2月24日(木)14時、いとこの兄ちゃんから電話が来ました。
「親父が倒れて病院運ばれたよ。直ぐに来い・・・。」
予定をすべてキャンセルして、新幹線で田舎の山形県新庄市に向かいました。
新庄駅には22時30分ごろ着き、病院へ直行・・・。
姉が先についていて、「親父は脳内出血がひどく、手術が出来ない。」
意識が無く呼吸だけが、激しくしている、時よりタンを絡ませて苦しそうに・・・。
「せめて意識が戻って、一言だけでも、目を開けて」、姉と願っておりましたが、
2月25日(金)午前3時20分、息をひきとりました。
親父の人生
16歳の時に時計屋に入社して、時計の修理を定年までの44年間続け、
仕事一筋で生きてきた親父は、定年後も自宅で時計の修理を行っておりました。
そんな親父を支えてきたおふくろと、定年後は二人で旅行などで楽しく老後を、
と思っていた時に、おふくろのアルツファイマー病が発症してしまいました。
親父はおふくろの病から逃げることなく、「今まで俺を支えてくれたのだから、
これからは俺が支える。」と言って、おふくろの病気に立ち向かいました。
食事の準備や下の世話、お風呂に入れたり、時には徘徊で捜し回ったり
夜中に起きて寝られなかったり、親父はおふくろの為に文句一つ言わずに、
6年間看病したのですが、病状は良くならず完全に寝たきりになってしまい、
施設に入れて頂くことにしました。
「親父、千葉に来ないか・・・?」
親父は「親戚や友達、おふくろもみんな新庄に居るからここに暮らすよ。」
親戚の田植えや稲刈りを手伝ったり、親戚の人と色々な所へ旅行に行ったり。
町内会の区長を引き受けたり、老人会に入り積極的に旅行やカラオケ
グランドゴルフ、卓球、輪投げなどに参加して、親父の回りにはいつも
人がおりました。
親父は自分の為よりも、人の為に自分を犠牲にしてまで生きていたんだな、
とお通夜と告別式の参列者の数、参列者からの声であらためてわかりました。
「お父さんにはいつもお世話になっていたんだ。」
「雪投げしてもらったり、旅行へ連れて行ってもらったり、病院へ連れて行って
もらったり、いろいろな事をしてもらったんだよ。」
「人」は字のごとく、「ノ」一人では生きられません、いろいろな場面で「ヽ」
支えがあるから「人」でいられるのです。
親父は多くの人に支えられ、そして多くの人を支えて、楽しい人生を最後まで
送っていたんだな・・・。
親父の人生は「人」が生きる為の素晴らしい手本だと思います。
「尊敬するよ親父」
私も親父に負けない人生を送ることを、親父と約束しました。
二戸 堅一