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世界には発展途上の国が多くある。
国の経済活動を促す第一歩は、物流のインフラ整備であろう。
道路、橋、鉄道、港湾、空港、電源などが整わなければ
人も物も動けない。
それらが必要最小限度に揃うには、巨額の資金を要し、
建設計画はゆっくりしか進まない。
国作りにはとても時間がかかる。
順調にその計画が成っても、
それらは社会構築のほんの入り口に過ぎない。
世界に国風をアピールするには、何段階もの社会整備が必要だ。
かつて途上国を訪ねたおり、
幾つかの国の人々に言われたことがある。
日本は100年で経済大国になった、
大いに勇気づけられるという趣旨だ。
目標にしてもらうのはかまわないが、
内心それは大分に要素が違うよと、思ったものだ。
前提となる条件が抜け落ちているからだ。
その時点で、私が知り得た途上国、特にアフリカ諸国の一般の人々は、
計画とか効率とか、ものごとの流れ全体を察知する習慣を
学習していないようにみえた。
そうしたことを必要とする環境で過ごして来てないと思う。
彼らが言う日本の’100年発展’以前の数百年間の日本は、
封建社会であったはいえ、
独自の高度な社会構造をつくりあげている。
計画すること、具体化することの豊富な経験、
必要な技術の習得、経済や流通についての実績、文化力、
さらに教える、教わるという機会がすでに充分整っていたし、
つらなって社会的な一体感も醸成されていた。
過酷な階層の実態も経験している。
社会開発に必要なほとんどの条件を持っていた。
明治維新時代も、
焼け野原で大半の産業が機能不全状態であった大戦後も、
ゼロから再スタートしたと外国から見えたかも知れない。
だが、目には見えないもの、
社会建設に必要なものは持っていたのである。
根強い社会意識、教育水準、技術向上心などを尊ぶ気質である。
橋や道路や港湾など初期インフラの段階を、
一戸建てに例えるなら、どうにか家までの道路を作り、
安普請か堅牢かを問わず家を建てたとして、
それは雨露を凌ぐだけの初期的な条件を用意しただけだ。
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生活を充実させるには、
その何倍もの工夫と費用と時間が必要である。
玄関と居間の体裁を整えても、
家の内外に成すべきことはたくさんある。
家の外を整備しなければならないし、美しさも求められる。
日常生活の必需品や生活道具を揃え、
上水道、下水道、エネルギーも充足されて、
ゴミ処理や衛生対策など、安心できる環境を進めることが求められる。
住む町には公園や公共施設が充実して欲しい。
家の中では家族の穏やかに団らん出来る場所、食事も充実させたい。
生活の質向上を望むには、もっと資金や時間の積み重ねが必要になる。
その過程で日常的な作法が洗練され、ようやく、
家族の穏やかさや精神的な豊かさが満ちてくるのだろう。
そこまで至るには遥かな生活時間の積層が必要となってくる。
ローマは一日にして成らずである。
運輸手段やエネルギーなどの物理的、工業的インフラ整備は、
社会構築のほんの端緒でしかない。
その段階では、社会は未熟な赤子に過ぎない。
社会は、目的や使命や利害が絡み合った構造で成り立っている。
各層の軋轢を軽減し、全体として進化するには、
長い発酵期間が必要である。
1枚づつ布を重ねて、重厚な布に仕上げるように、
社会全体の点検や改善をし続けないと進化が鈍る。
そうして、
ようやく経済的、文化的な作法の整った社会の姿が見えてくる。
敷衍すれば、社会の成熟度が高まり文化の創出に至るには、
何十段階もの社会的な試行錯誤の歴史が要ることが見えてくる。
社会の成熟は、ハードとソフトの両面の積層で成し遂げられていく。
それはバランス良く積み重ね続けなければならない。
積み重ねを怠ると、
いわば加水分解が起きるようにその積層がみるみる劣化していく。
どの国にあっても社会開発には停滞がない。荒廃か、進化か。
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文化の形成の一つに異文化の消化力があるだろう。
それを培うには学問の蓄積が要る。
弱者救済の社会的公平と質量のあり様は、
その社会の成熟度と比例する。
ごみ処理能力はその国の先進レベルの物差しになる。
弱者救済のレベルでその社会の成熟度が計れる。
制度の目標と実態の乖離こそ、概ねその社会の実像である。
教育の成果を社会が得るには100年の醸成が必要である。
その成果は容易なことでは剥がれない。
異文化の消化力も文化形成の要素であって、
その消化力を培うには学問力の蓄積が要る。
経済力の獲得と豊かな精神性は必ずしも同居しない。