YEAR3210

風に転がる迷走日記

迷走式ブログ黙読劇場 「しょうないね」 上

2010-02-11 11:34:59 | 日記
       


 しょうないね (上)


                                        
 いくら温暖な海に面した街といえども二月の海から
吹き付ける混じりの風は痛いほどだった。
海岸沿いにぽつんとある黒い壁の番小屋の影で、海猫
がじっとその風と寒さに耐えていた。
人間にとってその冷たく厳しい風はつらいもの以外、
なにものでもなかったが、海猫にとっては、むしろ心
地よいのだろうか、時折、その風に逆らって飛び立ち、
涼しい顔をして波のしぶきと風と戯れるように見えて
いた。番小屋の前にバス停があった。一日に数本しか
ないそのバス停の時刻表には手書きの時間が記されて
いた。潮風にさらされているその時刻表の文字は潮に
滲(にじ)んでいた。浩一はバスから降り、その寒さ
に身をすくめていた。
 バス停から数分歩いた住宅街の中に浩一の実家があ
った。背中に背負っているのは例に漏れず、いつもな
がらのギターである。浩一は地元の高校に通ううちに
音楽に目覚めそして傾倒し、プロのミュージシャンを
目指して東京で音楽活動をしながら自力で生きていた。
東京から電車で二時間のその街にある実家に浩一は時
折、帰ってきていた。そんな生活が始まりすでに五年
の月日が流れていた。浩一は小さいうちに父親を亡く
し、母に女手ひとつで育てられていた。浩一が「ただ
いま」といって玄関の引き戸を開けると、海岸の殺伐
とした様子から打って変わり、石油ストーブの熱気と
準備されている夕食の匂いが浩一を包み込んだ。浩一
にとってはそれがひとつの幸せ、子供に戻る瞬間だっ
た。
「バスで来たの?」浩一の母がそう聞いた。
「うん」浩一はそっけなくそう答える。
「電話すれば駅まで行ってあげたのに」
「いいんだよ、別に」浩一はそう言いながらそのまま
にしてある自分の部屋に行きギターケースをベッドの
上に放り投げた。
「お風呂、出来てるからすぐに入ってよ」台所で浩一
の母親は料理をしながらそう言った。
浩一の母親は、浩一が音楽活動をするために東京にい
くことは断固として反対だった。一人息子であるがゆ
えに出来れば地元に残させ、自分のもとにおいておき
たかった。浩一は独りの母親のそんな心情を充分に感
じてはいたが、それ以上に音楽にかける情熱が、その
狭間(はざま)では勝っていた。自分の若さを信じて
いた。母親も息子には息子の人生がある、潮時と感じ
るその時まではと自分に言い聞かせていた。母親も四
十代半ばとまだ若かったのだ。
 浩一は風呂から上がるとぬれた髪も乾かすことなく、
誰からともなく届く携帯電話のメールに夢中になった。
「しょうないねえ、ほら、風邪ひくよ」母親は出来立
ての温かい料理と刺身を食卓に並べていた。しょうな
いね、とはその地域、独特の方言で、しょうがない、
どうしようもない、などと同意語である。東京のアパ
ートで暮らす浩一にとって時折帰ってきて実家で食べ
るごく普通の食事が最高のご馳走だった。
 すばやく食事を終えた浩一は「ちょっと出かけてく
る」と言った。
地元の何人かの友達と帰ってくるなり、夜な夜なその
仲間たちと合流するのだ。
「どうやって行くの?」
「拓海が迎えに来る」
「絶対、酔っ払い運転、だめだからね、今は助手席で
もだめなんだからね」浩一の母親は母親の口調でそう
言った。
「わかってるよ」ありふれた母と子の会話だった。



 いつもの居酒屋に着くと親しい地元の仲間たちが集っ
ていた。家業を継いでいるものや、いまだ親の世話に
なり大学に通っているもの、大学を辞めてしまい地元に
帰り、ほとんどなんにもしてないものなど様々だった。
若さが溢れる二十代前半の若者たちはみんなまだまだ夢
の途中で酔いが回るにつれそれぞれの夢を語っていた。
その若さではあるが小中学校時代からの友達はみんな
good old friends(グッドオールドフレンズ)だった。
その中の一人、野球に青春をかけていた良介はあと一歩
というところで甲子園を逃した野球
少年だった。高校生の時分、西武ライオンズのスカウト
から一目置かれるほどの存在だったが、よき指導者に恵
まれず今では地元の銀行に就職して草野球を楽しんでい
る。左打者だった良介は超個性的な独特のフォーム、バッ
ティングスタイルでその才能を開花させようとしていた
のだが、基本に反するという当時の野球部の監督にその
スタイルをオーソドックスなスタイルに矯正させられて
しまったのであった。十代の子供、保護者は先生の言う
ことが正しいと信じた。その事実が良介の才能を封じ込
めてしまった。教育とは時としてその個性、才能の芽を
むしりとってしまうのだ。良介の心のアイドルはイチロー
だった。その事実は良介が身を持って自ら体験したこと
だった。矯正させられたフォームはどんなにがんばって
も元には戻らなかった。体がそれに合わせるように成長
してしまったのだ。若者たちはそんなことが充分わかる
年頃で、いつも明け方までそんなことを語り合っていた。
それもひとつの青春だった。
「浩一、まだがんばってんの?」高校生の時、一緒にバ
ンドを組んでいた貴明がそう聞く。
「なんとか、でも、なんか先が見えないんだ。そんなに
甘いもんじゃねーよ」
「都内でライブとかやってるんだろう?」
「今は、全然やってない」
「え、なんでよ。昔だったらとにかくライブ、ライブだ
ったじゃねーかよ」
「なかなか曲が作れねーんだよなあ」
「ライブなんか誰かの乗りのいい曲、テキトーにやりゃ
あいいじゃねーかよ」
「おまえ、なーんにもわかってねーなあ」
「なんでだよ。おまえの東京のバンド、みーんな超うめ
ーじゃん、誰っつったっけ、ギターのやつ、あのギター、
すげーぞ。誰のコピーでも完璧に弾いちゃうじゃんよ」
「ちがうんだよ、ちがう。腕じゃねーんだよ。なんつー
のかな、おれ、コピーだのカバーだのじゃなくて自分の
歌で勝負したいんだよ。自分の歌だけでライブやりてー。
オリジナルでさあ。しかもあいつらと最近、会ってねー
し。コピーって所詮、借り物なんだよなあ」
「メンバー、うまくいってねーのか?」
「そんなことないけど、たまに練習場で会っても、これ
完コピしたから聞いてみてとか、あの有名バンドの曲の
間奏のギターの音、出し方わかったとかそればっかなんだ」
「でもそいつ、プロ目指してるんだろう?」
「もちろん。メジャー指向。でも創作意欲無し。へんだ
ろ、これ」
「ふーん。なんかおまえの言いたいことわかる気がしなく
もねーな」
「そう、つまりな、おれの言いたいことは確かに東京、す
げーけど、みーんな狭い世界で、そこだけの王様なんだよ、
そう、公園のガキ大将、広場の王様。こっちとあんまり。
かわんねー。東京、たいしたことねーや。みんな自分の腕
ばっか自慢してるし。おれなんかギター、超下手だし。ラ
イブやっても来てくれる顔ぶれいつもあんまりかわんねー
し。渋谷ですごい人のライブあるからって誘われるだろ、
暇だから酒飲みついでに行くけど、そのすごい人ってのは、
2年前に誰かのやりましたとか、3年前に誰かのアルバムに
一曲だけギターで参加しましたとか、そんなのなんだ。別
にすごくもなんともない。そんで、そいつらのテクニック
に感動してんだぜ。それはそれで認めるけど」
 そんな浩一と貴明の会話が夜更けまで続いていた。

 浩一はバイト先に一週間ほど休むと伝えてあった。情熱
はありながらも何となく木枯らしの季節のせいもあり滅入
った
気分になっていたからだった。融通のきくバイト先だった。
生まれ育った海を見ているだけで心が和んだ。二階の浩一
の部屋から海が見えた。暖かい部屋から荒れる冬の海を眺
める。このひとときが浩一はたまらなく好きだった。しか
し、それも一週間が限度。なぜなら決まって母親とささい
なことで喧嘩になるからだった。ありがちなことである。
浩一は常々、母親からそのまま散らかし放題にしてある自
分の部屋をかたせといわれていた。外は寒いのでこの際、
いっそ徹底的に自分の部屋をかたそうと考えた。本棚やベ
ッドの下に無造作に置かれているたくさんの本、音楽の教
則本、音楽雑誌。そして有名なバンドのバンドスコアー。
ほとんどが高校生のときにアルバイトをして得たお金で買
ったものである。押入れの中には安物のギター。弦が錆び
て切れてそのままになっている。もはや一文の価値もない。
でもそれらは捨てるに捨てられないものだった。押入れの
中をまさぐっていると古いアルバムが出てきた。そのアル
バムには浩一の幼少の頃の写真が丁寧に貼り付けられてい
た。ひときわ目立ったのは浩一と父親の色褪せた唯一のツ
ーショットの写真だった。浩一の父親は浩一が小学生のと
きに病気で他界していた。若い父親は髪を長く伸ばしてい
た。そしていかにも眩しそうにカメラに向かってピースサ
インをしていた。その横にしかめっ面をした浩一自身が写
っていた。その写真を撮ったのは自分の家の庭先、夏の写
真だった。そのときの記憶は浩一にはなかった。少ない父
親との記憶の中で鮮烈なのはいつも近くの海まで自転車の
後ろに乗り、遊びに行ったときのことだった。一番強く記
憶に残っているのは海で遊んだ記憶ではなく自転車の後ろ
に乗ったときに父親の背中に汗が滲んでいたことだった。
オレンジ色のシャツ、くわえタバコのタバコのにおい、心
の中にそんな風景が記憶としてはっきり残っていた。浩一
はその写真をしばらく眺めていた。父親は当時、流行って
いたフォークソングが大好きな男で自らも趣味でギターを
弾く男だった。いつしかそれも飽きてしまったが庭先の倉
庫から時々、古いギターを引っ張り出しては片目を閉じて
ネックのそりを気にかけていた。そんな場面も浩一の記憶
の中にあった。
 結局、古いものの発見で部屋の掃除はままならない。
いつもそうして中断するのである。ときとして、それ以上
に部屋が散乱することもある。
 庭の世話の好きな浩一の母親の手により実家の庭先はき
れいに整っていたが、植物が最もおとなしくなるその時期、
芝や木々は冬色を呈(てい)していた。その中でひときわ
赤く冬椿(ふゆつばき)だけが
咲き誇っていた。
浩一は家に入り母親に子供のような口調で、その花のこと
を伝えた。
「ねえ、なにあれ、ひとつだけ真っ赤な花が咲いてるけど」
「毎年、この時期になると咲くでしょうよ。浩一が小さい頃
からずっと毎年・・・知らなかったの!?」
「・・・」
 幼少の頃からずっと自分の家の草花のことなど、いっさい
浩一の目には入らなかったが、その時になり、その事実に気
がつく。人間は年齢を重ねるごとに感性は自然美に気がつく
ようになっていく。無意識のうちに感性は良くも悪くも変わ
っていくのだ。
うすうすとみんな同じ色に染まっちゃいけないと浩一はその
真紅の花を見て考えていた。それは自分の目指す音楽に限ら
ず、自分自身にも言えることだと思うようになっていた。
それこそがオリジナリティーだった。20代の若者の成長速度、
吸収力は驚異的なのである。
 浩一はとにかくメロディを作り、それにふさわしい詞を書
くことに没頭していた。浩一がこれまで作ってきた歌は奥行
きのないものがほとんどだった。ジレンマとの葛藤である。
時にふと、いいメロディが浮かぶ。それを即座にMDに記録す
る。ギターを弾きながら、いくつかのメロディを組み合わせ、
とりあえず歌が出来上がる。問題は詞にあった。23歳という
年齢では普通に育っていれば世の中のこと、その裏と表、
人との出会いや別れ、人生経験、体験、挫折感などを味わう
ほどの絶対年数が足りない。それなりに体験はしているのだ

 浩一は海を見ながら去年の夏の出来事を思い出していた。
その頃から付き合っている彼女がいる。三つ年上のその彼女
は浩一に比べたら果てしなく大人の女性だった。花屋で働く
その女性、ジュンは浩一の最大の理解者だった。浩一はバイ
トで少しのまとまった金が出来るとレンタカーを借りてジュ
ンを海に誘った。ときとしてその行先が浩一の実家のある町
であることもあった。もちろん、ジュンはそのことを知って
はいたが浩一はとても自分の実家にジュンを招くことなど出
来なく、実家の近くの海岸道路を車で通過することもあった。

「せっかくここまで来てるんだから家に寄らないの?」
「寄れるわけないよ、いきなりジュンと帰ったらおふくろ、
多分なんにもしゃべれなくなるな」浩一はそう答えた。
「そうかなあ、あたしは全然平気なんだけどな」
「今、こんなに近くにいるのに、浩一のおかあさん、浩一は
今、間違いなく東京にいると思ってるんでしょう?」ジュン
は遠い目をして海を見ながらそう言った。
 その海岸線から100メートルほど沖合いに大きな黒い岩が見
えていた。潮が引いたときを見計らえば泳いでいける距離にそ
の岩はある。
浩一が中学生の頃、夏になると悪仲間たちと泳いでその岩に
わたっていた。遊び仲間の一人の腰には厳重に輪ゴムで封を
したビニール袋を縛り付けていた。
浩一はその袋の中のものには手を出さなかったし、おかしな
興味も持たなかった。袋の中身は煙草とマッチだった。
「昔、よくあの岩まで渡ったんだ」浩一が煙草に火をつけ
ながら言う。
「どうやって?」
「泳いでに決まってるでしょう」
「ふうん。あ、わかった、あの島でなんか悪いことしてた
でしょ」
「あれ、島じゃないぜ、でかい岩だよ。オレだけは悪くなか
った、悪いことしなかった」
「ホントに?」
「ホントに」浩一は念を押すようにそう答えた。
「秘密の島だったんだね」都会育ちのジュンにとってそのよ
うな世界は空想上の出来事というぐらいの観念があった。
「そうかもしれないなあ、あの頃、確かに冒険の島だったか
もな。誰も知らない秘密の島、SEACLET ISLAND(シークレッ
トアイランド)・・・。なんかいいな、それって。でもみんな
知ってたけど。あそこで煙草吸ってるってことも。中学の先
生さえ知ってた」
「ほら、やっぱり悪いことしてた」ジュンはそう言いながら
屈託のない笑顔を見せた。

つづく