何かしてます。

 無職だって退屈してません。「何か」してます。「何か」ってなんだ?

兄貴の命日

2010年07月06日 23時02分35秒 | 冠婚葬祭
 今日は、兄貴の命日です。義姉と弟夫婦と私の4人でお墓参りに行ってきました。

          

 『兄貴の亡くなる直前(9日前)に生まれた私の初孫が、満8歳になったな~
 そうか・・兄貴が死んでから、もう丸8年も経つのか!』

 などと月日の経過を実感しています。

 ところで最近、今日のように残された兄弟が顔を合わせたときは、たいていお食事会をしながら四方山話などをして楽しいひと時を過ごしています。

 今日は、赤城山ろくにあるお蕎麦屋さんに寄りました。

 食事代は、弟夫婦が持ちました。
 自営業で現在もがっちり?稼いでいる弟が率先しておごってくれます。
 寡婦になった義姉と年金生活の私は、大きな顔をしておごってもらっています。    

あつし君の結婚式

2010年06月12日 21時43分51秒 | 冠婚葬祭
 あつし君の結婚式が6月5日、横浜で執り行なわれました。
  心からお喜び申し上げます。お幸せに・・

 あつし君は、東側お隣の長男坊です。我が家の長女と同い年であることなどから小さいころから可愛がっていました。

 我が家の長男長女がそれぞれ片付いた後も、しばらくあつし君のことは聞かなかったので内心心配していました。

 我が家を代表して、お母さんが結婚式に招待されました。

お葬式

2010年04月03日 22時28分52秒 | 冠婚葬祭
茨城の『ひて』叔母さんが亡くなり、3月31日に葬儀が執り行われました。
 お母さんの義理の叔母さんに当たる方です。
 お母さんが育った家の隣に住み、幼いころのお母さん姉妹の面倒を見てくれ、今でも毎年おいしい魚を送ってくれました。
 ご冥福をお祈りします。


          

結婚式~決定的瞬間

2009年11月18日 12時01分40秒 | 冠婚葬祭
 甥の結婚式に参列した。(11月14日午後3時~)

ひたすら決定的瞬間を求めてシャッターを切った。
 
● 誓いの接吻
          

● 宙を舞うブーケ
          

● 新婦のお友達
          

● 新郎のお友達
          

● お祝いだから
          

納骨

2009年09月30日 11時10分03秒 | 冠婚葬祭
 去る9月26日、中居のかね叔母さんの納骨の法事が行われた。

 『大人ばかりの法事は、湿っぽくて堪らない。少しは明るい部分があっていいのではないか。』と考えるお母さんのアイディアで、『小1』と『5歳』の孫を連れて行った。

 孫たちはその役割をごく自然に果たしてくれ、しめやかな中にも明るさのある法事が執り行われました。
 
 叔母さんのご冥福を祈ります。

 

大往生

2009年08月21日 12時17分51秒 | 冠婚葬祭
 去る8月13日、中居のかね叔母さんが亡くなった。享年93歳だった。

 叔母さんは、かねてから「自分のことが自分でできなくなる前に、逝くからね。」と公言していました。
 亡くなる前日はいつもと同じように過ごし、自分で夕食を戴き、お風呂に入って、部屋を片付けてから就寝したそうです。

 翌朝、苦しんだ様子もなく安らかに、とてもいい顔で眠っていました。起こしても目が覚めることはなく、すでに冷たくなっていたそうです。

 まさに『大往生』でした。

 たまに会うと、なにかしら必ず『私のこと』を誉めてくれる叔母さんでした。
 ベットの部屋には、私どもの孫の写真がいっぱい張ってありました。

 8月15日、しめやかに葬儀が執り行われました。
 ご冥福をお祈りいたします。  

姉にも

2009年07月07日 12時40分53秒 | 冠婚葬祭
親父さんとお袋さんと兄貴の次に、嫁にいった姉のお墓参りをしました。
同じ嶺霊園にあります。

姉は、身体障害からくるストレス解消のため?晩年から煙草を吸うようになりました。

喫煙癖のある身内は、比較的早く亡くなっています。
私はともかく息子や孫たちは、この事実を『他山の石』としてもらいたいとおもっている。

枝切り

2009年07月06日 22時05分03秒 | 冠婚葬祭
昨年の彼岸に、みんなでお墓参りに来たとき、入り口の植木が大きく育ちすぎて出入りに邪魔になっていた。
「少し枝を切るか」などの話が出たが、私はそのまま忘れていた。
今日来てみると『写真のとおり』きれいに枝がきってあった。
誰が切ってくれたのだろう。?
感謝、感謝!

お線香代わり

2009年07月06日 16時38分55秒 | 冠婚葬祭
兄貴の命日を思いだし、手ぶらでお墓に飛んできた。
まず兄貴に煙草を供えた。末期のころ、見舞いに行くと「煙草を吸わせろ!」というような顔をしたのを思い出す。

次に親父にも煙草を供えた。胃潰瘍の手術のあと、「一番軽いから大丈夫!」と言い訳しながら『バット』を吸い始めたものでした。