皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

皇位継承問題について、皇室と日本人との絆という視点から

2005-06-11 01:05:12 | 皇室の話
平成17年6月8日おいて、皇室典範に関する有識者会議における識者ヒアリングの2回目が行われた。
ヒアリングにおいては、専門家による様々な意見が述べられたが、この際、筆者なりの一つの視点を示すことといたしたい。
それは、皇室というご存在の意義ということから、遡って考えるということである。
皇位継承の在り方自体については、パターンは限られてくる。
すると、問題となるのは、いずれのパターンを選ぶかにつき、どれだけ納得できるか、覚悟できるかということであろう。
そのためには、システム論的な合理性だけでは不十分であり、皇室というご存在の意義ということから、どうしても、遡って考えることが必要だと思うのだ。
この皇室というご存在の意義ということについては、今まで何度も述べてきたところであるが、筆者としては、皇室と日本人との歴史的な絆であると考える。
皇室は、日本人及び日本の始まりとともにあり、今に至るまで、長く苦楽を共にして歩んできた。そして長く共に歩んできたことによる絆があるのであって、その存在意義は、功利主義では計れないものである。
例えるなら、親と子の関係に似ていよう。
子が幼いころは、子にとって親の存在はとても重要である。では、子が成長し、親が年老いたとき、親は不要にして邪魔な存在となってしまうだろうか。
そんなことにはならないはずである。
親にとっては、年老いても、子は子であり、慈しみの対象であり、子は親を慕うのではないだろうか。
お互いが共にあることにより、幸せを感じることができるはずである。
それは、両者の間に、長く共にあったことによる絆があるからであろう。
さて、皇室というご存在の意義について、そのような絆と捉えた場合、皇位継承の在り方の問題については、どのような帰結が得られるであろうか。
ここで、皇位継承の最低限の核となるルールを血統とするのであれば、現在の皇室に連なる血統との絆を重視するということになるであろう。
現在の皇室に連なる血統との絆ということについて、改めて思い起こしてみるといい。
平成の世の前には、昭和、大正、明治、江戸・・・と実に長い歴史である。
そして、これらの時代は、単に長いというだけでなく、日本という国にとって、まさに激動の時代ではなかったか。
昭和においては、世界大戦における敗北も経験し、日本始まって以来の危機も経験したではないか。
そして、そのような時代において、日本人は、皇室と共に乗り越えて来たのではないか。その絆は、筆者にはとても重いと思われるのだ。
一方、男系男子を維持するための、旧宮家の復活・養子案もあるが、血統としては、約570年も前に遡って枝分かれした存在である。
そのような血統の方を選ぶということは、570年前に立ち返るということであり、それ以後現在に至るまで築かれてきた、皇室と日本人との絆をリセットするということにならないだろうか。
それも、皇室の方々が、御簾の向こうの存在で、日本人の一人一人の実感として、没個性的であるような場合であれば、あるいは良いのかもしれない。
しかし、とりわけ、昭和、大正、明治の時代というものは、皇室の方々が表に現れ、まさに国民と共に歩んできた時代ではなかったか。
その絆については、決して捨て去ることのできるものではあるまい。
このように考えれば、皇位継承の在り方の選択肢としては、女系容認もやむを得ないと、思うのである。
男系男子にこだわりたいという気持ちも分からないではない。
皇室制度については、従来より、伝統的なものを破壊しようとする勢力の攻撃にさらされてきたし、また、軽薄な興味の対象としようという勢力によって消耗させられてきた。
そして、女性(女系)天皇容認論につき、しばしば、そのような勢力の立場から論じられることもあるのだろう。
そして、それ故の反発から、男系男子をことさらに維持したいという気持ちが生じるのも、分からないではない。
ただ、そのような反発故の主張では、多くの人々を納得させるだけの真実には、到達できないのではないだろうか。反発の熱が冷めた場合のことを考えてみるといい。
いや、そのような反発ではなくして、やはり、連綿と続いてきたこと自体に価値があるのだとする立場もあろう。
ただ、それは、日本という国を万邦無比なものと見なしたいという気持ちと通ずるものではないだろうか。
それは、自らのエゴを国の有り様に投射したもので、皇室というご存在自体に着目し、深く見つめるということとは、異なるもののように感じられるのである。
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橋爪大三郎氏の「血統より存続願う伝統」という記事について

2005-06-08 21:47:48 | 皇室の話
平成17年5月30日付けの朝日新聞の夕刊に,橋爪大三郎氏の「血統より存続願う伝統」と題する記事が掲載されている。
この記事には,幾つかの重要なテーマが織り込まれているが,筆者には,それらのテーマが消化不良のまま列挙されているように感じられた。
善意に解すれば,限られた文字数に凝縮した故であろうか。
橋爪氏は,「わが国の天皇システム」を,王権の一種であるとした上で,王権は血統によって地位が継承されるものであること,王の血統を尊いものであると考えるからこそ,しばしば王朝の断絶が起こり得ることを述べている。
この辺りは,なるほどなと思う。
ただ,次に,「天皇システム」についての言及となり,「王朝が断絶しないのは,誰が天皇となるべきかについて,厳格な原則がないこと,つまり,誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきたことを意味する。裏を返せば,天皇の血統そのものを尊いと考えているわけではないのである」と述べている。
この箇所は,いかがなものであろうか。
「厳格な原則がない」ということについては,おそらくヨーロッパの王位継承との比較として述べているようであるが,例えば,イギリスについては,1701年王位継承法ができた後は多少変わってきたが,それ以前の系図を見てみると,まことに節操のないものというべきであり,皇位継承について特に厳格な原則がないと断じるのは,どうかと思う。
また,確かに,カトリックとプロテスタントの対立といった事情がなかったわが国においては,宗教上の条件というものは表面化しなかったと思われるが,その分だけ,皇位継承における血統の意味合いが重くなったと考えるのが自然であり,何故に「裏を返せば,天皇の血統そのものを尊いと考えているわけではない」ということに繋がるのかが,不可解である。
ただ,「誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきた」ということについては,多くの素朴な日本人の感情として,そのようであったのかなとも思う。「誰であれ」という点については,そこまで言えるかどうか,怪しいと思うのだが,多くの人々に天皇が続いて欲しいという気持ちがあればこそ,今まで続いてきたということは,確かにそのとおりであろう。
しかし,橋爪氏の記事においては,また,不可解な箇所が登場する。
「継承のルールがあいまいでだらだら続いてきただけのものを,あたかも西欧の王家のような男系の血統が伝わってきたと見せかけるトリックである」という記述である。
「だらだら続いてきただけのもの」というのは,いったい,どういうことなのであろうか。
「だらだら」という表現には,存続させる価値のないものが続いてきてしまったというニュアンスがないだろうか。
存続させる価値があるかどうかについては,論者の主観によるのかもしれないが,橋爪氏の場合,直前の箇所にて,「誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきた」ということを述べている。多くの人々の続いてほしいという願いに応じて存続してきたということは,「だらだら」という表現とは,およそかけ離れたものではないだろうか。
また,「天皇システムと,民主主義・人権思想とが,矛盾していることをまずみつめるべきだ」という箇所がある。人権思想はともかくとして,民主主義との矛盾ということについては,今までの文脈からは,分かりにくい。
というのも,多くの人々の続いてほしいという願いに応じたものであるならば,十分民主主義的ではないかと思われるからだ。もっとも,後に,「こうした地位に生身の人間を縛りつけるのが戦後民主主義なら,それは本物の民主主義だろうか」とあるので,橋爪氏の場合,「民主主義」という言葉に何らかの意味を込めているのかもしれない。筆者の推測するところでは,おそらく個人の尊厳であるとか,個人主義ということではないかと思われる。大学の憲法学のような話になってしまうが,民主主義というのは,個人主義的な自己決定権,治者と被治者の同一性という概念を根拠にしているとのことであり,ここでいう「民主主義」という言葉を「個人主義」に置き換えると,意味が通じるようにも思われるのだ。ただ,民主主義の実際の運用においては,多数決原理は不可避であり,100%の個人主義というのは不可能であるはずなので,橋爪氏のいう「本物の民主主義」とはどのようなものであるのかが,いまいち分かりそうでよく分からない。
また,「共和制に移行した日本国には天皇の代わりに大統領をおく。この大統領は,政治にかかわらない元首だから,選挙で選んではいけない。任期を定め,有識者の選考会議で選出して,国会が承認」とある。
これは,何とも奇妙な主張である。この場合の大統領の民主主義的な基盤はどこにあるのだろうか。一応,国会の承認を経ることにはなるが,選考会議を行う有識者は,どのように選ばれるのであろうか。「本物の民主主義」との関係はどうなったのか,何とも不可解である。
また,末尾に「皇室は,無形文化財の継承者として存続,国民の募金で財団を設立して,手厚くサポートすることを提案したい」とある。「手厚くサポート」というのは結構なことのようであるが,生身の方を「無形文化財」にするというのは,どういうことなのであろうか。伝統芸能などで「無形文化財」というのは分かる。ただ,この場合の「無形文化財」というのは,皇室としての生き方そのものを「無形文化財」とするという発想であろう。それはそれで人権侵害ということにならないか。
どうも,末尾の箇所については,皇室という御存在の尊厳性を奪い,みすぼらしい状態に縛り付けようとする意図を感じてしまうのは,偏見であろうか。
以上については,何だか揚げ足取りのような話になってしまった。
筆者としても文章のつながりが良くないということはしばしばあり,また,揚げ足取りをする趣味はないのであるが,ただ,重要な箇所にて,あまりに唐突に違和感を感じさせる記述が登場するので,述べておいたのである。
このような話ばかりでは,読者にとってもつまらないであろうし,筆者としても寂しいので,以下の項目ごとに,もう少し中身のある話を述べることとする。

○「万世一系」のトリック
「万世一系」という言葉については,分かるようでよく分からない言葉であり,論者によって,意味内容に幅があるようである。
仮に,皇位継承について,本来,「天皇が続いてほしい」という人々の素朴な願いが根本にあったはずなのに,継承が積み重なる上で何かルールのようなものが形成され,いつの間にか,そのようなルール自体の価値の方を重くみる思想が生まれることがあるとし,そのような状態を「万世一系」のトリックと呼ぶのだとすれば,確かにそういう見方もあろうかと思う。
現在の皇位継承の在り方の問題につき,保守派による頑ななまでの男系男子の主張というのは,これに当てはまるかもしれない。
トリックに気づくことができない故に,皇位継承の危機が増大することがあるとすれば,悲劇であろう。

○ 皇室を敬い人権を尊重するから,天皇システムに幕を下ろすという選択
確かに,皇室には,一般の国民が享受している人権の多くが制約されている。そして,そのことから,皇室制度というものは終了させるべきだという考えも,一つの考え方としてはあるのかもしれない。
あながち,皇室制度廃絶のために人権を標榜する者だけでなく,純粋な同情からそのように考える人も,いるのかもしれない。
ただ,それは,筆者には,浅はかな感傷のように思われるのである。
この同情というものは,皇室の方々に対して不幸な状態にあるとみなすことを前提にするものと思われるが,それは正しいことだろうか。核心からずれてはいないだろうか。
天皇皇后両陛下のお姿をご覧になってみるといい。両陛下ほどお幸せそうなご夫婦は,そうそう見かけるものではない。
もちろん,一般の国民とは異なるご苦労がおありのはずである。ただ,そのようなご苦労に向き合い,乗り越えることによってこそ,達せられるご境地というものも,あるのではないか。そして,皇室の方々は,まさにご苦労に向き合われ,日々努力されておられるのではないだろうか。
それは,不幸な状態とは,違うはずである。惨めにして他者による救済が必要な状態とは異なるはずである。
昨年の皇太子殿下のご発言をめぐっては,大きな議論が巻き起こったが,殿下におかれても,新しいご公務ということを強調されておられたのであり,自らのお立場に向き合いたいという熱意が示されていたことを見落としてはならない。
このような皇室の方々に対し,不幸な状態であるとみなして救済しなければならないとすることは,見当違いな同情であり,真摯に努力されておられる皇室におかれても,不本意なことではないだろうか。
もちろん,皇室の方々のご境遇について無自覚であることは問題であるが,本当に必要なことは,皇室の方々のご苦労がそもそも何のためのものであるかということ,すなわち,日本の平安と国民の幸せのためのものであるということを理解することではないか。
そのような理解があれば,自然と感謝の気持ちも生じるであろうし,皇室を見守る国民の意識が変われば,皇室の方々の不条理な苦境というものは,かなり軽減されるに違いない。
なお,このような心情論でなくして,そもそも個人主義という観点から,「天皇システム」に幕を下ろすべきだという考え方もあろう。それはそれで一つの考え方である。
ただ,共同体を維持する上で,完全に個人主義を貫徹することは可能なのであろうか。共同体の中では様々な立場があるはずであり,損な役割というのも必要であろう。ただ,損な役割については,それに見合うだけの幸せがあるはずであるし,そして,様々な立場というものがあるからこそ,社会全体が豊かになるのではないだろうか。
家庭の中でも,親と子,夫と妻という立場があり,会社では,上司と部下という立場があろう。そのような様々な立場があるということについて,個人主義という観点から何とかしようとしても,それはどうにもならない話というべきではないか。
それよりも,むしろ,お互いの立場について理解し,尊重し,また自らの立場を全うするということの方が,筆者には大事なことのように思われるのである。
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皇位継承問題についてのその後の検討(補足)

2005-05-15 01:09:30 | 皇室の話
今回は、5月1日に書いた「皇位継承問題についてのその後の検討」について、その補足を述べておくことにしたい。
この記事において、「筆者としては、やはり、「男系」は、絶対的な要件ではないにしても、維持されるべきではないかと考える。」と述べたのだが、そのことについて、もう少し詳しく述べたいと思うのだ。
筆者としては、皇室とは、何時の時点かも分からない遠い昔より、日本人、日本国と共にあり、皇室の制度とは、日本人との歴史的な絆を築いていく中で、多分に自然発生的に作られてきたものであると考える。
自然発生的と言っても、もちろん、制度である以上、人の手によるものではあるのだが、人為的な臭いを感じさせないものである。
何が言いたいのかというと、それは、人工的な制度とは、何か違うものではないだろうか、ということである。
それは、結局、多くの日本人の、奥深い意識、共通の無意識のようなものを反映したものであり、そうであるが故に、これほど長く続いてきたのではないか、そのように思われる。
皇位継承の在り方についても同様で、男と女の役割分担というものに対する、多くの日本人の本音とも言うべき意識を反映し、そうであるが故に、男系男子ということが続いてきたのではないか。
であるから、日本人の意識とは別な次元において男系男子でなければならないという原理が存在し、まずその原理ありきで、その原理の上に、皇室の歴史が築かれてきたものとは考えない。そこが、一部の保守論者との違いである。
そこで、改めて、現在における男女の役割分担の意識であるが、男と女と同じに扱うべきという議論が建て前としては通用するものであるとしても、多くの人の本音の部分では、男と女の違いの意識というものは、やはり厳然として存在しているのではないか。
男尊女卑ということとは別に、男らしさ、女らしさという概念は、根強く存在しており、何だかんだ言っても、結局、大きく変わることはないのだろう。
だから、仮に、現在、皇室に男の子がたくさんおられ、皇位継承につき危機的状況になければ、ごく当然に男系男子ということが維持され、皇位継承の在り方を議論するという状況は、生じなかったであろう。
日本人の意識の変化という観点から、積極的に、皇位継承の在り方を改めるべきということには、ならなかったであろう。
そのように考える。
ただ、問題は、現在、皇位継承につき危機的状況にあることであって、男系男子ということが難しくなってきたという現実である。
そこで、日本人の意識ということに立ち返れば、積極的に、男系男子という従来の在り方を変えようというような意識ではないにしても、女系を拒絶するような意識であるかどうかについては、少々微妙である。
筆者には、日本人全体の共通無意識のようなものを把握する力はないが、男系男子という原理ありきの考え方をひとまず置いた場合、自分自身、受け容れが不可能であるかと言われれば、そのようには思わない。
男の皇子と女の皇子とがおられる場合には、男の皇子が継承することが自然であるとは思うのだが、女の皇子しかいない場合において、そのような危機的な状況において、なお、女の皇子に継承することが許されないとは、思えないのだ。
もちろん、女性天皇については、皇婿の問題があり、また、ひとたび「女系」を認めれば、それで「男系」が絶えてしまうという問題もある。
しかし、男系男子を維持するとなれば、旧宮家の復活・養子案しかなく、旧宮家というのも、血統的には、現在の皇室とは、何百年も昔に枝分かれしてしまっているという問題がある。
男系男子を維持するために、旧宮家の復活・養子を行うというのは、あまりに、人工的な制度改正ではないだろうか。
また、庶系を認めない中での男系男子というのは、きわめて無理のある話である。
男系男子を安定的に確保するためには、宮家の数を増やす必要があるが、最低限、側室の数に相当するだけの宮家が必要となるし、かなり規模の大きなものとなるのではないか。
これは財政だけの問題ではなく、国民に対する皇室の存在感という点からも、大きな変化を及ぼすことになるであろう。
さらに、現在の国民にとっては、皇室とは、今上陛下、昭和天皇、大正天皇、明治天皇といった方々のイメージが強いと思われるのだが、旧宮家の復活・養子ということについては、それこそ、王朝交代のように受け取られないだろうか、という気がする。
その際に、男系男子という原理から、理屈としては正統性を説明することが可能であるかもしれないが、日本人と共に歩んできた歴史的な絆があるかどうか、そのような絆を受け継ぐことができる存在として認められるかどうか、ということについては、かなり疑問である。
思想としては、そのような絆よりも、やはり男系男子という原理の方が重要なのだという立場もあるだろう。
ただ、そのような立場に立たれるのであれば、男系男子でない皇室は存在意義がないとハッキリ言うべきであると思うのだが、しばしば、男系絶対に女系を認めないわけではないということが言われたりする。これは、何ともだらしのない話である。
また、男系男子という原理を非常に強く述べられる方にとって、皇室とは、一体、どのような存在であるのだろうか。
制度という観点と個人という観点とを分け、個人より制度が大事なのだという主張もある。
筆者としては、どうしても、個人という方に、心が傾いてしまう。
もともと、皇室というご存在については、制度という観点と個人という観点とを分離することができないものではあろうが、敢えて分けて考えてみた場合に、やはり、生きている「人」が象徴となっているということは、最後には、個人を選ぶことが自然なのではないか、筆者としては、そのように思う。
もちろん、皇室の側にて、制度の方が大事であるというお気持ちもあるかもしれないが、筆者としては、日本人の一人として、そのような目で皇室を見つめたいと思うのだ。
筆者としても、当初は、男系男子という考えが強かった。
ただ、その考えというものにつき、改めて分析してみると、今時の男女平等論、日本の民主主義の実態というものに対する不信感やうんざり感というものがかなりあって、そのようなものによって、皇室の伝統が変えられてたまるかという意識があった。
女性週刊誌などが、「愛子天皇」と書き立てれば、ふざけるなと言いたくなる意識があったのである。
そして、そのような意識の裏返しとしての、男系男子論という側面が、実はかなり強かったように思う。
世間にも、同じような状況の人は、結構おられるのではないか。
それがおそらく、男系男子論者の多くが、女系容認論を攻撃するのには雄弁である一方、男系男子につき、一体どのような意味があるのかを、今ひとつ十分に語ることができないでいる原因であるかもしれない。
なお、最近気になってきたのだが、女系が容認されれば、左派により、万世一系の皇統とは言えない偽物だとして、天皇制度への攻撃が始まるということを危惧する見方がある。
そして、その根拠としては、例えば、憲法学者の奥平康弘の発言が持ち出されたりすることがある。
ただ、これはどうなのだろうか。
どちらかというと、むしろ、挑発ではなかったか。
女系が容認されれば万世一系の皇統ではなくなると敢えて指摘することにより、保守派に対して、男系男子の強力な主張をなさしめ、男系男子でなければ本来の皇室ではないというような主張をなさしめて、自分で自分の首をしめるということにさせたかったのではないだろうか。
もちろん、女系が容認されれば、それはそれで攻撃されるだろう。
ただ、左翼の側が、何であんなことをわざわざ言ったのかを考えると、前者の意図も十分あったのではないかと思うのだ。
皇室を守る立場としては、皇室という御存在を、男系男子の問題に矮小化させるべきではないと思うのだが、最近の保守派による男系男子論は、これに該当するものではないだろうか。
本当にするべきであったのは、男系男子でなくても、日本人にとって、皇室とはやはり尊い存在であるということを、主張し、皇室が将来にわたって、消滅するということのないようにするということでは、なかったか。
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皇位継承問題についてのその後の検討

2005-05-01 18:43:04 | 皇室の話
随分とブランクがあいてしまった。
皇位継承の問題については、有識者会議においても、理解が深まりつつあるようである。
ただ、理解が深まれば深まるほど、どうしてよいか分からなくなる、今は、そういう状況にあるのではないだろうか。
メディアにおける議論の状況としては、伝統的な価値を否定したいという勢力と、それはけしからん事であるとしてそのような勢力と戦おうとする勢力との対立という構図が見えなくもない。
そして、そういう対立の構図に身を置いている方々にとっては、主張すべき方向性というものは、明確なのであろう。
しかし、そのような対立の構図から離れて、日本と日本人と、そして皇室の未来のために、どのような在り方がよいのだろうかと考えると、なかなか答えがでないところだ。
この行き止まりの状態については、3月10日の「女性天皇の議論について,筆者の悩み」でも、また、3月13日の「女性天皇の議論について、一つの視点」でも、すでに述べたところであるが、さて、そのような状況から、一歩を踏み出すにはどうすればよいのだろか。
結局、筆者としては、自分自身の皇室に対する思いということを、改めて考えてみるしかないと思うのだ。
そこで、筆者として、自らの皇室を大事だと思う気持ちを突き詰めていくと、まず、皇室の方々が、他人への思いやり、まじめさ、などなど、人生の上でとても大事でありながら、しばしば見落とされがちな徳目を、真っ正直に実践されているということがある。
「きれいごと」と言ってしまうのは簡単であるが、実践するとなると、なかなか難しいことであるし、日常生活においては、そのようなことを考えている余裕が無いというのが、多くの人の実状ではないか。
そのような中、象徴というお立場にある方々が、このような「きれいごと」に真っ正直に取り組んでいるのである。
ふと振り返って、そのようなお姿を見るにつき、「「正直者がバカを見る」などといって、ふてくされていてはいけないのだ、バカになってもいいではないか」と、小心者であり、お人好しである筆者のような人間は、大いに励まされるのである。
次に、その運命的な境遇ということがある。
皇室には、多くの人々が享受している自由というものがない。皇室に生まれれば、生まれたときから皇室の者として生きなければならず、しかも、そのお姿は、多くの人々に注目されるのである。多くの人々の、時に身勝手な期待のこもった視線に耐えて生きていかなければならない。
苛酷なことであるはずだが、それでも、自らの境遇を受け止めて、日本と日本人の幸せを祈られるのである。
自らの境遇を受け止めるということと、他人への思いやりの大切さは、年をとるごとに、じわじわと実感されてくるものであるが、やはり、皇室とは、意義深いものであるなと思わせられる。
そして、このような皇室の境遇とも関連するが、皇室の長い歴史ということも重要であろう。
日本と日本人とは、皇室を中心に戴くことによって、独自の文化をもった共同体として発展してきた。
古来より、大陸から様々な影響を受けながらも、それに飲み込まれずに、一つのアイデンティティある共同体であり続けられたのは、皇室があったからである。
そのような皇室に対する思いを馳せるとき、皇室との絆のみならず、そのような皇室を大切にしてきた過去の日本人との間の絆をも、想起させられるのである。
筆者として、皇室を大事に思う気持ちを振り返ってみると、大まかには、このようになる。
さて、ここで、「男系」「女系」の問題であるが、筆者自身の、皇室を大事に思う気持ちの要素としては、「男系」ということは含まれていない。
皇室に対しては、もっと、人間的な、人と人との絆という理解をしているので、「男系」だから崇拝するとかしないとか、そういう考え方というのは、理解不能である。
また、皇室の歴史について考えるとき、皇室とは、そもそも、日本及び日本人とともに、誕生したのではないだろうか。
「日本」と「日本人」がすでに確立しているところに、「皇室」が外部からやってきたのでもなく、また、「皇室」という存在がすでに確立しているところに、「日本」と「日本人」が生まれたのでもないのではないか。
日本と日本人、そして皇室とは一体の存在であり、一体の存在として、何時かは分からない遠い昔から、自然発生的に生まれ、発展してきたのではないだろうか。
そして、そうであるとすれば、皇位継承についての「男系」という原理を絶対視し、まず「男系」という原理ありきで、その上に皇室の歴史が築かれてきたという考え方をするとすれば、それも少々おかしな話ではないだろうか。
「男系」ということについては、皇室が、日本と日本人と一体のものとして確立していく過程で、多くの人々の意識を反映し、自然発生的に生まれてきた原理のように思われるのである。
昨年の10月22日に「天照大神と素戔嗚尊と男系思想」という記事を書いたが、もっと身近な話として、やはり、社会に出るのは男の役割だという意識が、かなり根強かったのではないか。
女性については、「奥さん」というような言葉もあるとおり、社会には出てこない。そういう役割分担があったのではないだろうか。
そして、そのことから、「天皇」には本来男性がなるべきで、女性は緊急避難的な場合にのみ限られるという意識が生まれていたのではないだろうか。
ここで、現在、女性が天皇になるかどうかと女系とは別な議論という言い方もしばしば見られるのであるが、実際問題としては、密接な関係があったであろう。
天皇の地位が「世襲」であるということは、要するに誰の子であるかを重視するということなのであるから、そのような緊急避難的な女性天皇の子には、正当性を認めにくいことになったであろう。
天皇の地位を、畏れ多いものと考えるのであれば、異例のことはできるだけ避けるべきあるという意識が当然にあったものと思われるし、その異例の女性天皇の子の即位ということを考えるなど、思いもよらないことではなかったのか。
「男系」が続いてきたことの理由は、天皇の地位を非常に畏れ多いものと考える意識と、男女の役割分担の意識、こういうことではなかったのかと考える。
さて、そうすると、現在の状況は、いかがであろうか。
まず、天皇の地位を非常に畏れ多いものと考える意識というのは、現在も、しっかりと存在するのではないだろうか。
百二十五代にわたって一度の例外もなく男系であったことを重視する立場というのも、このような意識から生まれたのではないか。
筆者としては、百二十五代続いてきたことなのだから、絶対的な原理だという主張には、首を傾げたくなるが、このような意識の一環ということであれば、十分理解できるのである。
難しいのは、男女の役割分担の意識である。
建前としては、男女共同参画ということが言われている。
実際どうであるかは、なかなか難しいところだが、この問題については、もう一つ、のっぴきならない問題がある。
それは少子化である。
女性が社会で活躍することは、労働力人口の確保の点からも重要なことであるが、一方で、子どもを生まない女性が増えており、このままでは、日本人が消滅してしまうということも、十分あり得る話になってきたのである。
建前は建前として結構であるが、それだけでは済まない側面を有していると言える。
筆者としては、昔ながらの在り方が、やはり、大いなる知恵であったと思う。
もちろん、能力ある女性の社会進出を阻む要因があれば、それを除去することも必要であるが、家事・育児という役割の重要性の再認識ということも、もっと注目されるべきではないか。
仮に、家事・育児が、あまり価値のない、厄介ごとと認識されているとすれば、家事・育児という役割を担う者にとっては、自分自身の存在意義を見失うこととなり、心の安定は得られにくくなってしまうであろう。
しかしながら、家事・育児は、どうしても不可欠な人間生活の営みの一つであるし、多くの女性がそれに携わっているという実態があるのだから、まずは、その重要性を見直すことの方が、多くの人の心の平安という点では、近道であると思われるのである。
若干、話がそれてしまったが、そうであるが故に、筆者としては、やはり、「男系」は、絶対的な要件ではないにしても、維持されるべきではないかと考える。
以上、これまで述べてきたこととあまり内容は変わらないが、5月4日の産経新聞の「■【主張】女性天皇 伝統重んじる論議を歓迎」に、何となく物足りなさを感じたので、書いてみたのである。
例えば、記事中、
「日本は百二十五代にわたりひとつの皇室が連綿と続いてきた。しかも一度の例外もなく男系(父親の系統)が皇位を継承し、歴史上八人いる女性天皇も緊急避難的なもので、その後は男系男子の皇族が継いでいる。
 国民もこうした連続性と伝統の故に天皇や皇室を崇拝し、そのことで国の統一や文化を保ってきたのである。」
という箇所があるが、さて、男系であるが故に崇拝するという意識が、筆者にはよく分からない。
また、
「繰り返すが、国民の皇室への敬愛が維持できる皇位継承を考えることが、最も大切なのである。」
という箇所がある。
これは「女系」を認めると、認めた途端、左派、朝日などから、正統性が疑わしいとして攻撃されることを懸念したものと思われるが、これも微妙である。
あくまでも「男系」となれば、伏見宮の系統に頼るしかないが、それはそれで、「皇室制度というものは、国民との絆とはあまり無関係な硬直した制度である」と攻撃される可能性もあろう。
これはこれで、なかなか強力な攻撃ではないだろうか。
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女性天皇の議論について、一つの視点

2005-03-13 00:59:39 | 皇室の話
前回、平成17年3月10日付けにおいて、女性天皇の議論に関する筆者の悩みを述べたところであるが、それと関連して、この議論については、意識されるべき、一つの視点があるようだ。
皇位継承の在り方については、パターンとしては、限られてくる。
そして限られるパターンについて、それぞれ支持する立場があり、両者の溝は埋まる気配がない。
そうなってくると、多くの日本人が納得できるような解決に至るためには、どのパターンが合理的であるかという探求よりも、むしろ、どのような過程を経て結果としてのパターンに到達するか、ということの方が重要であるように思われるのである。
つまり、皇位継承の在り方について検討する、判断するという、その過程に対する信頼、納得ということである。
このことを改めて考えてみると、これはなかなか深刻な問題である。
皇位継承の在り方については、かつて、公の事項であると同時に、皇室内部の事項でもあった。
旧皇室典範も、いわば皇室の家内法であり、議会が関与する筋合いのものではなかったのである。
仮に、現在も、このように、家内法として、皇室として定める法であったならば、事情はだいぶ異なっていたのではないだろうか。
あくまでも男系を維持するために、旧宮家復活・養子案を採用するにしても、それが、皇室の主体的な意思決定として決まるのであれば、筆者のような者としても、そこに割り切れなさを感じることは、ないかもしれない。
前回述べた筆者の割り切れなさというのは、皇室の関与できない法律改正により、現在の皇室と別な方をお迎えするということが、どこか現在の皇室をないがしろにしてしまうように思われるところから生じるものであるのだが、当事者たる皇室のイニシアティブの下で行われるのであれば、そのようなことはないからである。
また、女系を導入することとしても、納得度が違うのではないだろうか。
皇位継承が男系で続いてきたということは歴史的な事実ではあるが、男系でなければならないということが明確なる規範として確立していたかというと、そうではないのだ。であるから、女系の導入に対して不安な声が沸き起こったとしても、仮に、当事者たる皇室の側より、皇位継承の在り方について、男系ということは絶対のルールではないのだということが示されれば、それで納得してしまうしかなく、また、納得できるのではないか。
男系論者の主張として、例えば小堀桂一郎氏の論を読んでみても、皇位継承の在り方が、現行の皇室典範として、すなわち一法律として、国民の手に委ねられているが故の主張であるように、そのような要素がかなり多いように、筆者には感じられるところがある。
皇位継承の在り方については、本来、皇室内部の話であり、そこに込められた原理がどういうものかなど、所詮、国民の側には分からない。そして、分からないながら、皇位継承の在り方を大切にしようとすれば、それはもう、今までの在り方を何より大事にせざるを得なくなるはずだ。
日本の歴史、文化の伝統を、相対化し、破壊しようとする勢力との戦いという立場からは、なおさらであろう。
ただ、皇室のイニシアティブの下で女系が導入されるのであれば、それは、そのような勢力によって皇位継承の在り方が踏みにじられるということではないので、完全に納得できないにしても、女系に対する警戒心というものは、だいぶ薄らぐのではないか。
さて、このように考えてみると、結局、日本人というものは、西洋式の民主主義には、なじまないのだなということを痛感する。
国の政治が国民の幸福を目指すべきであることは、誰もが異論のないところであろうが、何でも自分たちの意思で決めるということには、消極的でもあり苦手であるようである。むしろ、好ましくないという意識があるのかもしれない。
今の有識者会議に対する国民の印象、素人であるとか、浅はかであるとか、そのような印象というのは、民主主義の限界というものに対する日本人の正直な感想であるのかもしれない。そのようにも感じられる。
それでは結局どうすればいいのかということであるが、それは、皇室典範を、かつてのように皇室の家内法に戻すことである。
有識者会議も、内閣総理大臣の私的諮問機関ではなく、皇室の諮問機関として、枢密院のようなものとして設置すればよいであろう。
そこで、日本の叡智が結集し導き出された結論であれば、日本人も安心して受け入れられるだろう。
だいたい、皇室は国政に関与できない立場であるという前提があるのだから、誰が皇位に即くかについて、皇室の側の判断があってもよいではないか。
皇位継承順位というものは、皇室の方々の一生を、大きく左右するものなのであるから、皇室が関与できないというのは、如何にもフェアではない。
一方、判断を委ねられた国民にしたところで、どうすることもできず、困ってしまうのである。喜ぶのは、皇室の消滅を望む、朝日的なる思考の持ち主だけであろう。
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女性天皇の議論について,筆者の悩み

2005-03-10 21:28:12 | 皇室の話
平成17年3月31日の産経新聞において,「女性天皇について考える」というテーマで論文が募集されている。
未発表の作品という条件が付されているのだが,問題意識のある人というのは,既に何らかの形で,例えばブログなどで,自らの意見を書いてしまっていると思われ,なかなか厳しいところだ。
それにしても,どのような作品が応募されるのであろうか。
様々な議論を見る限りでは,男系を維持するべきだという論が,筋が通っており,また,説得力があるように思われる。
ただ,世間において交わされている議論を見るにつけ,肝心なことが語られていないように思われる。
男系を維持するべきだという立場としては,男系が何故重要であるのか,男系ということには,一体どのような意味があるのかということの説明が必要であろう。
歴史的な重み,男系を維持するための歴代皇室,日本人の苦心ということも,とても大きなものであるが,そこまでして男系を守ってきた理由は何かということが,まだ説明されていないように思われるのだ。
この点について,筆者なりの考えについては,今までにも何度か述べてきたが,世間に於ける立派な識者による,キチンとした説明が待ち遠しいところだ。
一方,女系を認めることを前提とした女性天皇容認の立場としても,男系ではいよいよ皇室の存続が難しくなっているということの説明が,十分になされていないように思われる。微妙な問題であるが,皇室において,もう男子の誕生が望めなくなっているという事情があるのか,また,旧宮家復活・養子について,現実的に困難な問題があるのか。
結局,核心となることが語られていないので,なかなか平行線というか,かみ合わない議論になってしまっているように思われる。
なお,筋の通っているのは,男系を維持するという立場の議論であると述べたが,この立場の議論が多くなることについて,筆者としては,少々悩むところがある。
それは,皇室という御存在を尊重しようという気持ちの中身にかかわる話である。
筆者としては,皇室との心の絆ということを重視する立場である。もちろん,この絆というものは,個人と個人の間の絆という訳ではなく,歴史的な背景を有する皇室と日本人との絆ということであるのだが,それでもやはり,絆である以上,今の皇室とは全く別な方を迎えるという案については,何というか,寂しいというか,そういう気持ちが生じてしまう。
少なくとも,それで全く問題ないという気持ちにはなれない。
世襲制ということについては,時間的な,縦の線における同一性が必要なのだということを以前論じたことがあるが,ただ,世襲制がそもそも何故始まったのかということを考えてみると,ある一族についての尊敬というか愛着というものがあり,その一族の実子による継承を願う気持ちがあればこそだったのではないかとも思われるのである。
かといって,女系を容認するべきだとも思わないのだが,国民と共に歩むことに努められてきた現在の皇室の方々のお姿を思い起こすと,なかなか割り切れない。
世間の議論について平行線などと言ってしまったが,筆者は筆者で,自らの立場をハッキリとさせることが出来ずにいるのである。
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皇太子殿下の記者会見について

2005-02-26 01:30:56 | 皇室の話
2月23日に、皇太子殿下の記者会見の内容が公表された。
筆者が感じたのは、皇太子殿下のお心の広さと強さと温かさである。
昨年より、様々な批判がある中で、お辛い時期もあったと思うのだが、自分の信じる道を貫こうとなさっておられる。
それは、決して、エゴによる頑固さなどではなく、皇太子としての在り方をご自身で深く考えられたことによって生まれた覚悟に基づくものであり、その覚悟というのも、多くの人を幸せにするということを、目指したものであると、感じられるのだ。
「そういったことは話し合いを続けることによって,おのずと理解が深まるものと考えます。公務については後でもお話することになるかと思いますが,国民の幸せを願って,国民のために何ができるかを考え,それを実践していこうとすることにおいては,陛下のお考えも,秋篠宮の考えも,私の考えも同じだと思います。」とある箇所については、やはり、このお方が、次代を担われるのだなと、しみじみと感じる。
また、今回のお言葉については、ドロシー・ロー・ノルトの詩が注目を集めたが、その詩の引用の直後における、「子どもを持ってつくづく感じますが,この詩は,人と人の結び付きの大切さ,人を愛することの大切さ,人への思いやりなど今の社会でともすれば忘れられがちな,しかし,子どもの成長過程でとても大切な要素を見事に表現している」という箇所も、とても重要なことだ。皇太子殿下は、第4問に対する回答において、新しいご公務につき、環境問題と、子どもと高齢者に関する事柄を挙げられておられるが、これらについて、最も重要な鍵となるのは、「人と人の結び付きの大切さ,人を愛することの大切さ,人への思いやり」ではないだろうか。
多くの人々の幸せな未来を実現するために、何が問題になってくるかを見極め、そして、その解決策を考えるためには、絶対に必要な視点である。あまりに当たり前のように思われながらも、現実において、最も見落とされている視点である。
ところで、皇太子殿下について、筆者は、しばしば大国主神を連想することがある。
例えば、古事記にでてくる因幡の白ウサギの話がある。有名な話なので、内容は改めて述べないが、大国主神、ここでは、まだ、オホナムヂノ神であったが、兄弟の神々に大きな袋を背負わされて登場する。これは、いわゆるヒーローのイメージとは、大分異なるのではないだろうか。おそらく、上手く立ち回ることは、あまり得意ではなかったのであろう。しかし、誰よりも優しい心をもち、確かな知識で目の前のウサギを助けるのである。そして、そのようなご性格があればこそ、やがて偉大な大国主神になったのである。
さて、このように見ていくと、今後の宮内庁の在り方としては、頭のいい人が必要になるなということを実感する。
頭のよさというのも、いろいろあると思うが、ここでいうのは、敏感さと柔軟さということである。
さも分かったような顔をして、結局何も言わないというのは、一見、畏敬の念の表れのようにも見えるかもしれないが、そんなことは、頭が空っぽでもできるのである。
皇太子殿下と問題意識を共有し、そのお気持ちに応えること、これは、実にやりがいのある、大きな仕事ではないか。
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文芸春秋三月特別号の皇室特集を読んで

2005-02-12 02:10:28 | 皇室の話
文芸春秋三月特別号に皇室特集として、様々な方の記事が掲載されている。
まず、福田和也氏の「天皇と皇太子 父子相克の宿命」と題する記事がある。
昨年末の天皇陛下のお誕生日での文書回答にスポットを当て、皇室において、父と子の間の軋轢があるとし、それをまた、疎開世代と高度経済成長時代の恵みを享受してきた世代の違いと重ね合わせて、なかなかドラマチックに論じている。
ここでいうドラマチックというのは、要する悲観的ということなのであるが、ただ、このように論じてみたところで、一体何の意味があるのだろうというのが、正直な感想であった。
息子に対する父の厳しさというものは、決して敵に対する攻撃ではないのである。厳しく接することがあっても、一方で、それを克服することを望むものなのではないか。父として、息子のやり方が、仮に将来にわたって容認できないものであったとしても、一方で、やはり自分なりの信念に基づいて、自分の道を見つけて欲しいと願うものなのではないか。
形ばかり自分の模倣をし、それで何の疑問も持たないようでは、それではやっぱり、寂しいはずである。
今の皇室の状況について、父と子との相克という要素があるとしても、悲観的にばかり捉えていたのでは、不十分であるし、意味がないのである。
福田氏の記事の末尾にて、「疎開世代の、父祖の偉業が灰燼に帰する光景を瞼に焼きつけた視線、その覚悟の深さ・・・・・の前で、皇太子の世代はいかにもひ弱い」とあり、これは福田氏自身の告白のようでもあり、何となく同情もしてしまうのだが、そのような情けないドラマを皇太子殿下に当てはめてしまうのは、如何なものかと思う。

次に目に付いたものとして、朝日新聞岩井克巳氏の「雅子妃を抱きしめた皇后さま」と題する記事がある。岩井氏の今回の記事については、何が言いたいのかよく分からない。どうも、理念なきウォッチャーとしての視点に立った記事であるように感じられた。
ただ、注意を要する箇所もある。
「皇室は批判に耐えるものでなければならない。隠さねばならないものを抱えた皇室をだれが敬愛するだろうか」という主張である。
よくそういうことが言えるなと、呆れてしまう。
一般に、ものの在り方についての哲学というものは、それぞれの置かれた立場に応じて、抱くべき内容が異なるのではないだろうか。
皇室のお立場においては、「皇室は批判に耐えるものでなければならない」という哲学を有するべきであることは、正論ではあろう。
しかし、メディアの立場にある者がそれを言うのは、盗人猛々しいというべき話である。皇室におかれては、そのような哲学をお持ちになるとして、一方、メディア、国民の立場としては、そのような皇室に対して、敬う、大切にするという哲学こそが、必要になるはずなのである。

このように批判ばかりをしているが、長谷川三千子氏の「雅子さまの困難な道のり」と題する記事は、実に素晴らしいものだ。
冒頭に、「この「文芸春秋」でも、何度か今回のようなテーマの特集が組まれ、その中には、静かに耳を傾けるべき貴重な意見もいくつか語られていた。しかし、それらはみな、言ふならばミソクソ一緒の構成のうちに埋もれて、ただあてどのない蝿の羽音としてしか響かないのである」などと書いてる。
実に痛快である。
記事中においては、「祈り」ということの本質的な意味が、詳しく説明されている。
「祈り」といっても、意味が分かるようでいて、改めて考えると、なかなかよく分からないものであるかもしれない。日常的には、口先だけの「祈り」が言われることもある。一般には、あまり意味のないものと思われている傾向があるかもしれない。
しかしながら、人間というものは、多分に精神的な存在である。
世の中には、どうすることもできない困難な問題というものが、しばしばあるものである。そのようなとき、たとえ、実質的な解決を与えてくれるものではなくても、自身のためにひたすらに祈ってくれる存在があるということは、大きな救いである。
かつての天皇についても、天変地異を自分自身の責任であるとして非常に悩まれ祈られる様子が、記紀にも書かれている。
このような話について、現代人として、科学的に考えれば不合理であるかもしれないが、心の世界の問題としては、大いに意味があったのである。
記事中の「われわれはいまのこの世の中を、かなり絶望的な世の中だと思っている。けれども、もしもこの世からかうした祈りが奪い去られたら、それどころではない本当の絶望の世をわれわれは知ることになるであろう」という主張には、全く同感である。
このような主張をしてくださる方がいらしたことについては、筆者としても、とても嬉しい。
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皇太子妃殿下の苦境を考える

2005-01-28 01:54:00 | 皇室の話
 来月には、皇太子殿下のお誕生日の記者会見がある。
 そこでは、どのようなご発言があるのだろうか。
 昨年の5月の記者会見以降、皇室について、様々なことが論じられたが、皇太子殿下、皇太子妃殿下の苦境を、きちんと把握できた説明が、果たしてどれくらいあったであろうか。
 そのような説明がなされていなかったとしたら、それは、皇太子殿下にとって、余りに無念であろう。
 論じられ方としては、皇太子同妃両殿下を擁護するもの、また、批判するもの、皇室内部の軋轢について、あれこれと憶測するもの、様々なパターンのあったところであるが、筆者の感想としては、いまいち、ピンと来るものはなかった。
 様々な議論について見てみると、皇室の周囲には、一種の異様な空間が形成されていることに気づく。
 それは、噂好きな人たちの存在である。
 よく雑誌などにて、匿名の皇室事情通が登場する。
 ここで、気を付けなければならないのは、そのような者が通じているのは、皇室の実際の姿ではなく、皇室をめぐる噂であるということである。
 そして、「このような噂がありますよ」ということが、複雑に伝聞され、噂によって構成される、独特な空間が形成されるのである。
 また、皇室というのは、とかく、噂の対象になりやすい。
 なぜならば、一つには、自分たちとは異なる特殊な存在であること、そして、二つには、これがなかなかポイントなのであるが、基本的に善良であることが求められる存在であり、まず反撃してこない存在であること、このような要素を備えてしまっているからである。
 そして、噂というものは、勝手な想像や、刺激の欲求というものを託されるものであり、本人がどのように傷つこうと、そんなことはお構いなしである。そして、そこには罪悪感はなく、しばしば中傷という形になるのである。
 これは何かに似ていないであろうか。
 筆者には、これは、一つのいじめの構造そのものであると思われる。
 皇太子妃殿下の境遇と比較することは不遜であるかもしれないが、筆者にも、そのような経験がある。
 この際、身を削る思いにて、敢えて筆者自身の経験を書くことにする。
 筆者自身のことを余り紹介しても仕方がないかもしれないが、若干の説明をすると、何ら特権はないものの、形だけは幹部候補として、ある組織に所属している。その組織には、私のような幹部候補というものはごく少数であり、周囲からは、異質な存在となってしまっている。そして、見た目には、如何にもお人好しであり、少々のことでは、攻撃してきそうもない。ただ、コミュニケーションは得意ではなく、味方となる者は少ないようだ。こんなところであろうか。
 さて、このような境遇にある者が、どれほどの中傷の的になるものであるか。世間において、同じような境遇におられる方も多いと思うが、分かる人には分かるであろう。
 実に、様々な噂がなされるのである。
 「あんな奴、使い物にならないのではないか」、ろくに話をしたこともない者が、いきなりこのように喋っていることもあった。
 ただ、それは、あまりショックではなかった。
 本当にショックであったのは、「あいつは俺たちのことをバカにしている。だから、挨拶もしようとしないんだぞ」という噂が広まったときである。
 筆者は外向的な性格ではない。声もそれほど大きくはない。だから、挨拶をしないということについて、何らかの、元になる事実があったのかもしれない。ただ、「あいつは俺たちのことをバカにしている」というのは、全く意外なことであった。
 むしろ、内気、小心であり、今までの人生においても、そのように、周囲から評価されてきた。もちろん、他人からの見た目と自己像とは、食い違うことがあるかもしれないのだが、そのことを考慮しても、明らかに本当の自分とは違う人格が、無理に作られ当てはめられて、攻撃の対象とされていたのである。
 そして、その作られた人格というものは、実に良くできたもので、自分の外形的なイメージ(鼻持ちならない幹部候補)には、如何にもフィットしてしまう部分があったのである。
 結局、ある程度付き合いのある人には、そのような作られた人格というものが虚偽のものであったことについて、段々と理解してもらえたのであるが、私の名前だけは知っているが実際に話したことはないというような人たちの間において、その噂は、何年も続いてしまったものである。
 さて、中傷の的になってしまった者の苦しみとして非常にやっかいなことは、その苦しみを周囲に理解してもらうことが、如何にもできそうにないと、自分自身でも思われてしまうことである。
 中傷を行う者にはそれほどの罪悪感はない。むしろ、自分が正しいとさえ思っているかもしれず、また、その中傷の内容には、正論的な要素がある場合もあろう。多くは、第三者からは、些細なことと映るのではないか。
 そのため、本人としては、非常に辛く何とか助けを求めたいが、それではその苦しみは何ですかと、改めて聞かれてしまうと、理解してもらえそうにないと絶望し、結局何も言えなくなってしまうのである。
 この辺の話というのは、子供の頃に、いじめを受けた人であれば分かるであろう。
 親や先生に相談しても、なかなか理解してもらえない辛さというものが。
 皇太子妃殿下の苦しみがこのような性質のものであるとすれば、生活が保障されているのに贅沢だというような批判は、あまり当を得ないであろう。
 いじめを苦にして自分自身を傷つけてしまう多くの者を見れば分かると思うが、生活レベルというものは関係がない。生活苦という問題ではないのである。
 また、ゆっくり休んでもらいたいという励ましも、それは確かにありがたいことではあるけれども、どこまで、救いとなるか。
 このような状況に置かれた場合、一つの切り抜け方としては、自分の得意分野で活躍し、自分の価値というものを、自分自身で確認し、また、周囲に知らしめることである。
 しかしながら、皇太子妃殿下の場合、そのご公務は、自分一人の判断ではできないものであり、また、多くの関係者の協力を、恐らく独特なる噂の空間を形成しているとも思われる関係者の協力を、得なければならないのである。
 このような状況では、皇太子妃殿下の心が救われる道というものは、なかなかあるものではない。
 心ない噂により、どれほど本人が傷つくか、そのことを、周りが自覚するしかないのだが。
 ただ、一つ確実に言えるのは、皇太子妃とはこのようでなければならないとか、様々な指摘を行う者もいるが、そのような者の中に、実際に皇太子妃殿下のお立場に立った者など、存在しない。今のこの時代において、皇太子妃殿下のお立場におられるのは妃殿下ご自身であり、皇太子妃の在り方については、妃殿下ご自身で作っていけばいいのである。
 そして、周囲の噂というものは、変わるときには一斉に変わるものである。今は悪意に満ちた噂でも、それが逆転するときが必ず来る。
 ただ、それも、噂は噂であり、幸せなことではないのかもしれないが。

* 以上については、全くの的はずれの可能性も勿論あり、このような内容が、それ自体勝手な憶測となってしまってはいけないのだが、皇太子妃殿下を助けるためには、皇太子妃殿下のお立場に立って、その苦境を理解しようとすることが必要ではないかと考え、筆者として、リアリティの感じられる説明を、一生懸命考えてみたものである。
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皇太子妃殿下のご公務復帰

2005-01-04 00:12:04 | 皇室の話
 皇太子妃殿下が、1月2日の皇居一般参賀にお出ましになられた。
 これから、少しずつ、ご公務に復帰されるのではないだろうか。
 いいことである。
 なお、お出ましになられたのは、最初の一回のみであったが、焦らないことが何よりも肝心である。
 一般には、お出ましについて、例えば午前だけでもとか、7回全部をこなされることも、それ自体は、大したことがないように思われるかもしれない。
 しかし、皇太子妃殿下のご不調が、焦燥感に由来するものであるとすれば、不用意に広げてしまうと、もっと、もっとと、心の中で、やらなければならないご公務の範囲が拡大し、歯止めが利かなくなってしまうであろう。
 見守る側としても、気長に、余裕を持って、待たなければならない。
 なお、皇太子妃殿下に対する、最近の世間の意識については、筆者としても、なかなか心配なものがある。
 心の不調については、周囲の理解を得ることが難しいものだ。
 しかし、人間の体というものは、心身ともに、実に精妙なバランスによって、成り立っている。
 そして、そのようなバランスを崩してしまうということは、誰にでも起こりうることであり、そして、その人が立派な人間であるとか、そうでないとか、そういうこととは、本来関係が無い話である。
 例えば、盲腸になった人に対して、道徳的な評価を問題にしても、意味はないであろう。
 しかし、心の不調については、何かそのような評価と結びつけて、サボタージュのように受け止められる傾向があるようである。
 筆者から見れば、もともと焦燥感故に不調になられた皇太子妃殿下がそのように批判されることについては、言いようのない悲劇のように感じられる。
 昨年5月の皇太子殿下の記者会見における「人格を否定するような動き」というご発言について、
真相がよく分からないとも言われるが、雑誌などのメディア、ネットにおいて、それこそ、皇太子妃殿下の人格を否定するような表現が、溢れているではないか。
 このような無数の悪意に対して立ち向かうには、殿下も妃殿下も、あまりに孤独すぎる。
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