ブログの中で現実は、幻実と置き換えて書いているのですが、この見えている世界が幻と感じるようになったのには、2つの支点があります。
白山神社の紅梅
まず、前置きとしてこの見えている世界を否定したり見下したりしているわけではありません。
そうであるならば、自然や太陽に感謝などするはずもありませんからねえ〜
むしろ、この世界を自分なりに真面目に真剣に生きてきたからこその幻感なのです。
このような言い方をしますと世捨て人とか人生の負け組とか?って感じる人もいるかもしれません。
私の捉え方は、世捨て人や負け組とこの世界を見る人こそ、幻に気づいた人でありゴールに近い人かなと思うわけです。
私も世捨て人の一人のようにも感じます。
(ゴール近いかな?、、笑)
支点についてもどりますが
まず1つの支点について。
1·魂の存在である
肉体は、老化などで朽ちて脱ぎアチラに逝く時がくるように、肉体を利用してこの物質世界(三次元世界)を経験していると捉えるならば、この世界は、魂としての(意識としての)存在からみれば、一時的な幻世界の経験と学びをしていることになります。
魂としての存在は、完全ですから時間の区切りの中で自己が、経験したいと全てやり遂げることもできませんし、完全であるが故に、間違いなどが生じた場合は、訂正の必要が出てきます。
例えるなら、長寿を体験したいと決めて生まれて来たのに何かしらのアクシデントにより短命でアチラに帰ったとしたら、当然ながらやり直すために又、生まれくるはずですよね、、
そういう意味で、この世界は何度でもやり直せる幻の世界なのだと思います。
前世があるということは、そういう経験をするために何度も肉体をとりかえながら地球に生まれてきているわけです。
端的に表現すれば、魂からみれば、肉体は洋服のようなもので必要があれば着替えるということで、、その洋服を自分だと思う人は、いませんからね、、
白山神社の紅梅