皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

高森明勅氏の「皇室典範の改正を切望する」という記事について

2005-07-10 01:45:06 | 皇室の話
Voice平成17年8月号にて、高森明勅氏の「皇室典範の改正を切望する」とう記事が掲載されている。
男系男子論の問題点の指摘の箇所については、筆者の6月14日付け「男系男子への固執について考える。」と同様の記述も見られる。
今後、名指しされた男系男子論者からの反論があるとすれば、なかなか楽しみなことである。
ただ、この高森氏の論文にて、少々残念なのは、末尾に「伝統的観念に照らして、女系も皇統に含まれ得ることを、本稿では述べてきた」とあるのだが、肝心の「伝統的観念」の内容について、いまいち迫力に欠けるように思われることである。
高森氏のユニークな主張としては、「「養老令」の規定(「継嗣令」皇兄弟子条)」を根拠として双系主義であったというものがあるが、この規定については、現在問題になっているような、女性天皇が民間の男性との間でもうけられた子の皇位継承権についてまでカバーするものであったとは思われないし、そもそも、規定の置かれている箇所からしても、そのような重要なことを規定したものとは思われない。
結局のところ、「伝統的観念」については、皇室を支持してきた日本人の皇室観ということから論じる必要があるように思われるのだが、なにぶん形のないものであるだけに、学問的に論じようとする立場としては、触れることはできないものなのであろうか。
高森氏の双系主義という主張については、皇位継承を安定的にしたい、また、皇室というご存在の意義をY染色体といったものに矮小化させたくないという熱意から発せられたものと思われるが、筆者としては、そのような思いをストレートに示してもらう方が、ありがたいように感じられる。
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宮中祭祀と皇室問題

2005-07-10 00:39:08 | 皇室の話
Voice平成17年8月号にて、「「宮中祭祀」から見た皇室」という、対談形式の記事がある。論じているのは、原武史氏と福田和也氏だ。
この原氏について、いつも気になるのは、なぜ、そこまで宮中祭祀のことを問題にするのだろうということである。
確かに、宮中祭祀は、皇室にとって重要なものである。
しかし、外部に対して秘されている中で執り行われているものについては、それを論じようとするに当たり、土足で踏み込まないようにする配慮が必要なのではないか。
皇室というご存在を理解する上で、宮中祭祀を理解するということは、重要なことではあろう。また、皇室にかかる制度を論じる上で、宮中祭祀を行われるというご存在であることに、配慮するようにするということも、必要なことではあろう。
ただ、いずれの場合も重要となるのは、外から余計な口出しや分析をしないということではないだろうか。
これは、宮中祭祀を重要視しないということではない。むしろ、尊重である。
ところで、原氏の宮中祭祀に関する問題意識であるが、主要な関心は、皇室の方々の祭祀への取り組み状況を比較して、結局は、天皇皇后両陛下と皇太子同妃両殿下の世代間の違いのようなもの浮き彫りにしようということのようである。
宮中祭祀を対象としていることから、何だか高尚なことを論じているようではあるが、所詮は、週刊誌レベルの関心しか、抱いていないのではないかと思わせられる。
これは言い過ぎであろうか。
しかし、記事の初めの方にて、「天皇や皇室が発した表面的な言葉だけに注目する議論が大手を振っている。」という発言がある。
「表面的な言葉」とは、いったいどのお言葉のことであろうか。
お言葉については、お述べになられる儀式・行事の性格等により、皇室の方々の裁量の程度が変わりうるが、いずれにしても、皇室として、国民に対してお示しになるものであり、一つ一つ真剣勝負である。軽んずるべきではないであろう。
筆者としては、このような発言を行う者が、本当に真摯な態度にて、宮中祭祀を理解しようとしているようには思われない。
宮中祭祀を重要視することについては、一般論としては、結構なことであるが、問題となるのは、如何なる意図のもとで問題視するかということであろう。
この点、原氏の意図というのは、筆者には、あまり高級なものには思われないのである。
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第40回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式

2005-07-08 20:05:02 | 皇室の話
平成17年7月8日,第40回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式が行われたことが,報道されている。
このようなニュースについては,だいたい,関係者以外はあまり注目せずに聞き流してしまうかとも思われるが,受章者の方々の人生について,改めて着目してみると,実にすごいというか,胸を打たれるものがある。
受章者の方々の功績については,皇后陛下のお言葉においても紹介されているので,以下に,そのお言葉を掲げることにする。
------------------------------------------------------------
このたび,樋口康子さん,久松シソノさん,徳永瑞子さんの三名の方々が,赤十字国際委員会から,看護師として最高の栄誉であるフローレンス・ナイチンゲール記章を贈られました。お三方はそれぞれ看護教育や看護の実践,保健医療活動に尽くされ,また,多くの看護師や看護指導者を育成されました。樋口さんは,看護学をより高度な学問として位置付けるために,日本赤十字看護大学の設立に力を尽くされたほか,看護大学の設置基準や大学評価の審査の確立をはかり,また日本初の看護の学術団体である日本看護科学学会の設立に,中心的役割を果たす等,我が国の看護が学問として発展する上に,大きな貢献を果たされました。久松さんは,戦時,自身も被爆を経験される中で,長崎の原爆投下による被爆者の救援にあたられ,傷ついた多くの人々の苦痛を和らげ,生命を守られました。戦後は,長崎県内において先駆的な看護活動を行い,教育の体系化をはかり,看護学生のための臨床実習場を設ける等,学生の教育的環境の整備に尽くされました。高齢になられた今も,「国際ヒバクシャ医療センター」の名誉センター長を務め,次世代に平和の大切さを語り継ぐ活動を続けておられます。徳永さんは,早くより発展途上国での活動を希望され,語学と熱帯医学を修得し,助産師としてザイール共和国の医療過疎地で,母子保健指導及び栄養失調児のケアに心血を注がれました。また,ザイールで医療活動を共にした人々が,次々とエイズで倒れる中,エイズ患者支援のNGO組織を作り,医療支援・生活支援と共に人々の自立支援を行い,また,さまざまな教育活動により,エイズに関する啓発を行ってこられました。現在は,将来,国際保健分野及び発展途上国での活動を志す後進の育成に力を尽くしておられます。
 ここに,お三方の長年にわたる看護への献身とたゆみない努力に対し,深く敬意を表し,このたびの受章をお祝いいたします。
 受章者の皆様が,苦しむ人々の助けとなるべく,身につけてこられた知識と技術が,これからの日本の看護に受け継がれ,美しく生かされていくことを願い,また,皆様方のご健康とお幸せをお祈りし,お祝いの言葉といたします。  
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人間とは,これほど,偉大な存在になれるものなのか。
看護師という職業は,もともと地味にしてきつい重労働であるが,それにしても,畏れ入ってしまうというか,自然と頭のさがる思いである。
献身と熱意にみちた人生をおくられた方々なんだなと,筆者のような者が勝手に推測するのもどうかという問題はあるかもしれないが,それにしても,そのように思わずにいられない。
こういった方々の存在を知ってしまうと,自分自身,どれほどの価値ある生き方をしているのかと,反省せざるを得なくなる。
この国の将来について,悲観的なことを書いたりしたこともあるが,悲観する前にまず問題にするべきは,自分自身の行動ということだろうか。
ただ,このように考えてみたところで,急に何かをしようとしたところで空回りであるし,長続きするはずもなく,一つ一つ前進していくしかないのだろう。
ところで,テレビなどにては,勝ち組だとか,負け組だとか,セレブだとか,そういう言葉が氾濫している。人生というものを極めて表層的な物差しで,その価値を計り,区別するかのような風潮が見られる。これは実によくないことであり,また,そもそも間違いなのではないかと,今回改めて感じさせられた。
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鈴木邦男氏の「限度超す皇室への期待」という記事について

2005-07-04 23:11:33 | 皇室の話
平成17年6月30日付けの朝日新聞の夕刊に,鈴木邦男氏の「限度超す皇室への期待」と題する記事が掲載されている。
この記事には,筆者が最近強く感じている問題意識が,ずばりと指摘されている。
それは,皇位継承の在り方をめぐる議論において,特に一部保守派の男系男子維持を主張する議論において、どうしても感じざるを得ない違和感の問題である。
そのような議論においては,しばしば,「自分こそは,皇室というものを最もよく理解しているのだ」「自分の説こそが,絶対に正しいのだ」という傲りの臭いを強く感じるのである。
そのような傾向になってしまう原因としては,世間に於けるいわゆる女帝論というものにつき,きわめて浅はかで表層的な議論のように見えることによる,反発ということがあろう。
伝統的な価値というものを相対化させ,消滅させようとするような勢力も確かにあったであろうし,そのような勢力に対する憎悪というのも,分からないでもない。
また,筆者自身も,かつてそのような態度をとっていたことがあり,反省しなければならないところでもある。
ただ,改めて考えてみるに,そのような傾向のある主張というものは,反発や憎悪ということ以外に、果たして、皇室の方々のお立場や,皇室と国民との関係ということを,十分に突き詰めた上で発せられたものであろうかと,疑問に行うことがしばしばある。
なぜ,そのような疑問を感じるかと言えば,筆者としては,皇位継承の在り方を論ずる者は,ひたすらに謙虚であるべきだと思うからである。
皇位継承の在り方というものは,皇室の方々のご境遇に大きな影響を与えるものであるにもかかわらず,法律事項である故に皇室が関与できないが,これは何とも切ない話ではないか。
皇位継承の在り方についてどのような結論を出すにせよ,皇室というのは人権の制約されたお立場であり,そのようなお立場にある皇室が関与できないプロセスにおいて,皇室の方々の境遇に大きな影響を与えるようなことを考えようというのだから,これは,ただただ申し訳ない話ではないか。
そうなれば,当然,皇位継承の在り方を論じる際には,どこまでも謙虚でなければならないのではないだろうかと思うのである。
しかし,上記に述べたような,一部の男系男子論者については,そのような謙虚さが感じられないのである。
守るべきは制度であり,個々の皇室の方々ではないという考え方もあるのかもしれないが,皇室の制度については,生身の人間によって担われているものであり,その連続の上に成り立つものである。
個々の方々はどうでもいいとして,謙虚さを忘れて問題なしとする態度については,筆者としては理解できない。
幾つかの考え方があるとして,そのうちどの考え方が適切であるかについての論者ごとの判断というものは,当然あり得るところであろうが,ただ,それでも,皇室に対しては,やはり申し訳ないという気持ちを抱くべきではないかと思うのである。
このように思う筆者としては,強硬にして攻撃的な男系男子論者に対しては,その主張の内容の当否とは別なところで反感を抱かざるを得ないし,雑誌等でそのような者の論文を見るにつけ,何やら新たな皇室創設者たらんとする野望のようなものさえ,感じてしまうのである。
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有識者会議の「論点整理」に期待すること

2005-07-03 18:35:28 | 皇室の話
6月30日に第8回目の有識者会議が行われ、今月末には、論点整理が示されるという。
この会議の経過を見る限り、皇位継承の在り方を論じるに当たり重要となる事実については、これまでにかなり押さえられたようである。
ただ、筆者として気になるのは、事実を押さえた上で、今後、どのように議論が展開されていくかである。
この点で、非常に気になるのが、「論点整理」という言葉の響きである。
「論点整理」という場合、いかにも価値中立的な立場に立って、様々な問題点を客観的に整理するというニュアンスがないだろうか。
しかし、皇位継承の在り方というものは、数学の問題でも解くように価値中立的というわけにはいかないだろう。
むしろ、皇室継承の在り方について、パターンは限られているのだから、中心的な課題となるのは、結論を導き出すにあたり、どのような価値観に立つかということではないか。
ここで、価値観ということを述べたが、皇室に対する国民の価値観というものは、実に見えにくい。
明確な主張を行う者もいるが、それは少数派であり、大多数の者はどのように考えているのかよく分からない。もしかすると、何も考えていないのかもしれない。
ただ、それではこのような大多数の者については、どうせ何も考えていないのだから無視してよいかと言うと、そういう訳にもいかないのだろう。
というのも、どのような結果になっても受け入れるというような覚悟が、決して、このような者たちにあるわけではないからである。
むしろ、具体的な意見は表明しない一方で、違和感を感じるかどうかについては実に敏感であり、示された結果に対して違和感を感じれば、すぐに心が離れていってしまうというような、厄介きわまりない存在であるに違いないからである。
そこで、皇室制度を安定的なものとするためには、何も考えていないように見える大多数の者から見ても、心にしっくりと来るような答えを出さなければならないことになる。
ただ、これも、新聞の世論調査というものは、あまりあてにはならないだろう。
皇室に対する大多数の者の意識は、きわめて無自覚的であり、しばしば矛盾する要請を内包していると思われるからだ。
女性天皇についてどう思うかと聞かれれば、特に男子に限る必要性もないように思われるので賛成してしまうという人も多いかもしれない。これは、現代社会の変化ということが念頭にあるのだろうか。ただ、一方、皇室ブランドということがテレビなどにて紹介されることがあるが、そこに表れているのは、伝統、格式、確かさという価値である。そうすると、やはりそういった価値が皇室に期待されているのだと伺える。この期待というものは、男系男子ということに親和的であろう。
結局、できるだけ多くの人々の心にしっくりと来るような答えを導き出すためには、皇室に対する様々な価値観を分析し、変わるべきものと変えてはいけないものとを洗い出すしかあるまい。
この価値観の分析ということにおいては、「論点整理」も意味があろう。
そのような「論点整理」が示されるなら、それは専門家的な知識がない人にも参加できる議論となるので、真剣に考える人が増えるのではないかとも思う。
ただ、果たして、そのような「論点整理」になるだろうか。
現在、価値観というと、建前論というか、要するに単なるお題目になってしまうことがしばしばであり、本当に深い思想が述べられるということは、なくなってしまった。
殊に、公的な世界においては。
しかし、皇室の問題についてだけは、それでは通用しないはずである。
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両陛下、サイパン島への慰霊の旅

2005-06-27 21:52:06 | 皇室の話
天皇皇后両陛下のサイパン島への慰霊の旅については、すでに多く報じられている。
筆者として感慨深いのは、両陛下の訪問に当たっての、多くの人々の反響である。
実に、しみじみとした、深いものが感じられるのである。
それは、ひたすらに、平和と人々の幸福を祈られてきたご存在であるからこそなのであろう。
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男系男子を維持した場合の未来図

2005-06-21 00:46:18 | 皇室の話
前回、安易に女系容認に踏み切ってしまった場合の懸念を述べたが、今回は、男系男子を維持した場合の懸念について述べることにする。
筆者として、心配であるのは、男系男子論者が、皇室に対し、果たして温かい目を向けるかということである。
これは、前回述べた如く、「現在」の男系男子論というものが、伝統美に対する執着によるものであり、人間的な価値を志向していないということであるならば、あるいは必然とも言い得るが、思い起こすべきは、皇太子殿下のご発言をめぐっての物言いである。
現在の男系男子論者の殆どは、皇太子殿下、皇太子妃殿下に対して、実に同情心に欠ける冷たい批判を行っている。
諫言するのが臣下の務めであるというようなことを大義名分として振りかざす者もいるが、公の場にてこき下ろすようなことが、臣下としてのあるべき諫言だろうか。
あたかも自らが、皇室自身よりも、皇室伝統を弁えているかの如き不遜の態度であり、臣下としてふさわしい態度であるか、甚だ疑問である。
さて、このような男系男子論者の主張どおり、男系男子ということが維持されることとなり、旧宮家復活・養子が行われたとする。
そのとき、旧宮家の方々は、長く民間の立場におられたのであるから、皇室の伝統になじむために多くのご苦労をされることであろう。
また、昔と異なり、現在は商業主義に立つメディアというものが非常に大きな力を持っており、皇室に対する遠慮というものは限りなく薄れているのであるから、その餌食となってしまうのではないだろうか。誤報・憶測報道による攻撃にさらされる中で、難しい対応を迫られるだろう。
そういうとき、かつて男系男子論を主張した者たちは、皇室の擁護の側に立つであろうか。
さすがに、旧宮家から復帰した初代に対しては、義理立てする者もいるかもしれないが、筆者の推測するに、男系男子が維持されることとなったとたん、男系男子論者というのは、旧宮家出身の皇室に対する批判勢力に転ずるのではないかと危惧される。
何かと、伝統・しきたりを遵守しているかのチェックが行われるであろうし、いちいち細かいところで、情け容赦のない批判が行われるであろう。
また、男子出産のプレッシャーの問題であるが、かつて女系容認に踏み切るという選択肢を排除してしまっているのだから、今更女系に踏み切ることなどできようはずもなく、プレッシャーの大きさは、現在とは比較にならないのではないだろうか。そして、このプレッシャーを最も強く与えるのは、かつての男系男子論者たちであろう。
このような未来は、あまり想像したくはないが、現在の男系男子論者による、皇太子同妃両殿下に対する、あまりに無慈悲な批判を思い起こすとき、あながち悪夢とばかりも思えないのである。
そのような未来において、皇室を擁護するのは、意外とかつての女系容認者であるかもしれない。
これは、なかなか皮肉な話である。
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「現在」における男系男子論の本質

2005-06-19 23:49:38 | 皇室の話
皇位継承の在り方につき、筆者は、女系容認に傾きつつある。ただ、そのように自覚すればするで、男系男子についての未練のようなものを感じてしまう。
この未練とは、一体何なのであろうか。
そこで、今回は、男系男子論について、改めて考えてみることにした。
そもそも、男系男子ということに、どのような意味があるのだろうか。
この点については、既存の議論では十分に解明されていないようであり、推測するしかないのであるが、以下のように考えることができよう。
まず、世襲制というものが存在する社会においては、何故に世襲制が人々に支持されるのであろうか。
それは、君主たる者の特徴を、最も多く受け継いでいるのが、その子であるという考え方によるのであろう。太古において、人々に遺伝の知識は無かったにせよ、子が親に似るということは、ごく自然に認識されていたであろうし、また、遺伝ということのほか、親と子が共に暮らすことにより受け継がれる後天的な資質ということも重要であったろう。
そして、この世のあらゆるものが、世代から世代へと、親から子に受け継がれるものであろうという意識が強い社会においては、君主たる者の特徴を最も受け継いでいるはずの子にこそ、その資格の継承が認められることとなったであろう。
ここで、男系男子ということについては、先天的資質が男系によって多く受け継がれるという観念によるものであったかもしれない。
また、あるいは、後継者を多く確保するという必要性から、一夫多妻制が採用され、その結果、血の継承における女性の個性が希薄化したということもあったかもしれない。
以上については、今までに何度か述べてきたことである。
さらに、ほかの理由としては、政争を生き抜くためといった実際上の要請もあったであろう。
ただ、このように考えてみると、これら、男系男子でなければならないとする要因については、現在、かなり軽減されてきていると言えないだろうか。
まず、親から子への特徴の継承という点では、男系だけに限る必然性はあるまい。Y染色体に着目する議論もあるが、Y染色体自身の遺伝情報というものはかなり乏しいものであり、特徴の継承という点では意味はないものである。また、太古の人々にY染色体の知識があるはずはなく、太古より受け継がれてきた男系男子の意味の解明ということとは、無関係の議論であろう。
また、現在の皇室では、側室は認められなくなっており、このことは今後も維持されるであろうから、一夫多妻制における女性の没個性化という事情はなくなっている。
さらに、天皇の地位に関しては、象徴天皇制ということが確立しており、政争の渦中において対応をせまられるということも無くなったと言える。
このように考えてみると、男系男子でなければならないとする根拠は、かなり弱くなったと言えるのではないだろうか。
ただ、そうであるからといって、簡単に男系男子に意味がないと言えるかとなると、どうもそういうことにはならないようである。
冒頭に述べた筆者の未練ということも、ここに関係している。
改めて、「現在」の男系男子論を見てみると分かると思うのだが、そこには、男系男子ということがどのように始まったのか、男系男子にどのような意味があるのかということは論じられていない。論者の多くは、そういうことは問題にしていないようなのだ。論じられているのは、もっぱら、男系男子が125代続いてきたという歴史的な重みの強調である。
これは、一見、怠惰な研究姿勢の表れのように見えなくもないが、実は、ここにこそ、現在の男系男子論の本質が表れている。それは、すなわち、皇室というご存在の意義、皇室と日本人との関係ということとは、次元の異なる価値観に基づくものであるということである。
なぜならば、男系男子ということが125代続いてきたという歴史的な重みであるが、それは、後代において、歴史が積み重なったことによって生まれた価値だからであり、後代という視点に立った価値だからである。
この価値を何よりも重視するというのは、例えれば、美というものに対する一種の執着のようなものであろうか。
このように書くとあまり大したことのない話のようであるが、これは、なかなか手強く恐ろしいものであると思う。
功利主義的な観点、また人権思想から批判することは簡単である。ただ、それらによっていくら批判しても、ビクともしないのである。
もともと、美というものの価値、人がそれに惹かれるということに、理由はないからである。
それ故に、手強い。
また、その恐ろしさというのは、必ずしも人間的な価値を志向していないということである。むしろ、逆に、人間的な価値というものを自らに奉仕させることを求めるという特質があるようである。分かり易く言えば、それに払う人々の犠牲が多ければ多いほど、その価値が高まってしまうという特質があるということである。かつての女性天皇たちが如何に自らの人生を犠牲にして男系を守ってきたかということについて、男系男子論者により、美しい話として紹介されることがあるが、それはまさにこのことを裏付けていよう。
そして、恐ろしければ捨ててしまえばよいのであろうが、人間の宿命的な性質として、そのような美というものへの執着は捨てきることもできないのであろう。
これは、いい加減に扱えば、手痛いしっぺ返しを受けることになる。しっぺ返しで済めばいいが、致命的なダメージになる可能性もあり得る。例えば、日本という国の価値が損なわれてしまったという絶望感の蔓延ということである。国家の在り方について何も考えていないような者には、あまり影響はないかもしれないが、真剣に考える者において、国家の運営を担うような者の間において、そのような絶望感が広まるとすれば、深刻である。
このような、伝統の積み重なりの美しさに対する執着心の性質にかんがみて、国家の安定的な運営という観点から、男系男子を維持するべきという立論は、十分成り立つであろう。
男系男子論者といってもピンきりであるが、小堀桂一郎氏の論には、このことが自覚されているように感じられる。氏の主張する「道理」ということ、そして、「道理」の担い手は、皇室ではなくて、力ある賢明な臣下であるという認識、また、氏が、一般の国民ではなく政治家をその主張の相手先としている点など、まさにこのことの表れではないか。
したがって、女系容認に踏み切るのであれば、どうしても、それなりの覚悟が必要となるのである。まずは、男系男子で続いてきたことの伝統の重みを踏まえなければなるまい。そして、その伝統の重みに見合うだけの価値というものを見出し、それを踏まえる必要があるだろう。それは結局、皇室というご存在の意義、皇室と日本人との関係の本質を見極めるということにほかならないはずである。
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皇位継承問題につき,国民として必要なこと。

2005-06-16 22:41:51 | 皇室の話
皇位継承の在り方の問題というのは,実に難しい。
現行のままでは,皇室は消滅してしまう。だから,現状維持ということは,もうできなくなった。
ただ,そこで,女系容認に踏み込むにしても125代続いてきた男系男子の伝統の重みをどう考えるかという問題がある。
一方で,男系男子を維持するために約570年前に枝分かれした男系の血統に正統性の根拠を見出して,旧宮家復活・養子を行うということも,やはり,一大決心であるには違いない。
どちらを選択するにしても,非常に大きな決断である。
そして,そのような決断を迫られつつも,筆者も含めた国民の側として,果たして十分な判断能力があるだろうか,覚悟があるだろうかと問われると,これはかなり怪しいものと言わざるを得ないのではないだろうか。
このままでは,どちらを選択するにしても,「これで本当によかったのだろうか」という気持ちが,後々国民の側に生じてしまうように思われる。
これは,皇室に対しても,大変申し訳ない話だ。
皇位継承の在り方については,当事者である皇室の意向をくみ取ることが必要であるという主張もある。
この主張については,必ずしも,フェアかアンフェアかという観点だけでなく,難しい選択を迫られた状態から逃れたいという切実な気持ちが込められているのかもしれない。
しかし,仮に,皇室のご意向を伺ってしまった場合には,そのご意向に対して,賛成をしたりあるいは反対をしたりといった,同じ土俵で調整を行うということはできないであろう。
それは,法律制定という国政への関与という問題だけでなく,皇室の聖性を侵すことのように思われるのだ。
筆者自身も,かつて,皇室のご意向にゆだねるべきということを書いたことがあるが,その趣旨について補足すると,皇室について国政に関与することができないという原則を確保するのであるならば,どなたを皇位継承者にするかについては皇室内部の問題として,皇室の家内法に委ねるべきという話である。
これは,旧憲法時代の宮中府中の別ということと同じ発想で,合理性はあると思うのだが,もちろん,現実的ではないだろう。
現実問題として,法律としての皇室典範改正ということで考えるならば,それは国民の責任で考えなければならないということであり,皇室の意向をくみ取るということは,できないことなのであろう。
そして,皇室の側としては,記者会見にて度々質問をされても,皇位継承の在り方に関する自らの考えについては,沈黙を守られている。無私なる境地に徹底されておられる。
これは,実に切ない話だ。
そのような皇室に対する,せめてもの誠意としては,国民として,十分な覚悟と決意をもって判断するということしかないのであろう。
そして,そのためには,女系容認にしても,男系男子維持にしても,国民一人一人が十分に考えて,あらゆる論点を出し尽くすことが,重要であろう。
しかし,世の中の議論の状況をみるに,なかなか寂しい状態にあると言わざるを得ない。
他人事のような議論では無意味であるし、熱のこもった議論でも、論者間の非難攻撃にばかり重点が置かれるとすれば、国民全体が納得のできる結論には、とうてい到達できないであろう。
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男系男子への固執について考える。

2005-06-14 21:14:02 | 皇室の話
皇位継承の在り方について,最近の筆者は,女系容認に傾いている。
ただ,当初は,男系男子を維持するべきとの考えであった。
この移り変わりについては,今まで掲載した記事に表れているところであるが,今回,改めて,振り返ってみることにしたい。
まず,筆者としては,皇室というご存在の意義を,深く考えたいという立場だ。これは昔も今も変わっていない。自分自身,深く考えたいというだけでなく,皇室の地位が,日本国及び日本国民統合の象徴であることにかんがみれば,日本人全体が,深く考えるべきだとも思っている。
皇室の方々の苦境というのも,皇室というご存在の意義が,忘れられていることによるのではないかと,筆者は考えている。
忘れられているが故に,ワイドショーに代表される低俗な興味の対象ともなり,また,皇室というお立場に対する共感があればおよそ考えられないような,思いやりのない嫁いびり的な批判も,ときに見られると思うのだ。
このような立場の筆者としては,当初,女帝論についても,同じく,皇室というご存在の意義を深く考えない立場からの主張として,これは許せないと感じたのだ。
すなわち,男でも女でもどちらでもいいという発想のように思われたのである。
「思われた」と述べたが,現在でも,そのような発想の者は多いかもしれない。
そして,この発想の浅はかであることについては,男系男子に固執する立場の方が多く述べておられるところであり,筆者も同感である。それは今でも変わらない。
ただ,男でも女でもどちらでもいいという発想を排除し,改めて真剣に,皇位継承のあり方を考えようという場合,これはなかなか難しい。
女系容認は,今まで125代男系男子で続いてきた皇位継承の在り方を,根本的に変えるものであると言われる。
そうすると,女系容認だけが,大変革のようであるが,男系男子維持のための旧宮家復活・養子案にしたって,大変革である。なぜなら,それは,平成,昭和,大正,明治,江戸・・・と今まで続いてきた皇室のご血統よりも,570年前に枝分かれしたご血統を選ぶということだからだ。
よく安易な女系容認論ということが言われることがある。
確かに,男でも女でもどちらでもいいという発想であれば,安易な論であるが,今まで男系男子だったのでやはり男系男子を維持すべきというのも,現在の皇位継承の危機的状況に照らしてみれば,やはり安易な論であると言うべきではないだろうか。
日本人にとっての皇室というご存在の意味は何か,皇室を大事と思う心の中に,男系という要素はどれほどの重きをなしているかを改めて考えてみなければなるまい。
筆者としては,そのように考えてみた場合,現在の皇室のご血統との絆が,やはり重いものと思われ,女系容認もやむなしと思うに至ったのだ。
もちろん,そのように考えて,なお,男系男子を維持するべきという立場もあるかもしれない。そして,そうであるあらば,筆者としては,そのような深い男系男子論というものを,是非とも拝聴したいものである。
ただ,残念ながら,現時点では,そのような深い男系男子論というものは見当たらない。
ここで,深い男系男子論ということを述べたが,既存の男系男子論につき,何が足りないのかについて,いくつか述べることとする。
まず,男系男子論を主張する際には,女系では皇統の正統な継承者になり得ずそれ故に男系男子を維持するべきと主張するのか,それとも,女系も皇統の正統な継承者ではあり得るが過去の実例を重くみて男系男子を維持するべきと主張するのか,どちらの立場であるのかを明確化する必要があろう。
しかし,実際には,しばしば混同されている実態がある。
前者の立場に立てば,女系天皇というのは原理的に認められないことになるはずで,男系が維持できなければ天皇制は消滅するしかないということになるはずである。
ところが,Y染色体の議論を持ち出す八木秀次などもこの立場に立つと思われるが,一方で,男系維持が不可能となった場合に女系容認の可能性について言及したりしている。
これは,思想的に,いい加減にして,おかしな話である。その場合の女系天皇というのは,どのような存在なのであろうか。正統性に疑いのある天皇ということになってしはしまいかと思われるが,それは皇室にとっても日本にとっても不幸な状態である。
後者の立場に立ち,取りあえず女系天皇にも正統性があることを認めるというのであれば,思想的な矛盾というものはないであろう。
ただ,この場合でも,実際の運用において,きわめてリスクの高いものと言わざるを得ない。男系男子を維持することとして,現在の皇室のご血統を皇位継承から除き,旧宮家復活・養子を行ったとする。しかし,庶系の認められない男系男子というものは,所詮無理のあるものであり,よほど宮家の数を増やさない限りは,早晩再び皇位継承の危機が訪れることが予想される。さて,その段階になって,今さら女系容認に踏みきろうとしても,それは無理であろう。そのようなことをすれば,なぜあの時女系を認めなかったのかという議論になるであろうし,それこそ皇位の正統性をめぐって大混乱が生じるであろう。
旧宮家復活・養子による男系男子の維持が,どれくらいの期間継続できるかという問題があり,現在の皇室のご血統に連なる方々が人々の記憶から消えてしまう程に長く維持できるのであれば,あるいはそれほど大きな問題にはならないかもしれないが,そのような見通しがあるのであろうか。
そのような見通しなくして,男系男子を維持することとし,その半面,現在の皇室のご血統を皇位継承から排除するというのであるならば,それこそ軽はずみと言わなければなるまい。
また,男系男子を維持するための旧宮家復活・養子というが,その候補者が,実際にどれくらいおられるのであろうか。また,資質ということについては,どうなのであろうか。
あまり資質といった議論はしたくはないが,皇室というお立場は一般の国民とは異なるはずで,特別な資質が求められるであろう。それは端的に言えば,自らの立場というものに対する深い自覚ということではないだろうか。
皇室には皇室というお立場があり,国民には国民の立場がある。
ここで,旧宮家については,なかなか難しいところがある。その皇籍離脱については,事実上,GHQの圧力ということもあったであろう。
ただ,いかなる理由があるにせよ,一定の手続,すなわち皇室会議の議と一時金の支給を受けて国民となったからには,もはや一国民というべきであろう。
おそらく,旧宮家の方々というのは,胸の奥に,元皇族としての誇りを抱きつつ,そして,そうであればこそ,現在の国民としての立場を全うされておられるのではないか。
それは,もしかすると,皇室という立場に居続けるよりも厳しい道であるかもしれず,そのようなお方であれば,資質ありと言えるかもしれない。
しかし,皮肉なことに,そのような自覚がおありであればあるほど,皇籍への復帰を辞退されることになるのではないか。
皇室という立場と国民という立場というものは,簡単に行ったり来たりできるような,半端なものではないはずだからである。
また,女系が容認されれば,皇位の正統性につき,反皇室の立場からの攻撃が始まるという懸念が述べられる場合がある。
ただ,改めて考えてみるに,もともと女系に正統性を認めない男系男子論の立場であれば,そのような心配をする必要はないはずであるし,女系にも正統性を認めるのであれば,そのように主張すればよいだけの話ではないだろうか。
どうも,この反皇室の立場からの攻撃の懸念というのは,よく分からない話である。反皇室の立場の者がそのようなことを仄めかしたことがあったとしても,それはむしろ,挑発ではなかったか。カーッとさせられて不利な状況に追い込まれているだけなのではないか。
そのような気がしてならない。
以上,男系男子論の問題点を述べてきたが,最後に,皇位継承の問題の捉え方につき,男系と女系との問題として捉えるのも,実は不十分であると思う。男系か女系かと問われれば,いかにも男女平等の問題のようであるし,抽象的にそのように問われれば,筆者にしても,女系には反対である。
しかし,問題の本質は,男系か女系かということではないのではないだろうか。それは,皇位継承の在り方としての,いくつかのパターンを分ける争点ではあるにしても,日本人として問われているのは,そういう問題ではないのではないだろうか。
日本人として,今,問われているのは,現在の皇位継承の危機的状況を乗り越えるために,現在の皇室のご血統との絆と,男系男子という継承原理との両者について,どちらを重く見るかということなのではないか。皇室というご存在の意義,皇室と日本人との関係において,どちらがより本質的なものであるか,という判断なのではないだろうか。
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