令和6年5月17日、八幡和郎氏による夕刊フジの「安定的な皇位継承めぐる議論を「旧宮家養子案」の重要性 女系派の悪質さ 一度皇族でなくなった人の子孫復帰を「憲法違反」と主張」と題する記事が配信されている。
「女系派の悪質さ」といった表現を用いているので、自身は男系派なのだろう。
ただ、男系派の論客として、八木秀次氏、新田均氏、百地章氏といった方々がおり、筆者とは考え方も違うのだが、それぞれ思想をお持ちの方々だということは良くわかる。
ただ、八幡氏の記事は、これまでにも見たことはあるものの、あまり思想のようなものが感じられない。
安倍系保守を応援したいようだということは何となく感じられるが、論じている内容は屁理屈のレベルにもなっていないような気がする。
----引用開始----
誤解があるが、いま議論されているのは、「愛子天皇」の是非ではない。すでに法律で、秋篠宮殿下を皇太子とまったく同格の皇嗣殿下とすると定め、立皇嗣礼まで行われている。皇太子が空席というのは不適切だ。議論は悠仁さまに男子がいないときのためのものだ。
----引用終了----
これはすごく変な文章だ。
「誤解があるが、いま議論されているのは、「愛子天皇」の是非ではない。」というのは、「皇位継承の問題と切り離して、皇族数の確保を図ること」というのが有識者会議の報告などの建前であるから、そこまでは分かる。
しかしながら、それに続く内容は、皇位継承のことばかりである。
そして、最後に「議論は悠仁さまに男子がいないときのためのものだ。」とあるのだが、ここでいう「議論」とは何の議論なのか。
「皇位継承の問題と切り離して、皇族数の確保を図ること」という建前の下、「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること」も方策として議論することになっているはずであり、それは、女性皇族が結婚して次々と皇籍を離脱しているという現状を踏まえた問題意識のはずであり、「悠仁さまに男子がいないときのため」といった将来の話ではないはずである。
したがって、「議論は悠仁さまに男子がいないときのためのものだ。」でいうところの「議論」とは皇位継承の問題以外ではあり得ない。
「誤解があるが、いま議論されているのは、「愛子天皇」の是非ではない。」と述べて、皇位継承の問題と切り離したものであると主張しつつ、結局、本音は皇位継承の問題で男系継承を確保したいということなのである。
こういうのは、文章で確認すれば、このようにおかしいということは分かるのだが、耳で聞いているだけだと、気がつかずに流されてしまうかもしれない。
まるで詐欺師の口上のようだ、というのは言い過ぎであろうか。
また、以下の箇所がある。
----引用開始----
女系派の主張で一番悪質なのは、一度皇族でなくなった人の子孫の皇族復帰を憲法違反として根絶したがっていることだ。
女系派は「悠仁さま、佳子さま、愛子さまの女系子孫にも皇位継承権を認めたら皇統は維持できる」と言うが、何世代か後には断絶している可能性が何割かある。それでは、天皇制廃絶となってしまう。女系を認める場合でも、旧宮家の復帰も必要なのだ。
----引用終了----
まず、「女系派の主張で一番悪質なのは、一度皇族でなくなった人の子孫の皇族復帰を憲法違反として根絶したがっていることだ。」という箇所なのであるが、女系派としての共通の見解のようなものがあるのかどうかは、筆者には分からない。
ただ、「一度皇族でなくなった人の子孫の皇族復帰」について、筆者としても憲法上の論点があると思っている。
現行憲法上、第2条で皇位の世襲を認めているのだから、天皇と一定の親族関係にある者を皇族として、特別な身分であるとしても第14条の平等原則の例外として許容されるというところまでは皇室制度に関する議論の基本である。
ただ、特別な身分が認められるのは、皇室の範囲内の方々についてであって、皇室外の国民は全て平等というのが、これまでの整理だったのではないか。
そして、「一度皇族でなくなった人の子孫の皇族復帰」という方策の具体的な内容なのであるが、旧宮家の男系男子の子孫のみ、皇族と養子縁組をすることで皇族となることを可能とするということであれば、現在国民である者の中に、養子縁組により皇族となることができる集団を作り出すということであり、その集団と集団外の違いは血統で決まるということになるのだから、これは明らかに憲法第14条で禁ずる「門地」による差別なのではないだろうか。
こういう疑問というのは、女系派ではなくとも、憲法を学んだことのある者なら当然に抱く疑問であると思うのだが、どのようにクリアするのだろう。
しかし、八幡氏は、「憲法違反として根絶したがっていることだ」といって、てっきり合憲性の論証を始めるのかと思いきや、それに続く文章は「女系を認める場合でも、旧宮家の復帰も必要なのだ。」という、法論理的な反論ではなく、現実論による反論なのである。
それにしても、この現実論による反論は、反論たり得ているのだろうか。
何より断絶の危機をもたらしているのは男系男子への固執なのであり、そのことを認めることなく、女系でも断絶する可能性があるではないかというのは、何というか、その場限りの口げんかなら有効かもしれないが、本質的な議論とは言いがたいと思う。
現実論ということで考えるならば、
男系男子に固執することにより、現皇室の範囲ではそれが維持することが難しいということで、旧宮家の男系男子の子孫にまで広げるとする。
しかし、あくまで男系男子に拘る限り、旧宮家の男系男子の子孫はいずれ断絶する可能性が高いのではないか。
であれば、結局、女系継承も認める必要が生じる。
ということになるのではないだろうか。
また、以下の箇所がある。
----引用開始----
また、「希望者はいるのか」と言う人がいるが、旧宮家の人々の最大公約数的意見は、「自分たちが希望する話でないが、頼まれたら最終的にはお受けするしかない」ということである。
----引用終了----
「旧宮家の人々の最大公約数的意見は」とあるのだが、これを読むと、旧宮家の人々に、希望する、希望しない,お受けする、お受けしないという何等かの意見表明があり、その中でもっとも多くの意見表明が「「自分たちが希望する話でないが、頼まれたら最終的にはお受けするしかない」ということであったというように感じられてしまう。
しかしながら、ほとんどの人々が無回答であり、ごく僅かの人々、仮に1人でも「「自分たちが希望する話でないが、頼まれたら最終的にはお受けするしかない」と述べれば、最大公約数的意見はそうであったというふうにも言えてしまう。
この質問で重要なのは、「「希望者はいるのか」ということで、そこで問われているのは、そういう制度に応じる人がどれくらいいるのかということであり、人数の規模を答えないと答えたことにはならない。
ただ、そのようには答えず、意見の内容の方に話を移して、「最大公約数的」という表現で規模感を出しているように繕う。
これは、本当にね、巧妙な詐欺師の口上、というしかないのではないか。
こうやって、文章で分析すると、おかしいということは確認できるのだが、口頭でのやり取りであると、何となく説得された感じになってしまうかもしれない。
なかなか恐ろしいことである。
才能と言えば才能なのだろう。
こういう八幡氏の巧妙な詐欺師の口上ということに自覚的であれば、その言論(と言い得るかは疑問であるが)を分析するというのも、面白いものであるのかもしれない。
しかし筆者は思うのだが、こういう八幡氏の主張を読んで、男系派の立場で少し応援された気持ちになり、幾分心地よくなったとして、それでどれほどの意義があるというのだろうか。
皇室のあり方の議論については、その言説に巧妙さはなくとも、魂のこもった主張こそを読んでみたいものである。
「女系派の悪質さ」といった表現を用いているので、自身は男系派なのだろう。
ただ、男系派の論客として、八木秀次氏、新田均氏、百地章氏といった方々がおり、筆者とは考え方も違うのだが、それぞれ思想をお持ちの方々だということは良くわかる。
ただ、八幡氏の記事は、これまでにも見たことはあるものの、あまり思想のようなものが感じられない。
安倍系保守を応援したいようだということは何となく感じられるが、論じている内容は屁理屈のレベルにもなっていないような気がする。
----引用開始----
誤解があるが、いま議論されているのは、「愛子天皇」の是非ではない。すでに法律で、秋篠宮殿下を皇太子とまったく同格の皇嗣殿下とすると定め、立皇嗣礼まで行われている。皇太子が空席というのは不適切だ。議論は悠仁さまに男子がいないときのためのものだ。
----引用終了----
これはすごく変な文章だ。
「誤解があるが、いま議論されているのは、「愛子天皇」の是非ではない。」というのは、「皇位継承の問題と切り離して、皇族数の確保を図ること」というのが有識者会議の報告などの建前であるから、そこまでは分かる。
しかしながら、それに続く内容は、皇位継承のことばかりである。
そして、最後に「議論は悠仁さまに男子がいないときのためのものだ。」とあるのだが、ここでいう「議論」とは何の議論なのか。
「皇位継承の問題と切り離して、皇族数の確保を図ること」という建前の下、「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること」も方策として議論することになっているはずであり、それは、女性皇族が結婚して次々と皇籍を離脱しているという現状を踏まえた問題意識のはずであり、「悠仁さまに男子がいないときのため」といった将来の話ではないはずである。
したがって、「議論は悠仁さまに男子がいないときのためのものだ。」でいうところの「議論」とは皇位継承の問題以外ではあり得ない。
「誤解があるが、いま議論されているのは、「愛子天皇」の是非ではない。」と述べて、皇位継承の問題と切り離したものであると主張しつつ、結局、本音は皇位継承の問題で男系継承を確保したいということなのである。
こういうのは、文章で確認すれば、このようにおかしいということは分かるのだが、耳で聞いているだけだと、気がつかずに流されてしまうかもしれない。
まるで詐欺師の口上のようだ、というのは言い過ぎであろうか。
また、以下の箇所がある。
----引用開始----
女系派の主張で一番悪質なのは、一度皇族でなくなった人の子孫の皇族復帰を憲法違反として根絶したがっていることだ。
女系派は「悠仁さま、佳子さま、愛子さまの女系子孫にも皇位継承権を認めたら皇統は維持できる」と言うが、何世代か後には断絶している可能性が何割かある。それでは、天皇制廃絶となってしまう。女系を認める場合でも、旧宮家の復帰も必要なのだ。
----引用終了----
まず、「女系派の主張で一番悪質なのは、一度皇族でなくなった人の子孫の皇族復帰を憲法違反として根絶したがっていることだ。」という箇所なのであるが、女系派としての共通の見解のようなものがあるのかどうかは、筆者には分からない。
ただ、「一度皇族でなくなった人の子孫の皇族復帰」について、筆者としても憲法上の論点があると思っている。
現行憲法上、第2条で皇位の世襲を認めているのだから、天皇と一定の親族関係にある者を皇族として、特別な身分であるとしても第14条の平等原則の例外として許容されるというところまでは皇室制度に関する議論の基本である。
ただ、特別な身分が認められるのは、皇室の範囲内の方々についてであって、皇室外の国民は全て平等というのが、これまでの整理だったのではないか。
そして、「一度皇族でなくなった人の子孫の皇族復帰」という方策の具体的な内容なのであるが、旧宮家の男系男子の子孫のみ、皇族と養子縁組をすることで皇族となることを可能とするということであれば、現在国民である者の中に、養子縁組により皇族となることができる集団を作り出すということであり、その集団と集団外の違いは血統で決まるということになるのだから、これは明らかに憲法第14条で禁ずる「門地」による差別なのではないだろうか。
こういう疑問というのは、女系派ではなくとも、憲法を学んだことのある者なら当然に抱く疑問であると思うのだが、どのようにクリアするのだろう。
しかし、八幡氏は、「憲法違反として根絶したがっていることだ」といって、てっきり合憲性の論証を始めるのかと思いきや、それに続く文章は「女系を認める場合でも、旧宮家の復帰も必要なのだ。」という、法論理的な反論ではなく、現実論による反論なのである。
それにしても、この現実論による反論は、反論たり得ているのだろうか。
何より断絶の危機をもたらしているのは男系男子への固執なのであり、そのことを認めることなく、女系でも断絶する可能性があるではないかというのは、何というか、その場限りの口げんかなら有効かもしれないが、本質的な議論とは言いがたいと思う。
現実論ということで考えるならば、
男系男子に固執することにより、現皇室の範囲ではそれが維持することが難しいということで、旧宮家の男系男子の子孫にまで広げるとする。
しかし、あくまで男系男子に拘る限り、旧宮家の男系男子の子孫はいずれ断絶する可能性が高いのではないか。
であれば、結局、女系継承も認める必要が生じる。
ということになるのではないだろうか。
また、以下の箇所がある。
----引用開始----
また、「希望者はいるのか」と言う人がいるが、旧宮家の人々の最大公約数的意見は、「自分たちが希望する話でないが、頼まれたら最終的にはお受けするしかない」ということである。
----引用終了----
「旧宮家の人々の最大公約数的意見は」とあるのだが、これを読むと、旧宮家の人々に、希望する、希望しない,お受けする、お受けしないという何等かの意見表明があり、その中でもっとも多くの意見表明が「「自分たちが希望する話でないが、頼まれたら最終的にはお受けするしかない」ということであったというように感じられてしまう。
しかしながら、ほとんどの人々が無回答であり、ごく僅かの人々、仮に1人でも「「自分たちが希望する話でないが、頼まれたら最終的にはお受けするしかない」と述べれば、最大公約数的意見はそうであったというふうにも言えてしまう。
この質問で重要なのは、「「希望者はいるのか」ということで、そこで問われているのは、そういう制度に応じる人がどれくらいいるのかということであり、人数の規模を答えないと答えたことにはならない。
ただ、そのようには答えず、意見の内容の方に話を移して、「最大公約数的」という表現で規模感を出しているように繕う。
これは、本当にね、巧妙な詐欺師の口上、というしかないのではないか。
こうやって、文章で分析すると、おかしいということは確認できるのだが、口頭でのやり取りであると、何となく説得された感じになってしまうかもしれない。
なかなか恐ろしいことである。
才能と言えば才能なのだろう。
こういう八幡氏の巧妙な詐欺師の口上ということに自覚的であれば、その言論(と言い得るかは疑問であるが)を分析するというのも、面白いものであるのかもしれない。
しかし筆者は思うのだが、こういう八幡氏の主張を読んで、男系派の立場で少し応援された気持ちになり、幾分心地よくなったとして、それでどれほどの意義があるというのだろうか。
皇室のあり方の議論については、その言説に巧妙さはなくとも、魂のこもった主張こそを読んでみたいものである。