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人の道を説き、愛や慈しみを語る宗教の歴史の実態は、
専ら権威と排他を増幅させてきただけである。
どの時代をとっても戦争の土台、残虐の歴史を含んでいる。
信仰の清らかさを謳う舞台裏は、単に傲慢と差別と憎悪の博物館である。
それでも人々は、信仰する。清らかな幻想に救われたいのだ。
神が存在するかしないを、考えてみようとは思わない。分からない。
だが、人間の顔をした神や神の子がいたという、その言い方は馬鹿臭い。
神の子出現前の万年を超えて存在した人々を、
人間の基本を持たない夥しく未開な存在だとするのだろうかと、問いたい。
宗教者たちが、自らを気高い伝承者らしく装うのが滑稽である。
宗教行為に、仰々しい舞台を設けて、いちいち儀式を重んじるという事が、
既に、伝承はそうした演出がなければ説得力を持たないという事を示している。
人々は、求めるものがたくさんあり過ぎて、誰かから知恵を借りたい、頼りにしたい、
慰められたいといった気持ちが、絶えなく生じて、一生拠り所を求める生き物である。
それに応えてくれる賢者がどの時代にも出現して、人々はその声に耳を傾ける。
そういうことはあるだろう。
だから、その言葉を伝承したい者達が出て来ても不思議ではない。
だが、それが必然としてシステムとなり、団体の布教活動となる。
彼らは断固とした自己肯定で、影響力を広げようとし始める、それが使命だと。
だが、歴史を辿れば、それは分派を生み出し、
まもなくして枠外を異端とする排他主義に陥り始める。
その宗教活動は政治的に動き出し、専制国家を超えるような戦略を展開して、
世界に諍いと陵辱の種子を撒き散らしている。
それが人々の基本的な弱点を補う賢い言葉であっても、
その言葉が生まれた時代の状況が土台になっている。
人の精神の有り様は遺伝的にコピーされ続けているから、その言葉の力が依然として、
一部では有効であろう。
であっても、一方で自分たちで戸惑ってしまうほど、スケール違いの破壊と創造の状況を
人々は作り続け、積み重ねている。
社会の力動は、幾層も複合してお化けのように掴みどろろを見えなくしている。
宗教は、支配欲の強烈さが潜在しているシステムなのである。
人々は、善意を持って、敬ってすっかりその暗示にかかってしまう。
頼りになる進言をいつも待っているからだ。
マザコンから自立できない大人たちが多いから、宗教団体には、いつも好都合な環境が
待っている。
宗教者たちは人々をマウントしたがる。現実世界で生活していないにも関わらず、
宗教者は精神的に優位にあると勘違いしはじめる。
なにごとであれ、神の言葉の伝承者として見通し出来ると思ってるようだ。
が、マウントされる側に、問題があるのがそもそもの前提である。
苦しみが多くて報われないと、人々は思いがちである。
悲しみに耐えられないと、誰かに訴えたがる。
自分は清い生き方をしていると、確かめたがる。
いつも神に許しを得ていると、思いたい。
人々の依存心は、宗教の美味しい食材である。料理のしがいがあるに違いない。
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