日記帖

飛ぶ鳥のように、渡る風のように、流れる水のように、野に咲く花のように、煌めく星のように。

~日本における 文鳥 白文鳥 の歴史 (まとめ)~

2023-05-25 18:31:07 | 小鳥

やなぎす様が、素晴らしくまとめておられますので
今後は、やなぎす様のノートを御覧ください
https://note.com/yanagis/n/n6c318a01e2ed

私の記事は削除します。


コメント (2)
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~白文鳥の歴史 続々編 最終決着?~

2023-05-13 09:45:45 | 小鳥

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000272341
・久永章武「ぶんてうの歴史」(『東京家禽雑誌』(40)p.7~, 1893(明治26)年) https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000210065-00
p.8に「天保年間名古屋にて東部に白毛を交ゆるもの産出し……漸々全体純白にも変する……同地方は好鳥家多き土地なれは此の変種を買ひ入れんとて熱望するもの一時に四方に起り……東都は申すに及はす京坂地方へも輸出し大に利潤を得たり是れ我邦白文鳥の始めなりと同地人の大原楽氏(文鳥蕃殖専門家)の談話を聞きしとあり亦東京にては弓削田氏も大に文鳥を愛養し白文鳥をも専ら蕃殖せしめしとは飼育商富五郎(小石川掃除町に住居)に親しく見且つ数十羽を買ひ受け諸所へ売り込みたりと語れり……」といった記述あり。
→江戸時代に白文鳥が産出され、明治26年の時点で売買されて飼われていたことがわかる

一部略されていたところを入れて書いておきます。
然るに天保年間(注:1831年1月23日 – 1845年1月9日)名古屋にて東部に白毛を交ゆるもの産出し換羽毎に背胸部にも白羽を生し漸々全体純白にも変する微證を顕す此に於いて同地方は好鳥家多き土地なれは此の変種を買ひ入れんとて熱望するもの一時に四方に起り甲は拾両または二拾両丙は三拾両と争いて譲受を求め終に五拾両の高価にて某氏買求め秘術を尽くし頻りに繁殖し東都は申すに及はす京坂地方へも輸出し大に利潤を得たり是れ我邦白文鳥の始めなりと同地人の大原楽氏(文鳥蕃殖専門家)の談話を聞きしとあり亦東京にては弓削田氏も大に文鳥を愛養し白文鳥をも専ら蕃殖せしめしとは飼育商富五郎(小石川掃除町に住居)に親しく見且つ数十羽を買ひ受け諸所へ売り込みたりと語れり……

上記レファレンス回答文のなかに
歴史民俗資料館では、
弥富文鳥の明治時代の資料については伝承や口伝のみとの記載がありました。

これで、最終決着と思われます。
読んでくださった方、文鳥ファンの方、鳥が好きな方、ありがとうございました。

香川県の通称:白文鳥村(産地)については、不明でした。

追記: 愛知県立佐屋高等学校 生物生産科アニマルコースさんの記事を読みました。
https://www.kyobun.co.jp/feature1/pf20221006_01/

本当に、素晴らしいです。頑張ってください。

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~白文鳥の歴史 続編~

2023-05-13 09:45:45 | 小鳥

洋鳥巣引の鍵 後編 大塚公道 著 蘆沢日新堂, 大正15 P40
この鳥の作出された所の某氏の談によれば、名古屋から少し田舎へ入った八新田という片田舎で出来たものであってその作出者は誰であるか一向記録にもなく伝説もないという事である。現在でも八新田というところは村の90%は白文鳥を飼養しており(以下略)

飼鳥之将来 山口天洋 著 天洋堂, 昭和2 P39
十姉妹に次いで我が国産の一たる白文鳥如きは、既に徳川時代より輸出され、特に北米及び南米に於いて珍重されて居るのであります。そして愛知県下及び香川県下の一村如きは、白文鳥村と称して宣伝され、全村民ほとんど副業としてこれを飼養し、引き続き輸出しているのであります。(以下略)

小鳥の飼ひ方叢書 第3編 文化生活研究会, 大正15(1926年) P16
然らば此の白文鳥は、どうして出来たかと申しますと、これは白変(Albinism)に依るものでありますが、全身一時に白化した所謂白子ではありません、人為淘汰の結果でありまして、体の一部に白い差毛のある鳥から種を引きまして、代を重ねてだんだんと、白色多い鳥を選抜して、遂に今日見る様な全身白色で覆われた白文鳥をこしらえ上げたということです。(注:現在は突然変異説が主流である)年代はよく分かりませんが、名古屋で出来たということで、その拵えた人というのは、名古屋の住人でありまして海阜某とかいう人だと、私幼少の頃から名古屋で大の仲良しだった鳥屋のお爺さんから聞きました。年代はいつの頃か知りませんし、このお爺さんのいうところもあっているかどうかも判断がつきません。しかし最近これも名古屋の人ですが、青木という古老から聞きましたところによりますと、80年前(注:1846年?)には既に白文鳥がいたということです。(以下略)

白文鳥には、日本のものと台湾のものがあり、遺伝子が異なることが知られています。
文鳥の羽色で学ぶゆる遺伝学 (6) http://kaede-t.com/2019/06/19/buncho-heredity6/
文鳥飼育の一例 http://rara-avis.sakura.ne.jp/
台湾産ブンチョウの羽色の表現型とその活用法 https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2030642109.pdf

さて、私個人の意見としてですが、
資料探しは、海外も含め行うべきです。
詳しくお話しできないのですが、ある事で調べまくっていたら、過去の考察、資料などに誤りを見つけて、一から資料探しを行ったことがありました。

大英博物館に1842年の白文鳥の日本の絵があるのでは、これはもう…。
やはり、江戸後期にはいたと考えるのが自然かと。

この根拠はどこなのか、いつからこういう話しが出てきたのか をハッキリしなければなりません。
>1865年(元治2)尾張藩の武家屋敷に働きに出ていた「八重女」という人が,弥富の又八地区の大島新四郎方に嫁入りしたとき,日ごろ世話をしていた桜文鳥を土産にもらって持参したのが,弥富で文鳥飼育を始めた由来

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