昨日、某所で、一人の女性と、一人の男性が話をしている。
就業中であれば好ましい事ではない。
W>明日午後に研修に行くのです。
M>付近には、◯◯というお店があり、帰りに寄ると、うんぬん。
私>研修が終わったら、早く帰宅しなさい。
飼っている猫が待っている。
猫と人(あなた)では、時間の流れ方が違う。
今日
W>昨日、帰宅したら猫が非常に具合が悪かった。
具合が悪いのを予知したのですか?
私>病院に連れて行ったのか?
W>いいえ。私がいれば。
私>あなたには、たくさんの交友があるだろう。
でも、猫にはあなたしかいない。
(昨日のあなたには、猫への気持ちが抜けており
私は言わずにはいられなかった)
仮に私がなにかを感じることが出来たとしても
自分か、血の濃い人か、なにか強い関連のある人でないと
不可能だ。
私はあなたを知らないし、猫も知らない。
死んだ動物の口寄せをする人もいるけど、私には
そういうことが実際にできるのかはわからない。
(この場合は違うが、余談であるが旧約聖書の日本語訳では
”知る”は、性的、肉体関係を意味することがある)
猫と人(あなた)では、時間の流れ方が違う。
猫は2歳ということであれば、あと最長で25年は生きる。
インコ、オウム類も長命なものだと飼育下で100年生きる。
動物は、飼い主が全てで、その精神的な寂しさは、
仮病を使うこともある。
人の世界の介護でも、動物でも、精神的な寂しさ、苦しさは同じだ。
W>27歳 そんなに…
仮病…
彼女は、時間のある時に、スマートフォンから
リモコンカメラで遠隔で猫の様子を見ていたようだ。
彼女を傷つけるつもりはなかった。
でも、私は言わずにはいられなかったのだ。
彼女には猫がいるし、家族もいるかも知れない。
私には誰もいない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます