば、それは驚きという以上によろこびとなる事でしょう。
♪ スクリューボール・ジョーク 【メビウスの帯】
2023年04月09日
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日記
「メビウスさん。メビウスの帯とは一体何の事ですか」
「三次元ユークリッド空間 R3 に於いて、媒介変数 r,t(-1≦r≦1 ,0≦t≦π)をr = 0と仮定した閉曲線が中央を通る幾何学上の軌跡だが、座標空間では xy 平面上で円となる現象、詰まり位相幾何学において媒介変数表示された曲線と同じ層に存在する位相空間を示す理論だ」
「要するに…一回転ねじってつなげた帯ですね」
「簡単に云えば…そうなるかも知れん。真理とは、単純なものじゃからな」
「いつ、どんな風に発見したのですか」
「泥酔して朝帰りした時に、奥さんに太縄で首を締められた。その時ふと、ガウスの理論が脳裡をよぎったんだ」
「何だ、盗作ですか。あきれたもんですね」
「そもそも、ねじった帯のたぐいは古代遺跡にも多々存在するから、発見という程のものではない。それに、現実に応用しにくい重大な欠陥もあるのだ」
「それは何ですか」
「メビウスの帯を通るものは…皆落っこちてしまうだろう」
♪ スクリューボール・ジョーク 【国防総省の戦略会議】
2023年04月09日
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日記
「今日は、二つの重大な問題に関して戦略会議を行う。凶悪なテロリスト集団と婦人団体の政府抗議集会に関して、君達の見解をまとめてもらいたい。どちらの対策を最優先とすべきかという観点だ」
「それは、何といってもテロリスト集団でしょう」
「なぜかね」
「テロリストであれば、交渉が可能です」
♪ スクリューボール・ジョーク 【夫婦円満の秘訣】
2023年04月09日
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日記
「仲の良い映画スター御夫妻として有名ですが、安定した夫婦生活の秘訣はなんですか」
「週に4回、なじみの高級レストランに行く事かな。先ず、小さなキャンドルが食卓に幻想的な灯りを広げる。食事の前には、今日も無事だった事を神様に感謝する。ヴァイオリストにチップをはずみ、ウインナ・ワルツを聴く。僕の好みは、【ウィ―ンの森の物語】だ」
「あたしの好みも同じなの」
「食事は、チーズ・フォンデュとオソブッコ。飲み物は、プレミエール・クラスのトカイ・ワイン。食後はクレープ・ソゼでブランディの炎を燃やす」
「最高の組み合わせよね」
「後は、ディナーの余韻をたのしみながら、公園を散歩して家に帰るだけ。月夜が美しい山のふもとだからね」
「そうよ。この人は、火曜と日曜。あたしは、水曜日と土曜の晩にね」
@ 非論理エッセイ【盗まれた鞄】
2022年12月31日
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日記
実話というものは、さほど面白くありません。その点を先にお断りしてから、以前盗難にあったエピソードを書き記します。
日本人として、約束の刻限前に到着する習慣があります。その日は、とある会談の時刻まで二十分余裕があったので、台北駅近くの喫茶店でお茶を飲みました。僕は外で煙草を吸い、同行者は勘定を済ませていました。席に戻ると、椅子に置いた黒皮の鞄が無い。連れの手にも無い。回りの席に居た方々に聞くと、誰も知らないと云う。鞄の中には、外出時に書く原稿のノートが入っていました。作家に取っては重要な記録であり、ゴールド・ファイルのビジネス鞄には、長年苦労を共にしたと云う不思議な愛着もあります。直ぐに警官が駈け付けましたが、重要な会談予定があったので警官諸君に任せました。
「入り口付近で煙草を吸っていたが、鞄を持った人物は出て来なかった。鞄は未だ店の中にある筈です。僕が戻るまで、入り口と裏口を見張っていて下さい。又、店内のカメラの位置を、全て確認しておいて下さい」
その時点で、鞄は戻らないだろうと諦めていました。中華圏では、盗難、誘拐、暴力事件など日本の比ではありません。表向きの情報とは異なり、統計に出ない犯罪が何十倍もあります。
小一時間後に戻りました。鞄は見付かっていない。駄目もとと思い、警官に特殊なお願いをしました。二人の警官が、店のマネージャーに大きめの声で説明したのですが、周りの人間に聞かせるのが目的です。
「もう直ぐ応援が来て、店の捜索を始める。カメラの録画を全て調べて犯人を逮捕する。被害者は、犯人を刑事告発すると云っている」
告発されれば、罰金では済まない。さりとて法的な拘束権はありません。客の出入りは自由。身体検査も、その時点では違法です。
入り口で見張っていると、手ぶらで出てきた男がいます。足が不自由で、外に止めていた小型電動三輪車に乗りました。
「君だね」と、横から声を掛けました。
返事はありません。が、両手を合わせながら拝む様な格好をしている。煙草に火を点け「行ってもいいよ」と云うと、若い男は頭を下げながら去って行きます。身障者用の三輪車ゆえ、見送るこちらがじりじりする程ゆっくりとした動きでした。
警官諸氏に、トイレや店内の目立たない隅々を捜す様にお願いすると、丁度監視カメラの視角から外れた踊り場のすみから、新聞紙を被せた黒い鞄が発見されました。警察が「カメラを調べて犯人を割り出します」と云うので「鞄は戻ったので、騒ぎ立てる程の事はありません。告発はしませんので、どうぞお引取り下さい。有難うございました」と礼を述べ一件落着です。窃盗は刑事事件ですが、被害者が通報しない限り警察は動けません。一流ブランドの鞄とは云え、中身は他人に取って何の価値も無い。未遂犯は、何事も無く無事逃げおおせた訳です。
何が起きたのでしょうか。鞄を盗んだものの、僕が入り口で煙草を吸っていたので、犯人は外に出られない。裏口は、キッチン経由しかないので、店の人間に怪しまれます。逃げる機会を伺っていたが、その後は警官が出入口に居たので鞄の持ち逃げは出来ません。監視カメラの記録も残っているに違いない。鞄をカメラの当たらない場所に隠し、恐るおそる外に出た。という訳です。
何かを失くしても、短時間でこの世から消えてしまう訳ではありません。盗まれた物は何もありませんでした。中を調べると、鞄の底からすっかり失くしたと思っていたモンブランの万年筆が出て来ました。その上、昔見慣れたペン・ドライブ(小型の記憶装置)まである。その夜コンピューターで中を覗くと、25年前に執筆した中編小説の原稿でした。
グランド・キャ二オンからの帰途、車がエンコして一晩野獣に囲まれた荒野を彷徨う「ゴースト・タウン」というSF小説です。カジノと展覧会で栄えるラスベガスの市街に隕石が落ちますが、車の故障で足止めを喰ったため命拾いする。人造的な砂漠の大都市が、原爆より巨大な炎に燃え上がり廃墟と化します。その凄惨な模様を、遠い原野から仲良くなった野生動物達に囲まれながら見守るのがラスト・シーンです。生命体系の繋がりと逞しさ、未来に続く希望を描いた小説ですが、まぶしい程に美しい破壊的な印象に納得がゆかず、長年放置していました。車のトラブルは実話です。キャデラックのリンカ―ン・コンチネンタルでした。危険は獣だけでなく、毒蛇もいる。食べ物どころか、水さえ無い不毛の世界なのです。その上寒い。
この物語の為に、野生動物や砂漠の植物を調べまくり、ネイティブ・アメリカンの生活様式や音楽、絵画などを研究し、お気に入りのエルトバ・ホテルに累計何十日も滞在した懐かしい思い出があります。この話をすると「あり得ない」と思うアメリカ人がいる。そこには、一寸した理由があります。グランド・キャニオンはロッジばかりです。唯一のホテル「エルトバ」は、大統領でさえ半年前に予約せねば部屋が取れないと云われております。が、一寸したコツがある。雪でセスナ便が飛ばない日に、凍て付いた危険な国道を600キロ走れば良いのです。それでなくとも、世界のトップ・ホテルは、常に予備の部屋を空けているものです。
「なぜ雪嵐の日に来たのですか」
「予約の取れないホテルと聞いたからです」
呆れ返ったオーナーと親しくなり、電話一本で予約OKのVIP待遇となったのは愉しい思い出です。大統領でも予約を取れないのかなと不思議に思いましたが、文学と無関係な些末事は直ぐに放念する癖があります。
「盗まれた鞄」の落ちには、なっていませんね。実人生に、物語の様な落ちなど無い。が、その背後に因果律がある。文学は正しい見地を描くものゆえ、作家はただ…その順番を並べ替え、何らかの真理を見い出そうとするだけの事です。
@ 非論理エッセイ 【カラスの勝手でしょ】
2022年12月31日
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日記
烏 なぜ啼くの
烏は山に
可愛七つの
子があるからよ
可愛 可愛と
烏は啼くの
可愛 可愛と
啼くんだよ
山の古巣へ
行って見て御覧
丸い眼をした
いい子だよ
(大正時代の原詩より)
だいぶ以前の事ですが、日本人になじみの深いこの詩句は「中国語の歌詞を翻訳した日本人の誤解から変形されたものではないか」と演繹推理しました。何故ならば、鴉(からす)は日本語で「可愛い」とは鳴かない。中国語発音の様に「可愛(クアイ/Kě’ài)」と鳴きます。史実を論証した訳ではないので驚く様な背景があるかも知れない、と思ったら見事に外れ。
この歌詞は野口雨情作で、どうやら氏の個人的な感慨から生まれたものらしい。七つというのは七羽の意ではなく、「当時七歳の子供を思って書いた」或いは「七歳の時に亡くなられた氏の母親の心を思った詩」という御家族の証言があります。ってな訳で、犯罪事件でも無い限り推理小説家の推論は当たりません。が、野口雨情の心を思うと意外な背景に感銘を受けました。
演繹推理の訓練は重要ですので、斯様なこっけい笑止・愚にもつかない勘違いが将来推理作家を目指す少年少女諸君の御参考となれば幸いです。え、唯のあほですか。参ったね。それでは、役に立ちそうな持論をもうひとつ。
うぐいすは「ほうほけきょう」と鳴きます。黄金の均衡を帯びた音色から、「法、法華経」と思いついた僧がいてもおかしくありません。自然の音声が先にあったのではないかという演繹推理ですが、この問いには答が無い様ですので「馬鹿チョン」と非難される恐れはなさそうです。何をどう推理しようが、法律には触れません。思考は、本人の勝手なのです。カラスにも、同様の権利があります。
ついでに一言。「鳥獣保護法を知らず、カラスを攻撃する人類が多過ぎる」と、顔馴染みのカラスから聞いた事があります。
「あああ、あああ」と諦め口調で啼いていました。
ヒッチコック映画「鳥」の原作(ダフネ・デュ・モ―リア著)は恐ろしい程の傑作です。自然保護精神が物語を支えています。
駄洒落のついでにもう一言。人類が言葉を思い付いたきっかけには、自然の音が背景にある。バタバタ、ドタバタ、ジタバタなども収束感の無い良く出来た言葉です。これも、役立たずですか。まあそう結論を急がず、こういう無駄話の中に文学のヒントがある、かも知れません。
「カラスの勝手でしょ」という今は亡き名人・志村けん氏のネタは「これが本当の歌詞と勘違いされる」とPTAから苦情が出たらしい。何とも野暮な逸話ですが、子供達は大喜びでした。今聴いても可笑しい。野口雨情氏が知ったら怒るかな。いや、粋(いき)を極めた氏であれば腹を抱えて笑い飛ばした事でしょう。
¶ キネマ倶楽部 【アンドレイ・タルコフスキー】
2022年09月24日
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日記
この映像作家に並ぶ、或いは超える映画監督は誰だろうと一人ずつ綜合力を比較した事があります。オーソン・ウェルズ、チャップリン、エリセ、黒澤、小津、ベルイマン、フェリーニ、ブレッソン、キューブリック、ヴィスコンティ、ガヴラス、バベンコと200人以上思い浮かべました。結果、誰もいませんでした。未だに、不思議な印象と感じます。が、何故不思議に思うかという観点にタルコフスキーの底知れない魅力があります。
タルコフスキー作品には多くの欠点があります。「惑星ソラリス」の背景描写は、その後のSFXや現代のCG技術と比較すれば稚拙と云われるでしょう。キリスト教的な表現は、遅かれ早かれ過去のものとなる。可笑し味を描かなかった生真面目な世界観。詩的と評される作風自体、普遍的真理とは異なる想念です。イデオロギー表現が観えてしまうケースも、ごく僅かながらある。等々…
ロシア時代には政治的な理由で長年に渡り公開を拒絶されたり、予算が無かったり、イタリアやスウェーデンなど異国で撮った事情には家族を残し亡命、病魔に冒されていた悲惨な背景などがあります。しかしながら、自分も含めた人生の苦難はあらゆる藝術の創世記から続く環境ですので、そういう小極的な論点は避けます。何故ならば、真の藝術というものは、あらゆる困難を前提としているからです。障害や妨害ゆえに、完成された傑作が生まれる。一例を挙げれば、ロシアの検閲があったからこそ強烈なイデオロギーや反核思想が限界値まで抑制され藝術表現に昇華されたとも云えます。そういう例は奇跡とも呼べる傑作の背後にあり、現代でも変わっていません。いつの時代の弾圧も、【国家】と称する少数の官吏官僚や関連する組織の上層部に拠ってなされます。ロシアという【国】そのものにも【国民】にも【組織に属する良識人】にも何ら関係ありません。むしろタルコフスキーは、人民大衆と映画関係者の絶大なる信頼を得ました。それはともかく…。
宗教的だという観点であれば、宗教という論点の土台から覆されるでしょう。バッハの曲を多用するから宗教的と考えるのであれば、それは西欧の生活環境を識らない人々の誤解です。精神的と論評する方々は、精神という概念を再検証すべきです。聖なるものというのであれば、聖とはなんぞやと考えさせられてしまう。どの観点も乗り越えた表現の局地に至っています。ゆえに、作家として創造の過程を追体験すると、下手な賛辞が空しくなる。最高傑作はどれかと云う事も出来ません。タルコフスキーの様な作家は、一つの観点に固執しない。過去に例の無い最高傑作を仕上げた後は、己の作品を乗り越えてより優れた傑作を仕上げます。しかしながら、その底辺には複数の作品に連なる確かな思想がある。ゆえに、神(因果を統べる法則)の領域に至るのです。宗教観とは関係ありません。
「アンドレイ・ルブリョフ」の全編を観るのは、現代の若者には苦痛でしょう。が、眠らずに観終えた方々は感動以上の覚醒世界に触れます。「僕の村は戦場だった」は観るのも辛い映画ですが、これを超える戦争映画はまず無いでしょう。「惑星ソラリス」の渦巻く海に比べれば、他のSF大作はどれも陳腐に思えます。例外的な名画「2001 年宇宙の旅」は、物理的観点に於いて傑作映像に違いありません。しかしながら、タルコフスキーの恐ろしい程の藝術的境地と想念の深みには遠く及びません。「鏡」の映像に思想が無いと云えば、その論点を疑わざるを得ない映像に圧倒されてしまいます。
「ストーカー(忍び寄るもの)」は、1908年6月30日に起きた隕石の落下事件を引用しています。4000キロ㎡に影響を及ぼした「ツングースの大爆発」は、記録に残る人類史上最大の事件であり、その後焼け跡を分析した科学研究から水爆や原爆が開発されたと推論せざるを得ない根拠があります。時間的にも辻褄が合います。演繹推論から社会の騒乱を招くのは本意ではないゆえ、閑話休題。
その「ゾーン」を20キロトンの爆薬で破壊しようとする学者を、作家とストーカー(案内人)が止める物語を通し人類の生存意義が語られる。意味深いせせらぎの画像、カメラの移動に矛盾する人物の位置、人物の移動の苦労に反してさりげなく現われる犬。この作品で一番感銘深いのは、ゾーンの室内に降り注ぐ雨です。水面の光がみず音と共に消えてゆく。そこに投げられた石の波紋と光の反射。羽ばたきながら翔び立つ鳥の群れ。廃棄された爆弾に近付く魚。列車の音に重なるボレロの旋律。結論の曖昧な表現と、非論理の哲学が登場人物の探求姿勢や迷いの中に示されています。
「魔法の映像」とか「詩的な作風」「魂の救済」という絶賛を空々しく思います。SF映画で他の作家が描く様な意識下の表層印象でも物質的な精度を誇る撮影技術でもなく…ごく現実的な映像、地に足の付いた確かな表現だからです。理解出来ない藝術や曖昧な表現を、魔術や詩として片付けるのは人類の悪い癖です。終幕で、テーブルのグラスを動かす少女の奇跡が表現されていますが、そこにも主題が暗喩されている。奇跡を起こす障害者の娘は、未来の子供達を象徴しています。思想は、次世代に受け継ぐ事を主たる目的として描かれる訳ではありません。自然に伝わるのです。その選択は、次世代の人々の良心によって決定される。
タルコフスキーの描く主題は、社会的な制約や人類の智慧の進化状況に比して、早過ぎた様にも思います。しかしながら、現代に至って良識ある多くの藝術家が、タルコフスキーの後継者となりつつあります。
映画批評の中で際立っていたのは、音楽家・武満徹の論評です。「驚くべき画像と音響」と絶賛し、タルコフスキーに対する追悼の意を表し「ノスタルジア」をイメージした曲を遺しました。「あの水のシーン(「ストーカー」のゾーンに降る雨)をどうやって撮ったのか、未だに分からない」と感嘆した黒澤明は、映画「夢」のラスト・シーンをタルコフスキー風に撮りました。既に亡くなられた作家ゆえ論証は出来ないのですが、タルコフスキーは小林正樹、溝口健二、小津安二郎など日本の映像作家の背後にある、能、歌舞伎、雅楽、本阿弥光悦などから影響を受けている筈です。それは、語り草となった水のシーン、炎の描き方、【能】の動きに基く「役者の過剰演技無用」とした総体の完成度や、画像と音楽のバランスから生じる「黄金の均衡」が感じられます。メソッド理論に基く演出法が、そらぞらしく思える程深みのある藝術の境地と云えるでしょう。人間だけでなく、状況すなわち全体法則を表現する殆ど不可能な作風だからです。
「ノスタルジア」にも犬が象徴的に出てきますが、初期の作品から遺作までの連作には明らかな繋がりがあります。「ノスタルジア」は出だしの画像から魅せられますが、主義や主張を超えた巨大な世界観が描かれています。通常の映画には「具体的な映像が世界観を限定してしまう」という大きな弱点があります。現実には、現代の名監督と云われる殆ど全ての作家が、様々な理由でそうせざるを得ない表現とも云えます。が、少なくともこの作家だけは、どんなに壮大なイメージをも超えているに違いありません。何故そうなるかと云えば、タルコフスキーの描く映像世界は物質的な観点を超えた精神世界ゆえと云えるでしょう。そこには、ありふれたモチーフとは異なる確たる思想がある。寡作と云われた全8作品を通しで何回も観ましたが、恐ろしい程の深い藝術感に圧倒されます。
絶作の「サクリファイス」では、家を燃やすラスト・シーンで事故が起きました。カメラマンがフィルムを入れ忘れたとも、カメラが故障したとも云われる。重病に冒されていた為に、これが人生最期の作品の終幕と知っていたそうです。怒りが静まると、もう一度全く同じ家を建て直しました。他の映画であれば…と軽く云えない例も多々ありますが…物理的な困難と云えない事もない。しかしながらこの映画の難しさは、思想全体の完全性…詰まりは藝術に於ける黄金の均衡にあったのです。
車の炎上のタイミングが難しい処です。狂った主人公が走り、それを追う妻や医師、悪魔と天使を兼ねる家政婦などが連続して映されます。家が燃え尽きる為に、二度と撮り直しは出来ません。右へ左へと動く長回しのワン・ショットで捉えます。そこで右往左往する人々は、彼の苦境も想念も理解出来ない。良く観ると、再度立て直した家は内部や家具などが不足しているのが分かります。余程辛い仕事であったろうと故人の無念が偲ばれますが、逆にそんな同情は無用と笑い飛ばすかも知れません。初めの撮影では、車の爆発シーンも機械の故障で失敗しました。撮り直しであったがゆえに、最高の映像となったのです。結果的に、あれ以上のシーンは映画史上稀です。その直後に病で倒れ、54歳で亡くなりました。
タルコフスキーの作品は、殆ど全てが欧州映画祭の賞を取っています。が、その栄誉は、作家から映画祭に与えられたものとさえ感じます。詰まり、タルコフスキーの作品を選ぶ事によって映画祭の格が上がったという印象です。現実に「ノスタルジア」完成後、受賞を条件に出品を要請したと云うエピソードまである。そういう裏工作はどの国に於いても昔から続く悪癖ではありますが、当時の映画祭には誇りと藝術性がありました。虚名や売上利益を目的とした訳ではありません。その風格と真の藝術性は、タルコフスキーに拠って生じたと云っても過言ではない。トップ10に居並ぶ天才作家が束になって掛かっても敵わない藝術性があります。
そして、タルコフスキーの屍を乗り越えて、僅かながらも新たな藝術が生まれつつあります。
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