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日前神宮と國懸神宮

2020-03-22 23:06:00 | 日記
日前(ひのくま)神宮と國懸(くにかかす)神宮と読む。
この両社は、少し特別な神宮である。まずかつては神階がなかった。神階とは、朝廷がその社の格を定めたもので、全神社に付けられているが、伊勢神宮にはこれがない。そして神階がないのは、伊勢神宮を除いてはこの2社だけである。どうゆうことだろうか?
次にこの両社、和歌山市の中心部に隣り合って建てられている。どんな状態で隣接しているのだろうか、主祭と摂社の関係ではないとしたらどうゆう関係なのか、長い間知りたいと思っていたが、考えているだけではわからない、行ってみることにした。
国道24号線バイパスを一路西に向かうと、2時間ほどで和歌山市に着く。目的地はすぐに見つかった。
入口には一つの鳥居しかない。


そこを歩いて抜けて真っ直ぐ進むと突き当たりで、左右に道が分かれている。T字路の状態だ。


まず左側の日前神宮に行く。
清楚な社殿だが、現在の社殿は大正時代に一新されており、この時に両社はほぼ対照になったと言われている。


國懸神社だ。全く同じに見える。


ではその前はどうだったのか、これが僕の知りたいことだったが見事に分からない。
現在の社殿は新しいものだし、その由縁を考える根拠にも乏しい。でもこの2神社は全く違ったものであるか、本当に双子神社であったのか非常に気になる。
和歌山の郷土史家さん、仮説でもいいので何か提示して貰えないでしょうか。
【後記】
キトラ古墳の四神館に行ったところ、最初の渡来人の名前が檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)であるという説明を見かけた。


これと何か関係はないだろうか。

日本唯一の宗教都市 天理市

2020-03-21 19:15:00 | 日記
天理市は日本唯一の宗教都市と言われている。まず駅のホームから改札に向かう途中、「ようこそ おかえり」という文字が目に入る。ユースホステルでは初めて訪れたYHでも「ただいま」と挨拶する習わしがあるが、それに近いものだろうか。後でこれには驚きの理由があることが分かる。
次に、街中で特徴的な建物を良く見かける。


これらの建物には、第40母屋京城詰所、などの名称が付いている。ナンバーは150を超えているらしい。駅近くの看板を見ると、緑が詰所で、赤っぽいのが教団関係施設・学校のようだ。病院も含まれる。



これだけ土地を持っていると固定資産税だけでも相当な額になるだろう。教団は更に、毎年用途を定めない額を市に寄付している。平成29年度の市の予算案では、歳入261億円中、寄附9億3千万円を見込んでいる。ふるさと納税が例年3千万円強なので、9億円が教団からの寄付ということなのだろう。すごい財力だが、昔は40億円ぐらいの寄付があったという。
駅前通りを東に向かうと、黒いハッピをきた人によく出会う。背中には天理教と白抜きされ、襟には所属などが白抜きされているが、失礼になるので余り良く読めていない。
しばらく行くと、教団本部に着いた。


神社風の外観だがともかく大きい。近づいてみると、鉄筋ではなく木造である。太い柱が惜しげもなく使われている。
誰でも入れるというので上がってみると、中は畳敷の何百畳あるかという広間であり、所々で信者と思しき人たちが中心部に向かって正座し、祈りを捧げている。中心部に向かうと、そこは2-3m凹んだ石畳になっており、中心に円柱が建てられていた。後で分かったが、これが「おぢば」らしい。「おぢば」とは、人類が生まれたところだという。だから天理市に来るということは発祥の地に戻ってくることなので、冒頭の「おかえり」になるというわけだ。

ところで天理市の名称は、丹波市から変わったと思っていたが違った。丹波市(いち)町と周辺の5町村が合併して市になった時、住民の意思で天理市としたそうだ。因みに教団は、このうち5町村が属していた山辺郡から、山辺市を推薦していたとのこと。しかし各議会議員の多くは教団出身者で占められていたと思われ、これは少し眉唾であろう。
僕はこの教団については詳しく知らないが、悪い印象は持っていない。教義が「陽気ぐらし」と単純で、道ゆく人は僕にも挨拶をしてくれる。霊感商法や洗脳の噂も聞かない。寄付金の出捐が負担という声をネットで聞くが、それはどの宗教でも同じだろう。

謀議の地 談山神社

2020-03-21 15:28:00 | 日記
今日は三連休の初日で春の陽気だが、コロナがあるのであまり人の多いところは避けたい。
レンゲ畑を探して大神神社の前を南下し桜井市に至ると、やがて道はT字路にぶつかる。左 多武峰 談山神社の標識が見えたので左折した。こう書いて「とうのみね たんざんじんじゃ」と読む。名前はよく聞くが、どういうところだったか。
曲がりくねった道を行くと、やがて談山神社に着いた。


まず説明文を見ると、祭神はあの藤原鎌足だった。鎌足の長男である定慧が唐から戻って建てたらしい。大化改新、今は乙巳の変というのが一般的だが、その直前に鎌足と中大兄皇子がこの山の藤の下で謀議を練ったことから、談山神社という名称が一般的になったらしい。


境内の隅では湧水が小さな滝を作っている。


その右側に十三塔が立っていた。この神社の始まりであり象徴である。678年建立だが、現存の塔は1532年の再建、木造の十三塔としては世界唯一ということだ。


本殿の様式が変わっている。


入口に入るとご自由にお上がり下さい、との表示に従って靴を脱いで上がると、細長い畳の部屋だった。


ここから向かいの神殿を遥拝する。


本殿の右には東殿[恋神社]がある。鎌足の正妻である鏡女王、定慧、次男の不比等が祭られている。鏡女王は、元は天智天皇の妃であり、この二人、どんな関係なのだろうか。


二人が初めて会ったのが蹴鞠の会だったことから、春と秋には古式ゆかしい装束で蹴鞠祭が催される。

帰り道は飛鳥の方に降りてみることにした。車とはすれ違わなかったが、バイクにはよく会った。中には自転車で登ってくる人もいる。何かの罰ゲームだろうか。15分ぐらいで、いきなり石舞台古墳に出た。なるほど、謀議を図るにはお誂え向きの場所だ。


元に戻す?高松塚古墳

2020-03-19 08:01:00 | 日記
高松塚古墳に向かう。
以前は農道の脇の、竹蒸した崩れた丘だったのだが、1972年、極彩色の壁画で有名になった。
今の高松塚古墳は、綺麗な円墳になっていた。2段にしているところも忠実だ。周りは国立の公園として整備されている。だがここにあの壁画はない。


痛んだ壁画を修復するため、2007年に石室が解体され、公園内の施設で作業が進められている。2017年完成予定で、完成後は塚に戻される予定だが、2020年3月現在も実現されてはいない。
遅れているのは問題ない。日本の復原技術は世界的に定評があるし、じっくりやってもらいたい。それはいいが、元に戻すべきなんだろうか?
気になったので、近くのキトラ古墳に行ってみた。大陸風の壁画がある古墳は、今のところこの2基だけだ。
キトラ古墳の周りも芝生公園として整備されており、古墳自体も円墳として復原されている。


ここでも石室は取り出され、修復されていたが、違うのは元に戻さず、近くの展示館で展示されているらしい。


その方がいいよね?
尤もコロナ対策でしばらく休館とのこと。実物を見ることは出来なかった。
【追記】
4月26日、高松塚の壁画の修復が終わったとの報道があった。今後は公園敷地内に保管・展示施設の建設を検討するという。うん、絶対その方がいいよね。
【更に追記】
再度キトラ古墳に行って、大きな思い違いに気付いた。キトラの石室は凝灰岩でできており、その上に漆喰を塗り、絵が書かれていた。壁画修復ではこの漆喰を剥ぎ取り、再度ジグゾーパズルのように平面上に再現させた。
そして壁画本体は四神館の1階に保管し、石棺は古墳の元の場所に埋め戻してあるという。高松塚も恐らく同じやり方になると思われる。

石段の壁、室生寺

2020-03-08 18:21:00 | 日記

初瀬まで来たので、室生寺に行くことにした。一路東に向かう。国道はまだ良かったが、右折して県道に入った途端、道はS字急カーブの連続になった。怖くて40kmぐらいしか出せないでいると、後ろに車が溜まるようになった。空地を見つけて先を譲る。こんな時車の大宮No.に感謝したくなる。

室生寺は、突然開けた隠れ里のような土地にあった。

室生寺金堂。いい具合に色褪せている。


有名な五重塔。


1階部分で1.5m前後、2層以上は1m強だろうか、他の塔の1/2ぐらいのサイズだ。平安初期の建造だが、色彩が豊かなのは20年前の台風で被災し修復されたためなのだろう。


この先に奥の院があるというので行ってみたら、石段の壁が待っていた。一直線に上に向かっており、後で分かるがこれで終わりではない。



これ登るのか、と怖気付いたが、結構な年配の方々も登っているので逃げることもできない。何度も休みを取りながらやっと奥の院にたどり着いた。御影堂と位牌堂、それに札所がある。



すごいなあの女性の職員さん、毎日ここを登り下りしているのか。熱心にお参りしているお婆さん、大丈夫ですよ、足腰は確かですよ。

位牌堂には、金色の位牌が何百柱も並んでいた。

高名の木登りの話を思い出しながら、注意深く下山した。

山門を出たところ、寄付者の名簿が掲載されており、台湾の方々の名前も見られた。



台湾では媽祖、関羽や道教などが尊ばれ、仏教は余り聞かない。ありがたいことだ。