平成17年8月1日に,自民党の新憲法草案の条文案が公表された。
この中で,天皇の地位については,現在と同じく「象徴」とされ,「元首」であることの明記は,見送られることとなっている。
このことは,筆者としては,適切であったと考えている。
現在においても,対外的な関係においては「元首」として扱われているのであるから,敢えて「元首」と明記しなければならない実務上の不都合はないであろう。
明記することの意味としては,主に抽象的な,精神的なものであると思われるが,さて,それはどのようなものであろうか。
日本を民主主義国であるというだけでなく,君主国でもあるということを明らかにするということであろうか。
天皇の位置づけについて,「象徴」という,とらえどころのない曖昧なものではなく,「元首」という具体的な位置づけを与えたいということであろうか。
これらのことについては,筆者として,それなりの意義を感ずるところではあるが,ただ,逆に,「元首」という形を与えられてしまうと,天皇とはそもそもどのようなご存在であるのかという問いかけの契機が失われてしまうように感じられる。すなわち、天皇とは「元首」だということで,思考がストップしてしまうのではないかということである。
もっとも,現在でも,天皇とは「象徴」であるということで思考がストップしてしまっている者もいるかもしれないが,「象徴」という言葉は,「元首」という言葉と異なり,それ自体に中身のある言葉ではなく,関係性の中において始めて意味を有する言葉である。
すなわち,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」ということにおいて,「天皇」と「日本国」・「日本国民統合」ということとの関係性において成り立つ言葉なわけである。
したがって,「天皇」とはどのようなご存在であるかということを理解するためには,「日本国」・「日本国民統合」とはどういうことかを理解する必要があるし,その上で,それらと「天皇」とがどのような関係にあるのかを理解する必要があるのであって、「象徴」という言葉は、本来,そのような高級な問いかけを行っている言葉なわけである。
なお,8月2日付けの朝日新聞の朝刊において,桜井よし子氏が,「天皇制の記述も及び腰ではないか。天皇制が日本の文化・文明の核になってきたのは確かであり,その伝統をどのように引き継ぐのか。そのことを論じないといけないが,連合国軍総司令部(GHQ)による無味乾燥な天皇制の位置づけが,そのまま残っている印象がある」と述べている。
しかし,筆者としては,GHQの手による文章であったとしても,象徴規定については,実に良くできた表現であり,素直に見つめれば,天皇というご存在と日本の文化・文明との関係も含意されていると読むことができると思う。むしろ,そのような事柄を敢えて明記してしまうと,その途端に舌足らずになってしまうことになり,限定的な文言の中に矮小化してしまうことになってしまうのではないかと,筆者は思う。
ただ,この第1章の規定を見ると,根本的なことを考えないままに、技術的なマイナーチェンジを行ったに過ぎないという印象は拭えない。
第4条において,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行い」とあり,相変わらず「国事に関する行為のみ」とあるのだが,これはいかがなものか。せめて,「のみ」だけでも削ったらどうなのか。
天皇陛下のご公務について,国事行為に限られないことは,すでに周知のところであろう。限られないどころか,象徴としてのお立場でなされるご公務は,非常に多くなっているではないか。
国家というものが関わる範囲としては,公権力の行使に関わる部分だけではないはずであり,そのような部分以外でのフォーマルな部分が皇室に託されているのだということを,認めるべきなのではないのか。
もっとも,これを認めるとしても,積極的な規定にはやはりなじまないであろうから,筆者としては,せめて,「国事に関する行為のみ」の「のみ」を削ったらどうかと考えるわけである。
若干、印象的なのは、第8条において、「法律で定める場合を除き」という文言が加わったことである。具体的な議論は「法律」の中身に委ねられることになるが、国会の議決が必要なもの、必要でないものの線引きが整理されることが期待される。
この中で,天皇の地位については,現在と同じく「象徴」とされ,「元首」であることの明記は,見送られることとなっている。
このことは,筆者としては,適切であったと考えている。
現在においても,対外的な関係においては「元首」として扱われているのであるから,敢えて「元首」と明記しなければならない実務上の不都合はないであろう。
明記することの意味としては,主に抽象的な,精神的なものであると思われるが,さて,それはどのようなものであろうか。
日本を民主主義国であるというだけでなく,君主国でもあるということを明らかにするということであろうか。
天皇の位置づけについて,「象徴」という,とらえどころのない曖昧なものではなく,「元首」という具体的な位置づけを与えたいということであろうか。
これらのことについては,筆者として,それなりの意義を感ずるところではあるが,ただ,逆に,「元首」という形を与えられてしまうと,天皇とはそもそもどのようなご存在であるのかという問いかけの契機が失われてしまうように感じられる。すなわち、天皇とは「元首」だということで,思考がストップしてしまうのではないかということである。
もっとも,現在でも,天皇とは「象徴」であるということで思考がストップしてしまっている者もいるかもしれないが,「象徴」という言葉は,「元首」という言葉と異なり,それ自体に中身のある言葉ではなく,関係性の中において始めて意味を有する言葉である。
すなわち,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」ということにおいて,「天皇」と「日本国」・「日本国民統合」ということとの関係性において成り立つ言葉なわけである。
したがって,「天皇」とはどのようなご存在であるかということを理解するためには,「日本国」・「日本国民統合」とはどういうことかを理解する必要があるし,その上で,それらと「天皇」とがどのような関係にあるのかを理解する必要があるのであって、「象徴」という言葉は、本来,そのような高級な問いかけを行っている言葉なわけである。
なお,8月2日付けの朝日新聞の朝刊において,桜井よし子氏が,「天皇制の記述も及び腰ではないか。天皇制が日本の文化・文明の核になってきたのは確かであり,その伝統をどのように引き継ぐのか。そのことを論じないといけないが,連合国軍総司令部(GHQ)による無味乾燥な天皇制の位置づけが,そのまま残っている印象がある」と述べている。
しかし,筆者としては,GHQの手による文章であったとしても,象徴規定については,実に良くできた表現であり,素直に見つめれば,天皇というご存在と日本の文化・文明との関係も含意されていると読むことができると思う。むしろ,そのような事柄を敢えて明記してしまうと,その途端に舌足らずになってしまうことになり,限定的な文言の中に矮小化してしまうことになってしまうのではないかと,筆者は思う。
ただ,この第1章の規定を見ると,根本的なことを考えないままに、技術的なマイナーチェンジを行ったに過ぎないという印象は拭えない。
第4条において,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行い」とあり,相変わらず「国事に関する行為のみ」とあるのだが,これはいかがなものか。せめて,「のみ」だけでも削ったらどうなのか。
天皇陛下のご公務について,国事行為に限られないことは,すでに周知のところであろう。限られないどころか,象徴としてのお立場でなされるご公務は,非常に多くなっているではないか。
国家というものが関わる範囲としては,公権力の行使に関わる部分だけではないはずであり,そのような部分以外でのフォーマルな部分が皇室に託されているのだということを,認めるべきなのではないのか。
もっとも,これを認めるとしても,積極的な規定にはやはりなじまないであろうから,筆者としては,せめて,「国事に関する行為のみ」の「のみ」を削ったらどうかと考えるわけである。
若干、印象的なのは、第8条において、「法律で定める場合を除き」という文言が加わったことである。具体的な議論は「法律」の中身に委ねられることになるが、国会の議決が必要なもの、必要でないものの線引きが整理されることが期待される。