落書き帳

皇室評論家って、つまらない奴ばかりなので
専門家とか、ホントに?

朝日新聞岩井氏批判

2004-12-29 03:10:15 | 皇室の話
 平成16年12月23日の朝日新聞において、天皇陛下のお誕生日の文書回答についての記事が掲載されている。
 「苦渋にじむ直截な表現」という見出しの下、編集委員・岩井克巳氏によって解説が書かれており、その中に、「気になるのは、憶測が広がり、様々な人が傷つきつつあることに対して、皇太子ご夫妻からブレーキをかける強い意志が感じられないことだ。両陛下が心を痛めていることや、自分たちが務めを十分に果たしていないことについて率直にわびる言葉も聞こえてこない」という箇所があり、皇太子同妃両殿下に対して痛烈な批判を行っている。
 両殿下におかれては、公人として、様々な批判を受け止めなければならないお立場であるし、批判の内容自体は、一つの考えかもしれないが、私は、岩井氏の批判については、許せないと思う。
 すでに世間では忘れられているのかもしれないが、かつて、皇太子妃殿下のご懐妊について、まだまだ極めて不安定なごくごく初期の段階で突然のスクープを行い、その後、妃殿下が流産されてしまったという事件があった。
 また、最近では、清子内親王殿下と黒田氏とのご婚約について、皇室・黒田家の都合も全く考えずにスクープとして報道し、関係者に随分と迷惑をかけたものである。
 すなわち、朝日新聞というのは、とうてい、皇室に対して偉そうなことを言えるような存在ではなく、むしろ、皇太子同妃両殿下に対しては、加害者とでも呼ぶべき存在なのである。
 そのことを踏まえれば、今回の記事については、加害者が被害者に説教を垂れるような話であり、こんなことが許されていいのかと、叫びたくなる気持ちである。
 人間として、絶対に許すわけにはいかない
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朝日新聞批判(女性天皇論)

2004-12-29 02:36:08 | 皇室の話
 平成16年12月22日の朝日新聞に、「古代女帝=中継ぎ論で孤軍奮戦」という記事がある。
 この記事の記述については、國學院大學助教授の佐藤長門氏のコメントなのか、記者の渡辺延志氏のコメントなのか、いまいち分かりにくいのであるが、「だが、近年は王権論やジェンダーの視点からの研究が進み、「男でも中継ぎの天皇はいた」「女帝も政治的に正統な天皇で、男女の性差に意味はない」などの見解が支配的になり、「女帝=中継ぎ」論はめっきり姿を消している」という記述がある。
 ここで、「中継ぎ」が何故問題になっているかについて述べておくと、それは女系の議論と関係があるのである。
 現在、女性天皇についての議論が騒がしいが、この議論には、単純に女性が天皇になれるかという問題と、天皇となった女性の子に皇位継承資格を認めるかという女系の問題とが含まれる。
 皇室の過去の歴史においては、女性天皇の実例が、十代八方おられたものの、いずれも男系の範囲内であり、女系ではなく、皇位の継承という観点からは、女性天皇は中継ぎであったという事実があるのである。
 そこで、朝日新聞などは、何とか皇室の伝統を切り崩したいものだから、女系の導入を推進しようとしており、その一環として、このような記事により、中継ぎ論への懐疑を植え付けたいのであろう。
 ただ、上記で引用した、「男でも中継ぎの天皇はいた」「女帝も政治的に正統な天皇で、男女の性差に意味はない」ことと、過去の十代八方の女性天皇が中継ぎであったかどうかとは、理屈の上で何の関係も無い話である。
 また、「「女帝=中継ぎ」論はめっきり姿を消している」という話にいたっては、いったいどこの世界の出来事の話かと、大変不思議な気持ちにさせられる。
 おそらくは、記者の脳の中か、朝日新聞社の内部での話なのではないか。
 自らの脳の中の出来事と外界の現実世界の出来事との区別が付かなくなるというのは、精神の病の一つであると思われるが、甚だ心配である。
 
 
 
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天皇陛下お誕生日の文書回答

2004-12-24 00:39:54 | 皇室の話
 今日は、天皇陛下の71歳のお誕生日である。
 この一年は、日本にも、そして、皇室にも、様々な出来事があった。
 お誕生日の文書回答を読んでみると、実に、国内、国外に、無私なる慈愛を注がれているのが分かる。
 つくづく思うのだが、誰も彼も、自分のことばかりを考える世の中になっていはしないだろうか。
 もちろん、筆者としても、例外ではない。
 そうすると、天皇陛下の存在は、実に、何ともありがたいことである。
 この文書回答については、メディアにおいて、皇太子同妃両殿下について述べられた箇所が大きく取り上げられている。
 皇太子同妃両殿下について述べられたことのポイントは、皇太子妃殿下の苦境を救いたいというお気持ちと、新しいご公務に取り組むことへの励ましとアドバイスである。
 「皇太子の発言の内容については,その後,何回か皇太子からも話を聞いたのですが,まだ私に十分に理解しきれぬところがあり」という箇所については、確かに、厳しさが感じられる。
 この点については、皇室にある者として、きちんと筋を通すべきであるという、帝王学なのではないか、と筆者は考える。
 皇室にある者としての筋とは、ここでは、国民からの信頼にこたえるために、十分な説明を行うべきであるということなのであろう。
 このブログについては、そもそも、5月の皇太子殿下のご発言をめぐり、非常にナンセンスな議論が多く巻き起こる中、何とか皇太子殿下のご真意を明らかにしようということから、始まったのである。
  「皇太子発言と国民と日本の国柄」という記事がそれであるが、筆者としては、そこで述べたことは、やはり、間違っていなかったと思う。
 根底にあるのは、皇太子殿下にしても、皇太子妃殿下にしても、自らの役割を果たすことについての焦燥感ということであったはずである。
 「人格を否定するような動き」というご発言は、確かに、皇太子というお立場にふさわしくなかったかもしれないが、そのような焦燥感と、そして、皇太子妃殿下への思いやりに発したものであったのであれば、筆者としては、これからの皇太子殿下に対して、やはり期待したいと思うのである。
 皇太子殿下というお方は、非常に純情であり、周囲に対してご自身をよく見せようとすることに、あまりに無頓着であるように、筆者には感じられる。
 しかし、今は、ご自身の思うところについて、正しく理解されるようできる限りの説明を行うことが、求められているのである。
 筆者としては、皇太子殿下が、そのお持ちになる徳の輝きを広く明らかにされる日が、早く訪れることを、心待ちにしている。
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朝日選書「女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来」について

2004-11-27 18:41:38 | 皇室の話
 朝日選書の「女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来」という本がある。
 以前、この本の感想を求められたことがあり、ざっと目を通したことがあるのだが、あまり大した内容ではないなというのが正直な感想であった。
 著者自身には、並々ならぬ思い入れがあるようであり、かなり手間を掛けて書いた書物だと思うのだが、ページを開けばおなじみの議論が延々と紹介されており、かなり退屈である。そして、結局、何が言いたいのかということについては、皇太子妃殿下の苦しい状況を目の当たりにし、皇太子妃殿下というお立場にある方への配慮という観点から、女性天皇を認めるべきことを主張するのである。
 しかし、皇太子妃殿下への同情ということから女性天皇を認めようとするのは、考え方として片手落ちである。
 なぜならば、女性天皇というお立場に置かれた方が、皇太子妃殿下よりも苦しい状況に置かれる可能性が十分にあるからである。
 皇太子妃殿下の苦しい状況を、皇室の伝統に由来するものと捉えるならば、変に女性天皇容認論を主張するよりも、皇室制度の廃止を主張する方が、まだ筋が通るのではないか。
 それでは、なぜ、このような主張がなされるのであろうか。
 筆者としては、朝日というところは、皇室の存在しない日本の実現を目指していると、常々考えている。
 そのような立場に立つ者としては、単に皇位を継承する者が存在しなくなり、皇室が自然消滅するということでは、不十分なのであろう。
 なぜならば、皇室が最後まで伝統を守って自然消滅したような場合には、その伝統の精神が、国民の心の中に後々まで生き残ることになるからである。
 真に皇室の存在しない日本を目指すためには、いよいよ皇室が消滅しようというときに、敢えて悪あがきのようなことをさせ、守られるべき伝統を失った体裁を作り出し、その後に葬り去るということが必要なのであろう。
 この本の著者がそこまで考えているとは思われず、著者には著者なりの使命感があるのかもしれないが、この本を出版している朝日新聞社には、そのような意図があると思われてならないのである。
 
 それにしても、よく分からないのは、この本の評判である。
 皇室をめぐる議論を多少知っている者であれば、退屈という感想を抱かざるを得ないと思うのだが、筆者の知っている限りでは、橋本梧郎なんかも絶賛していた。
 Amazonのレビューでも、なかなかいい評価を得ているようである。筆者としては、この中では、森之介氏の評価しか、的を射ているものはないと思う。
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皇后陛下と清子内親王殿下

2004-11-27 01:09:43 | 皇室の話
 今年は、皇后陛下の古希であった。
 皇后陛下のお誕生日の文書回答を読むと、ハッとさせられる表現がある。

 「東宮妃として,あの日,民間から私を受け入れた皇室と,その長い歴史に,傷をつけてはならな いという重い責任感とともに,あの同じ日に,私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大 勢の方々の期待を無にし,私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもま た,その後の歳月,私の中に,常にあったと思います。」
という箇所である。

 皇后陛下が民間から皇室に入られたことについては、改めて言うまでもないが、皇后陛下のお心の中には、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということとが、常にあったのだ、そのことを改めて示されると、皇后陛下という御存在について、いよいよ理解が深まった気持ちになる。
 皇后陛下におかれては、「皇后」であるということのみならず、庶民の歴史ということが常に心の中にあるからこそ、皇室の歴史について一生懸命理解しようとされ、また、そのことにより、実際に深く理解して意義を見いだされてきたのではないか。
 さらに、そのようにして理解された皇室の歴史について、民間にある者にも分かりやすく伝えようとされたのではないか、と思われるのである。実際に、皇后陛下におかれては、皇室の役割についてお話になることが、結構あるのである。
 そうなってくると、民間から皇室に入られたお方であるが故に、「皇后」として、独自の意義を有する御存在であったのではないか、と感じられてくる。

 このように考えると、清子内親王殿下のご結婚については、その対を成すものとして、とても感慨深いものがある。
 清子内親王殿下におかれても、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということを、常に心の中におかれて、過ごされることになるのではないか。

 なお、ここで、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということとがあると言っても、それは決して、どっちつかずということではなくして、皇后陛下におかれては、皇后というお立場に深い御自覚がおありなのであり、清子内親王殿下におかれても、庶民という立場に深い御自覚を持たれることになるのであろう。

 そして、そうなってくると、庶民という立場に立たれる清子内親王殿下について、安易に祭り上げたりすることは、慎むべきであるのだろう。また、そのご生活の様子について、注目するようなことも、避けなければならないだろう。
 なぜなら、一人の人間としての動静について、常に象徴的な意味のあるものとして注目されてしまうという宿命を負うことができるのは皇室のみだからである。
 そして、庶民というものは、皇室とは対照的に、集団的な存在である。
 メディアにおいては、清子内親王殿下お一人の、ないしは、黒田氏とのお二人の物語のように語られており、世間の認識もそのようなものであると考えられるが、清子内親王殿下が皇籍を離脱されるということは、清子内親王殿下を受け入れる庶民の側の物語でもあると言える。
 
 私たち庶民は、皇室に皇室としての在り方を求め続け、ご負担をおかけしてきた。そのことに見合うだけの責任感をもって、清子内親王殿下と黒田氏とのお二人のご生活を、尊重することができるだろうか。

 いよいよ、庶民としての誇りと責任とが、問われることになるのである。
 
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サンケイ新聞オピニオンプラザ「皇室と宮内庁と国民」について

2004-10-09 00:31:32 | 皇室の話
 10月5日のサンケイ新聞に、「皇室と宮内庁と国民」をテーマとした論文が掲載されている。
 このようなテーマについて、いろいろ考える人が増えたのかと思うと、それはそれで喜ばしいことと思う。
 ただ、募集要項中の「日本の天皇制は歴史からの贈り物であり、天皇は世界の宝物と言われます。」ということについては、あたかも当然の前提として、論が組み立てられているようだ。
 筆者としては、歴史からの贈り物であるとか、世界の宝物ということについては、まさに主観的な価値観の話だと思うので、それぞれの論者が、なぜ、そのように確信したのかということを語って欲しかった。日本の歴史における天皇制について、どのように素晴らしいと感じたのか。
 日本における状況を変えるためには、一人一人の、そのような素晴らしいと感じたことの体験を表明し、共有することこそが、大切なのではないかと思う。
 もちろん、筆者としても、「日本の天皇制は歴史からの贈り物であり、天皇は世界の宝物と言われます。」ということについては否定するものではないが、本来、客観的な事実というよりは、主観的な体験として捉えるべきではないかと思う。
 そして、心を動かされたという具体的な体験こそが、社会を変える力になると思うのである。
 なお、「世界の宝物」という表現についてであるが、確かに、皇室は、世界においても貴重な存在であろう。
 しかし、皇室のすばらしさは、やはり日本人との関係においてこそ、まずは成り立つものであり、日本人以外との関係においてそのすばらしさを主張することについては、謙虚であるべきだと思う。
 例えば、子供にとっては、自分の父、母が、世界最高の父、母であると言うことができよう。
 しかし、他の子供にとっては、やはり、その子供の父、母こそが、世界最高であろう。
 特定の関係、絆における価値観と普遍的な価値とを、混同することは、ナンセンスだと思うのである。
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欠けているもの

2004-10-06 00:45:32 | 皇室の話
 皇室について考える場合、今一番、大事なのは、皇室というお立場への想像力であろう。
 日本建国と密接に関わり、125代の長きに渡って、日本人と共に歩んだ、そのような歴史を背負ったお立場とは、いったいどのようなものであろうか。
 くだらない憲法学者などは、「象徴にすぎない」と、自らの無責任、無教養をさらけ出すような発言を平気で行うが、象徴であることとは、いったい、どれほど大変なことなのであろうか。
 もちろん、陛下のご境遇については、完全に理解できるはずもなく、どこまでも想像にすぎないのであるが、それでも想像をしてみると、なんともたまらない気持ちになるのである。
 とてつもない責任感、現在の日本人だけでなく、過去の無数の日本人たち、そして未来の無数の日本人たちへの責任感を常に感じざるを得ない、崇高であるが、とてつもなく孤独なお立場であるに違いない。
 そして、不十分ながらも、そのような想像をしてみると、陛下のご公務一つ一つが、実に胸に迫ってくるのである。
 陛下のご公務について、陛下が背負われているお立場に対する想像力というものを、まったく働かせずに理解するということはできないであろう。
 もっとも、想像力というのも、各人程度に差があるわけであり、深く働かせることができれば、それだけ深く理解することができる。
 また、ここに、皇室というご存在の深みがあるとも思うのである。
 さて、そうなってくると、現在の日本人において、肝心なのは、皇室に対する想像力ということになるのではないかと思う。
 この点について、皇室を大事に思う人々の中においても、どれくらいの認識があるのだろうか。
 日本会議など、筆者が期待している団体においても、皇太子殿下のご発言以降、皇室のあるべき姿についての議論が見られるが、皇室のあるべき姿については、皇室の方がもっとも問題意識を有している課題なのであって、広く国民に訴えるのであれば、皇室に対してどのような捉え方をするか、想像力を働かせることの重要性を説く方が有意義ではないかと思われる。
 皇室は無私なる存在であり、エゴによりその在り方を決めるものではなく、国民の求めるところを感じ取って、国民の求める方向で、自らの在り方を定めるものである。
 したがって、今重要であるのは、皇室というご存在に対する自覚を喚起することであり、それなくして、自らの考えに基づく皇室の在り方を一方的に主張するというのでは、皇室の方々が、あまりにお気の毒である。
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「パパ」について

2004-09-30 23:55:45 | 皇室の話
 かなり意外な話なのではあるが、愛子内親王殿下が「パパ」と発言したことが、波紋を呼んでいるらしい。
 しかし、そもそも私的なホームビデオでのことであり、何だってまた、そんな細かいことに難癖を付けるのだろうかと、あきれてしまう。
 ほとんど、嫁いびりのような世界である。
 御所言葉では「おもうさま」と言うのだとか、妙なところにやけに詳しい者もいるが、御所言葉なるものは、御所の中の人が自由に使えばいいのであって、御所言葉と違うとかどうとか、外から批評をする筋合いのものではないのである。
 ところが、宮内庁の中にも、ごちゃごちゃいう者がいるらしい。
 バカである。
 
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愛子内親王殿下の映像

2004-09-26 01:41:00 | 皇室の話
愛子内親王殿下の映像を見て、何とも言えないうれしい気持ちになった。

単にお元気な様子が分かって良かったというだけではなくて、
何か、しみじみと心の温まるような感覚である。

内親王殿下の、「愛子」というお名前については、
皇太子同妃両殿下のお子であるということを鑑みれば、
日本人全体への、
「愛」という思いやりの心の大切さを伝えるメッセージとしての意味合いも
あったのかもしれない。

内親王殿下が、これからも、日本人から愛され、
そして、
日本人に対して思いやりの心の大切さを想起させるような、
そのような素敵な存在になられていくのではないか、
何だかそういう予感がするのである。
 
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皇室の外国ご訪問について

2004-09-22 00:22:59 | 皇室の話
 皇太子殿下の5月の記者会見以降、皇室の外国ご訪問について、スポットが当たっていると思う。
 ここで、保守的な立場からは、皇室は外交官である必要はないという意見があり、外国ご訪問に対しては、冷めた姿勢であるように思われる。
 ただ、改めて考えてもらいたいのは、「実際に何かの役に立つ存在でなければ、公的存在としての意味がない」というような、功利主義的な考え方に対して、如何に立ち向かうかという問題である。
 現在は、行政府に対する政策評価法など、功利主義的な考え方が国民の支持を得ており、この傾向は、今後も拡大していくと思われる。
 このような功利主義的な考え方が、皇室に対しても向けられた場合、これに如何に立ち向かうべきかは、非常な難問である。
 功利主義という土台に立ってしまった場合、辛うじて、反論できるとすれば、皇室の国際親善が、外交上非常にメリットがあるということぐらいではないだろうか。
 国民の立場で、皇室について冷めた見方をしている人でも、海外において、皇室がかなりの存在感をもって迎えられているという事実については、認めざるを得ないからだ。
 そういうわけで、外国ご訪問というのは、現在蔓延している功利主義に対して、数少ない有効な対抗手段の一つであると考えられる。
 もちろん、このような功利主義というものが、公権力を行使する政府に対してであればともかく、皇室に対して振り向けることの妥当性や、不毛性の問題はある。
 ただ、知的に論破するということは非常に困難であり、感性に訴えることによる共感、納得を得るということで対抗するしかないのではないか。
 筆者としては、外国ご訪問に対して、皇室の本来の務めではないということを、偉そうに言う人に対しては、それでは功利主義的な考え方に対して、如何に説得するのか、説得の努力をしているのかということを、問うてみたいところである。
 一方、外国ご訪問について、安易に賛成する者に対しても、筆者としては、違和感を覚える。
 皇室の外国ご訪問が、ある程度の効果をもたらすのは、外国において、皇室が特別な存在であると認識されていることに由来する。
 外国ご訪問を歓迎する者にとって、皇室は、国内においては、その存在意義があまり認識されていないのに対し、海外においては認識されているという、何とも奇妙な状態について、何も疑問を抱かないのかということを問うてみたい。
 皇室の外国ご訪問について、どのような立場に立つにせよ、まずは、国内における皇室の存在意義に対する国民の意識、これをどのように捉えるかという整理がなければ、空虚なものと言わざるを得ないと思われるのだ。
 皇太子殿下においては、まさに当事者であるから、空虚だなではすまされないところだろう。
 非常にお気の毒なお立場ではないだろうか。
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