落書き帳

皇室評論家って、つまらない奴ばかりなので
専門家とか、ホントに?

「現在」における男系男子論の本質

2005-06-19 23:49:38 | 皇室の話
皇位継承の在り方につき、筆者は、女系容認に傾きつつある。ただ、そのように自覚すればするで、男系男子についての未練のようなものを感じてしまう。
この未練とは、一体何なのであろうか。
そこで、今回は、男系男子論について、改めて考えてみることにした。
そもそも、男系男子ということに、どのような意味があるのだろうか。
この点については、既存の議論では十分に解明されていないようであり、推測するしかないのであるが、以下のように考えることができよう。
まず、世襲制というものが存在する社会においては、何故に世襲制が人々に支持されるのであろうか。
それは、君主たる者の特徴を、最も多く受け継いでいるのが、その子であるという考え方によるのであろう。太古において、人々に遺伝の知識は無かったにせよ、子が親に似るということは、ごく自然に認識されていたであろうし、また、遺伝ということのほか、親と子が共に暮らすことにより受け継がれる後天的な資質ということも重要であったろう。
そして、この世のあらゆるものが、世代から世代へと、親から子に受け継がれるものであろうという意識が強い社会においては、君主たる者の特徴を最も受け継いでいるはずの子にこそ、その資格の継承が認められることとなったであろう。
ここで、男系男子ということについては、先天的資質が男系によって多く受け継がれるという観念によるものであったかもしれない。
また、あるいは、後継者を多く確保するという必要性から、一夫多妻制が採用され、その結果、血の継承における女性の個性が希薄化したということもあったかもしれない。
以上については、今までに何度か述べてきたことである。
さらに、ほかの理由としては、政争を生き抜くためといった実際上の要請もあったであろう。
ただ、このように考えてみると、これら、男系男子でなければならないとする要因については、現在、かなり軽減されてきていると言えないだろうか。
まず、親から子への特徴の継承という点では、男系だけに限る必然性はあるまい。Y染色体に着目する議論もあるが、Y染色体自身の遺伝情報というものはかなり乏しいものであり、特徴の継承という点では意味はないものである。また、太古の人々にY染色体の知識があるはずはなく、太古より受け継がれてきた男系男子の意味の解明ということとは、無関係の議論であろう。
また、現在の皇室では、側室は認められなくなっており、このことは今後も維持されるであろうから、一夫多妻制における女性の没個性化という事情はなくなっている。
さらに、天皇の地位に関しては、象徴天皇制ということが確立しており、政争の渦中において対応をせまられるということも無くなったと言える。
このように考えてみると、男系男子でなければならないとする根拠は、かなり弱くなったと言えるのではないだろうか。
ただ、そうであるからといって、簡単に男系男子に意味がないと言えるかとなると、どうもそういうことにはならないようである。
冒頭に述べた筆者の未練ということも、ここに関係している。
改めて、「現在」の男系男子論を見てみると分かると思うのだが、そこには、男系男子ということがどのように始まったのか、男系男子にどのような意味があるのかということは論じられていない。論者の多くは、そういうことは問題にしていないようなのだ。論じられているのは、もっぱら、男系男子が125代続いてきたという歴史的な重みの強調である。
これは、一見、怠惰な研究姿勢の表れのように見えなくもないが、実は、ここにこそ、現在の男系男子論の本質が表れている。それは、すなわち、皇室というご存在の意義、皇室と日本人との関係ということとは、次元の異なる価値観に基づくものであるということである。
なぜならば、男系男子ということが125代続いてきたという歴史的な重みであるが、それは、後代において、歴史が積み重なったことによって生まれた価値だからであり、後代という視点に立った価値だからである。
この価値を何よりも重視するというのは、例えれば、美というものに対する一種の執着のようなものであろうか。
このように書くとあまり大したことのない話のようであるが、これは、なかなか手強く恐ろしいものであると思う。
功利主義的な観点、また人権思想から批判することは簡単である。ただ、それらによっていくら批判しても、ビクともしないのである。
もともと、美というものの価値、人がそれに惹かれるということに、理由はないからである。
それ故に、手強い。
また、その恐ろしさというのは、必ずしも人間的な価値を志向していないということである。むしろ、逆に、人間的な価値というものを自らに奉仕させることを求めるという特質があるようである。分かり易く言えば、それに払う人々の犠牲が多ければ多いほど、その価値が高まってしまうという特質があるということである。かつての女性天皇たちが如何に自らの人生を犠牲にして男系を守ってきたかということについて、男系男子論者により、美しい話として紹介されることがあるが、それはまさにこのことを裏付けていよう。
そして、恐ろしければ捨ててしまえばよいのであろうが、人間の宿命的な性質として、そのような美というものへの執着は捨てきることもできないのであろう。
これは、いい加減に扱えば、手痛いしっぺ返しを受けることになる。しっぺ返しで済めばいいが、致命的なダメージになる可能性もあり得る。例えば、日本という国の価値が損なわれてしまったという絶望感の蔓延ということである。国家の在り方について何も考えていないような者には、あまり影響はないかもしれないが、真剣に考える者において、国家の運営を担うような者の間において、そのような絶望感が広まるとすれば、深刻である。
このような、伝統の積み重なりの美しさに対する執着心の性質にかんがみて、国家の安定的な運営という観点から、男系男子を維持するべきという立論は、十分成り立つであろう。
男系男子論者といってもピンきりであるが、小堀桂一郎氏の論には、このことが自覚されているように感じられる。氏の主張する「道理」ということ、そして、「道理」の担い手は、皇室ではなくて、力ある賢明な臣下であるという認識、また、氏が、一般の国民ではなく政治家をその主張の相手先としている点など、まさにこのことの表れではないか。
したがって、女系容認に踏み切るのであれば、どうしても、それなりの覚悟が必要となるのである。まずは、男系男子で続いてきたことの伝統の重みを踏まえなければなるまい。そして、その伝統の重みに見合うだけの価値というものを見出し、それを踏まえる必要があるだろう。それは結局、皇室というご存在の意義、皇室と日本人との関係の本質を見極めるということにほかならないはずである。
コメント (4)
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