YEAR3210

風に転がる迷走日記

アリの動物園

2010-06-04 23:35:01 | 日記
子供がまだ小さかった頃、よく動物園に連れて行った。動物園などは
子供をダシにしないとなかなか行かないところなので、大人が動物を
見たいからと言う気分も正直あった。上野動物園で缶ビール片手に象
を見ていた。
子供はその象には全く興味を示さず、檻の前にある僅かな砂地に生え
ている草むらを眺めていた。両手で子供を抱え挙げてもいっこうに象
を見ない。ただ地面だけを気にしている。なぜだろうと思ってしゃが
みこんでみるとそこに小さなアリが群れをなしていた。
子供の視線は低い。大人の見えないところが見えている。まして、全
く動こうともしない像をただ眺めているより、忙しそうにざわめいて
いるアリを見るほうが子供にとってはおおいに疑問を感じ、不思議を
感じるのである。興味、なぜなぜ感はそういう他愛の無いところから
生まれてくるのだ。動かない像を見ても大人でさえ三分もあれば確実
に飽きる。
それならば今度は熊だと言うことになる。熊は大きな溝のその向こう
のコンクリートで模擬的にこしらえた岩山で昼寝をしている。その岩
山に植栽された木々には自由なカラスが熊を見下ろしている。子供の
視線はあきらかにカラスにあった。東京駅から上野までの異動空間は
すべて人工物の中である。上野駅公園口から上野動物園までは一応は
木々があり公園的であるがそれは明らかに人間が作り上げ人造物であ
る植樹区域はフェンスや煉瓦でたて分けられ、地面はコンクリートで
固められ側溝がある。子供にとって動物園の動物はその延長線上にあ
るにしか過ぎないのである。
軍隊ありが列を成してひとつの方向に向かっている。その列は草むら
の中に吸い込まれている。子供にとってはその行く先が気になってし
ょうがない。
中にはその流れに逆らって逆向きに走るアリもいる。
「きっと忘れ物だ」と言うと子供は批判的な目で親を見上げる。
たかだか二、三才でも本能的に何かを感じているのだろう。大人は子
供に対して色々なことを擬人化するくせがある。それで子供を力尽く
で納得させようとしているフシがある。ディズニーランドなどはある
意味でその極地ではないのだろうか。
それが平和の象徴であることは間違いない情操教育という面ではいい
のかもしれない。
しかし、ほのぼの、たのしい、みんな仲良し、さあ、手をつなごうで
は、本来の野生本能、防御本能、創造力、加えて体力は衰えていくの
ではなかろうか、
数年前までは子供をつれよく釣堀に行った。今は誘っても絶対に来な
い。
理由を尋ねると「サカナがかわいそう、面白くない」と答える。
それならば海釣りはと聞くと目を輝かせ、飛び跳ねてよろこぶ。
海釣りのサカナに対してはかわいそうと言う意識はなく楽しくてしょ
うがないということがよくわかる。子供たちは冒険がしたくてしたく
てうずうずしている。
学校は五時までに家に帰ること、学区外には絶対に行かないこと、港
には行かないこと、云々、規則を子供たちに与えて子供の安全を守ろ
うとする。
果たしてそれでいいのだろうか。だから子供たちはゲームの中の冒険
に逃げるしかなくなっている。格闘ゲームやアドベンチャーゲームに
視線をあずけるのだ。
時代は変わってしまったと言えばそれまでだが、最近のこんな子供た
ちが近い将来、国を運営する係りになる。僕らこれから老人予備軍は、
その子供たちが管理監督するこの国の中で生かされる?生きることに
なる。
不安を感じるがだからこそ、この先、老人の絶対数は増えるが強い老
人も増えていく公算でいる。だから何となくは安心しているのだが。
いつの時代でも人が集まれば十人十色でありプラス例外がいる。
歴史の中でその例外とは坂本龍馬だったりジョンレノンだったりする。
例外が増えるとそれは平凡に変わる。
例外になりたいが、例外は暗殺されるから考えなくてはならない。
例外者になるために必要なものは思想だ。突拍子も無い思想が時代を
変える。
混迷するこの国は、もはや例外的政治家が出現しないと救われないの
かもしれない。

今の老人達はかつては本当に軍隊アリみたいだった時代もあった。
どっちがしあわせなんだろう。