以前のここにも書いたけどこの週末、気仙沼へ出かけることになっていた…。
石原都知事がこの未曾有の災害に関し暴言的なことを言ったが確かにその
とおりだと思う。被災者の心情、現在置かれている避難所などでの生活の実
態を思えば、当然、批判されるだろう。しかしこの十年を振り返ってみると、
人はコンピューターに支配され、パソコンだのプリンターだの、日本の住宅
事情にそぐわない大型テレビだの挙句の果てには3Dテレビだの、そして携帯
電話にしがみつき、街に出れば何の理由も無く包丁を振り回す人がいきなり
現れ、何のわけも無く家から出なくなりいい年をした人が親の援助で暮らし
ていたり、どうみても世の中が狂っていたことは言うまでも無い。この辺は
みんな薄々気がついていたはずだ。
昔、鉄腕アトムなどでは例えば携帯電話のような夢物語が描かれていた。
その夢はかなったかのように見える。しかしその頃、その夢に対して例えば
携帯電話だったら、基本料金、何とかプランなどがあるってことはその頃は
夢にさえ思わなかったはずである。
本当に夢がかなったといえるのはすべて無料になった時ではなかろうか。
今回の大震災、これはある意味ひとつの大きな節目ではなかろうか。
この震災を1000年に一回の大災害だと専門家は言う。だからもう死ぬまでこ
のような災害に見舞われることは無い、というのは大きな間違いだとTAIGA
は言う。
その理由を聞いた。そして納得した。
0年から1000年までの1000年間でこの災害が1000年目だとする。1001年目から
2000年の間、1000年に一回の大災害が1001年に起きたとしてもそれも1000年
に一回の発生確率の災害である。だから人は一生の間に1000年に一回の大災
害に遭遇することは二回あり得るのだ。なるほどでありますね。同じ理論で
言えば一億年に一回の確率で起こる大災害も一生の中で二回経験することも
あり得る事だ。なるほどである。
テレビでは連日、学者、専門家、有識者、にわか評論家が出てきていろん
なことを言う。それぞれが自信ありげの持論を言うのだがみんな、どこか内
容的なことを含めて言うことが違う。我々はテレビの中のオッサンが言うこ
との傍観者でしかない。しかし、自然の驚異はものすごい。アメリカのCGを
駆使したパニック映画の映像、ありえないと笑いながら見ていたがその映像
が実際に起きてしまった。自然の力はまさに想像を絶するのだ。原発ではホ
ースで水をかけている。たかがホースで放水である。現代の科学技術のカタ
マリである原発の暴走を食い止めるための最後の手段が放水である。コンピュ
ーターなどは何の意味も成さない。天気予報ではダムの付近で少し大目の雨
が降ったので発電量が増し、電力が少しまかなえると言っている。
水力発電はもっとも原始的な発電方法と思えるのだが、ここでも自然の力、
たかだか雨、水である。この事実を重たく受け止めなけばいけない。
先日、水を片っ端から集めて一週間ぶりに風呂に入った。追い炊きのでき
る浴槽でよかったとしみじみ思うが風呂に入ってからお湯を追加できないか
ら風呂オケ一杯のお湯でカラダを洗い同じように頭も洗う。それだけでもお
湯はみるみる減ってゆく。今までは、ほぼシャワーは出しっぱなし、そんな
入浴の仕方だった。
人の体は不思議なもので三日目あたりからもう風呂に入らないでもいいな、
という気持ちになってくる。生涯、風呂に入らなくてもいいな、と言う気分
になった。人の体は勝手に順応化する能力を持っているのだ。風呂は無くと
も必要なものは「水」である。
水は無い。アルミホイルでこしらえた皿、割り箸は使わずあえて竹を裂いた
箸で食事をする。これがある意味、冒険的だ。生活スタイルが昭和のはじめ
ごろに一部戻っている。
当分、こんな毎日が続くという。瞬時に津波に足元さえすくわれなければ、
建物の下敷きにならなければ、健康を大前提として食料と寒さをしのげる衣類、
毛布、水さえあれば瓦礫で小屋を作り、生きていける。その途中、同じよう
な境遇の野良犬と家族になり、ともに生きていける。来るなら来てみろ大災害
という感じである。しかし、生きていけない。それはなぜか?そういう状況に
なると間違ってもビールは無いであろうからである。
この場を借りて救援してくれている、励ましてくれている友達の方々にひとま
ずお礼を申し上げます。どうもありがとう。さて、庭に水でも撒いてシャワー
でも浴びて、車でも洗いに行くかな。
そんな当たり前が既に間違っていた。
石原都知事がこの未曾有の災害に関し暴言的なことを言ったが確かにその
とおりだと思う。被災者の心情、現在置かれている避難所などでの生活の実
態を思えば、当然、批判されるだろう。しかしこの十年を振り返ってみると、
人はコンピューターに支配され、パソコンだのプリンターだの、日本の住宅
事情にそぐわない大型テレビだの挙句の果てには3Dテレビだの、そして携帯
電話にしがみつき、街に出れば何の理由も無く包丁を振り回す人がいきなり
現れ、何のわけも無く家から出なくなりいい年をした人が親の援助で暮らし
ていたり、どうみても世の中が狂っていたことは言うまでも無い。この辺は
みんな薄々気がついていたはずだ。
昔、鉄腕アトムなどでは例えば携帯電話のような夢物語が描かれていた。
その夢はかなったかのように見える。しかしその頃、その夢に対して例えば
携帯電話だったら、基本料金、何とかプランなどがあるってことはその頃は
夢にさえ思わなかったはずである。
本当に夢がかなったといえるのはすべて無料になった時ではなかろうか。
今回の大震災、これはある意味ひとつの大きな節目ではなかろうか。
この震災を1000年に一回の大災害だと専門家は言う。だからもう死ぬまでこ
のような災害に見舞われることは無い、というのは大きな間違いだとTAIGA
は言う。
その理由を聞いた。そして納得した。
0年から1000年までの1000年間でこの災害が1000年目だとする。1001年目から
2000年の間、1000年に一回の大災害が1001年に起きたとしてもそれも1000年
に一回の発生確率の災害である。だから人は一生の間に1000年に一回の大災
害に遭遇することは二回あり得るのだ。なるほどでありますね。同じ理論で
言えば一億年に一回の確率で起こる大災害も一生の中で二回経験することも
あり得る事だ。なるほどである。
テレビでは連日、学者、専門家、有識者、にわか評論家が出てきていろん
なことを言う。それぞれが自信ありげの持論を言うのだがみんな、どこか内
容的なことを含めて言うことが違う。我々はテレビの中のオッサンが言うこ
との傍観者でしかない。しかし、自然の驚異はものすごい。アメリカのCGを
駆使したパニック映画の映像、ありえないと笑いながら見ていたがその映像
が実際に起きてしまった。自然の力はまさに想像を絶するのだ。原発ではホ
ースで水をかけている。たかがホースで放水である。現代の科学技術のカタ
マリである原発の暴走を食い止めるための最後の手段が放水である。コンピュ
ーターなどは何の意味も成さない。天気予報ではダムの付近で少し大目の雨
が降ったので発電量が増し、電力が少しまかなえると言っている。
水力発電はもっとも原始的な発電方法と思えるのだが、ここでも自然の力、
たかだか雨、水である。この事実を重たく受け止めなけばいけない。
先日、水を片っ端から集めて一週間ぶりに風呂に入った。追い炊きのでき
る浴槽でよかったとしみじみ思うが風呂に入ってからお湯を追加できないか
ら風呂オケ一杯のお湯でカラダを洗い同じように頭も洗う。それだけでもお
湯はみるみる減ってゆく。今までは、ほぼシャワーは出しっぱなし、そんな
入浴の仕方だった。
人の体は不思議なもので三日目あたりからもう風呂に入らないでもいいな、
という気持ちになってくる。生涯、風呂に入らなくてもいいな、と言う気分
になった。人の体は勝手に順応化する能力を持っているのだ。風呂は無くと
も必要なものは「水」である。
水は無い。アルミホイルでこしらえた皿、割り箸は使わずあえて竹を裂いた
箸で食事をする。これがある意味、冒険的だ。生活スタイルが昭和のはじめ
ごろに一部戻っている。
当分、こんな毎日が続くという。瞬時に津波に足元さえすくわれなければ、
建物の下敷きにならなければ、健康を大前提として食料と寒さをしのげる衣類、
毛布、水さえあれば瓦礫で小屋を作り、生きていける。その途中、同じよう
な境遇の野良犬と家族になり、ともに生きていける。来るなら来てみろ大災害
という感じである。しかし、生きていけない。それはなぜか?そういう状況に
なると間違ってもビールは無いであろうからである。
この場を借りて救援してくれている、励ましてくれている友達の方々にひとま
ずお礼を申し上げます。どうもありがとう。さて、庭に水でも撒いてシャワー
でも浴びて、車でも洗いに行くかな。
そんな当たり前が既に間違っていた。
風呂に入らないので保湿効果が表れてきた
・クルマを運転するときはアクセルを極限まで
ゆっくり踏みムダなガソリンを使わない
・水はよく噛み、よく味わう
・ビールは嗜好品ではなく水分として補給
・テレビをやめ、ラジオで情報収集
・エネルギー削減分は東北の方の助けになると 信じる
・水道はまた必ず通ると信じて頑張る
・消費すべきことは消費し経済活動の妨げはし ない
この10日間で思うことです