文芸春秋三月特別号に皇室特集として、様々な方の記事が掲載されている。
まず、福田和也氏の「天皇と皇太子 父子相克の宿命」と題する記事がある。
昨年末の天皇陛下のお誕生日での文書回答にスポットを当て、皇室において、父と子の間の軋轢があるとし、それをまた、疎開世代と高度経済成長時代の恵みを享受してきた世代の違いと重ね合わせて、なかなかドラマチックに論じている。
ここでいうドラマチックというのは、要する悲観的ということなのであるが、ただ、このように論じてみたところで、一体何の意味があるのだろうというのが、正直な感想であった。
息子に対する父の厳しさというものは、決して敵に対する攻撃ではないのである。厳しく接することがあっても、一方で、それを克服することを望むものなのではないか。父として、息子のやり方が、仮に将来にわたって容認できないものであったとしても、一方で、やはり自分なりの信念に基づいて、自分の道を見つけて欲しいと願うものなのではないか。
形ばかり自分の模倣をし、それで何の疑問も持たないようでは、それではやっぱり、寂しいはずである。
今の皇室の状況について、父と子との相克という要素があるとしても、悲観的にばかり捉えていたのでは、不十分であるし、意味がないのである。
福田氏の記事の末尾にて、「疎開世代の、父祖の偉業が灰燼に帰する光景を瞼に焼きつけた視線、その覚悟の深さ・・・・・の前で、皇太子の世代はいかにもひ弱い」とあり、これは福田氏自身の告白のようでもあり、何となく同情もしてしまうのだが、そのような情けないドラマを皇太子殿下に当てはめてしまうのは、如何なものかと思う。
次に目に付いたものとして、朝日新聞岩井克巳氏の「雅子妃を抱きしめた皇后さま」と題する記事がある。岩井氏の今回の記事については、何が言いたいのかよく分からない。どうも、理念なきウォッチャーとしての視点に立った記事であるように感じられた。
ただ、注意を要する箇所もある。
「皇室は批判に耐えるものでなければならない。隠さねばならないものを抱えた皇室をだれが敬愛するだろうか」という主張である。
よくそういうことが言えるなと、呆れてしまう。
一般に、ものの在り方についての哲学というものは、それぞれの置かれた立場に応じて、抱くべき内容が異なるのではないだろうか。
皇室のお立場においては、「皇室は批判に耐えるものでなければならない」という哲学を有するべきであることは、正論ではあろう。
しかし、メディアの立場にある者がそれを言うのは、盗人猛々しいというべき話である。皇室におかれては、そのような哲学をお持ちになるとして、一方、メディア、国民の立場としては、そのような皇室に対して、敬う、大切にするという哲学こそが、必要になるはずなのである。
このように批判ばかりをしているが、長谷川三千子氏の「雅子さまの困難な道のり」と題する記事は、実に素晴らしいものだ。
冒頭に、「この「文芸春秋」でも、何度か今回のようなテーマの特集が組まれ、その中には、静かに耳を傾けるべき貴重な意見もいくつか語られていた。しかし、それらはみな、言ふならばミソクソ一緒の構成のうちに埋もれて、ただあてどのない蝿の羽音としてしか響かないのである」などと書いてる。
実に痛快である。
記事中においては、「祈り」ということの本質的な意味が、詳しく説明されている。
「祈り」といっても、意味が分かるようでいて、改めて考えると、なかなかよく分からないものであるかもしれない。日常的には、口先だけの「祈り」が言われることもある。一般には、あまり意味のないものと思われている傾向があるかもしれない。
しかしながら、人間というものは、多分に精神的な存在である。
世の中には、どうすることもできない困難な問題というものが、しばしばあるものである。そのようなとき、たとえ、実質的な解決を与えてくれるものではなくても、自身のためにひたすらに祈ってくれる存在があるということは、大きな救いである。
かつての天皇についても、天変地異を自分自身の責任であるとして非常に悩まれ祈られる様子が、記紀にも書かれている。
このような話について、現代人として、科学的に考えれば不合理であるかもしれないが、心の世界の問題としては、大いに意味があったのである。
記事中の「われわれはいまのこの世の中を、かなり絶望的な世の中だと思っている。けれども、もしもこの世からかうした祈りが奪い去られたら、それどころではない本当の絶望の世をわれわれは知ることになるであろう」という主張には、全く同感である。
このような主張をしてくださる方がいらしたことについては、筆者としても、とても嬉しい。
まず、福田和也氏の「天皇と皇太子 父子相克の宿命」と題する記事がある。
昨年末の天皇陛下のお誕生日での文書回答にスポットを当て、皇室において、父と子の間の軋轢があるとし、それをまた、疎開世代と高度経済成長時代の恵みを享受してきた世代の違いと重ね合わせて、なかなかドラマチックに論じている。
ここでいうドラマチックというのは、要する悲観的ということなのであるが、ただ、このように論じてみたところで、一体何の意味があるのだろうというのが、正直な感想であった。
息子に対する父の厳しさというものは、決して敵に対する攻撃ではないのである。厳しく接することがあっても、一方で、それを克服することを望むものなのではないか。父として、息子のやり方が、仮に将来にわたって容認できないものであったとしても、一方で、やはり自分なりの信念に基づいて、自分の道を見つけて欲しいと願うものなのではないか。
形ばかり自分の模倣をし、それで何の疑問も持たないようでは、それではやっぱり、寂しいはずである。
今の皇室の状況について、父と子との相克という要素があるとしても、悲観的にばかり捉えていたのでは、不十分であるし、意味がないのである。
福田氏の記事の末尾にて、「疎開世代の、父祖の偉業が灰燼に帰する光景を瞼に焼きつけた視線、その覚悟の深さ・・・・・の前で、皇太子の世代はいかにもひ弱い」とあり、これは福田氏自身の告白のようでもあり、何となく同情もしてしまうのだが、そのような情けないドラマを皇太子殿下に当てはめてしまうのは、如何なものかと思う。
次に目に付いたものとして、朝日新聞岩井克巳氏の「雅子妃を抱きしめた皇后さま」と題する記事がある。岩井氏の今回の記事については、何が言いたいのかよく分からない。どうも、理念なきウォッチャーとしての視点に立った記事であるように感じられた。
ただ、注意を要する箇所もある。
「皇室は批判に耐えるものでなければならない。隠さねばならないものを抱えた皇室をだれが敬愛するだろうか」という主張である。
よくそういうことが言えるなと、呆れてしまう。
一般に、ものの在り方についての哲学というものは、それぞれの置かれた立場に応じて、抱くべき内容が異なるのではないだろうか。
皇室のお立場においては、「皇室は批判に耐えるものでなければならない」という哲学を有するべきであることは、正論ではあろう。
しかし、メディアの立場にある者がそれを言うのは、盗人猛々しいというべき話である。皇室におかれては、そのような哲学をお持ちになるとして、一方、メディア、国民の立場としては、そのような皇室に対して、敬う、大切にするという哲学こそが、必要になるはずなのである。
このように批判ばかりをしているが、長谷川三千子氏の「雅子さまの困難な道のり」と題する記事は、実に素晴らしいものだ。
冒頭に、「この「文芸春秋」でも、何度か今回のようなテーマの特集が組まれ、その中には、静かに耳を傾けるべき貴重な意見もいくつか語られていた。しかし、それらはみな、言ふならばミソクソ一緒の構成のうちに埋もれて、ただあてどのない蝿の羽音としてしか響かないのである」などと書いてる。
実に痛快である。
記事中においては、「祈り」ということの本質的な意味が、詳しく説明されている。
「祈り」といっても、意味が分かるようでいて、改めて考えると、なかなかよく分からないものであるかもしれない。日常的には、口先だけの「祈り」が言われることもある。一般には、あまり意味のないものと思われている傾向があるかもしれない。
しかしながら、人間というものは、多分に精神的な存在である。
世の中には、どうすることもできない困難な問題というものが、しばしばあるものである。そのようなとき、たとえ、実質的な解決を与えてくれるものではなくても、自身のためにひたすらに祈ってくれる存在があるということは、大きな救いである。
かつての天皇についても、天変地異を自分自身の責任であるとして非常に悩まれ祈られる様子が、記紀にも書かれている。
このような話について、現代人として、科学的に考えれば不合理であるかもしれないが、心の世界の問題としては、大いに意味があったのである。
記事中の「われわれはいまのこの世の中を、かなり絶望的な世の中だと思っている。けれども、もしもこの世からかうした祈りが奪い去られたら、それどころではない本当の絶望の世をわれわれは知ることになるであろう」という主張には、全く同感である。
このような主張をしてくださる方がいらしたことについては、筆者としても、とても嬉しい。