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物への執着心をなくすことはとても難しい。
所持することの快感が人を捉えてしまう。
餌に満たされている動物が穏やかでいられるのと似ている。
物を持つことの豊かさに心身が安らぐのである。
まして、便利さや快適さを十分にもたらしてくれる物なら
いっそう手放せないものだ。
物欲は執拗である。遠ざけるのにはかなりの精神的な代償が必要だ。
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所持することの最少化、
日常生活の持ち物を出来うる限り少なくするということを、
生活の流儀にする。
持ち物が少なければ少ないほど、愉快になる。
この最少化の理想は
、そう、タンザニアの広大なサバンナで見かけたマサイの若者だ。
世界に携帯電話など存在しない、ずいぶん昔のことである。
身には赤い布だけを纏い、槍一本を持って果てしない高原を抜けていった
あの孤高な姿だ。
彼にとってはなるべくしてなったスタイルであろうが、
とてもシンプルでしなやかな生き様と感じ入ったのである。
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同じ事が出来ようもないが、
転じれば、モノを殺ぎ落とすことを所有への抵抗美学と見立て、
内なる悟りと心得るのである。
最少の物揃えで滑らかな日常を過ごせることにこそ、
心の平安があるという信仰である。
その基準値は、一用途に一点、一点の最大活用である。
法則は家具、衣服、身の回りの道具、キッチン用具、
趣味のツールなどすべての持ち物に亙る。
とにかくダブってモノを所有しないことを目指すのである。
「あれば便利--」などというのを排すること。
暇が出来ると、もっと整頓できないか、ダブった物どもはないかと、
前回の点検の甘さを見つけにかかる習癖が顔を出す。
購入額に拘泥しない。聖域はないのである。
あれこれと逡巡ののち、残すか手放すか決断に至ると、
心が洗われたような気分に浸れるのだ。
点検の目安の第一は、この一年間に必要としなかったもの、
同じ機能をもったもの、或は他の物でも代用できる物。
今までの点検で生き残ったモノの再吟味、反芻などである。
それでも踏ん切りがつかないモノについては、
目につくところに1ヶ月ほど出しておき、
迷いを払拭する時間をとることで、気持ちの決着をつけている。
で、整頓のベテランと自負している。
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無論のこと、何かのコレクションなどはまったく楽しくない。
そんな恐ろしい事はとても出来ない。
逆さに言えば、どれだけ最少の持ち物で気分がすっきりするのかという、
最少所有物を選択するコレクターやもしれぬ。
ただ、思うに、
もう若い頃からの習い性にもかかわらず、
依然として変わらぬ点検が続いているという事は、
どういう事だろう。
こんな些事をとっても、手軽な悟りは実に危ういものである。
新しい物を欲しがり、持ってなかった物を持ってみたいという欲が
消え失せることもなく
根強く潜在しており、まだまだ甘いと自戒している。
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こうした性癖の原点を遡ると、それらしい原体験に思い至る。
幼きころ、敗戦直後に引き揚げてきた体験に因ると思っている。
モノを多く持てば素早く移動できない、
モノにこだわると親と離ればなれになってしまう、
身の安全にかかわるという警告が、
幼少の脳の自衛回路に刻み込まれたのだと思っている。
追い立てられている強迫感、この非日常的な旅程の日々が、
子供にとって強烈でないはずはない。
さて、とはいっても現実、やはり煩悩はやっかいだ。
図書館が近くにあっても本の購入が止むわけもなく、
用途は同じでも新たなスグレ物を見付けると、
強い取り換え衝動を抑えられないのである。
あらゆる持ち物がこれまで何度入れ替わったことだろう。
新たな趣味が加わることもある。しかも道具から入るタイプだ。
衝動に抗しがたく手に入れ、やがて興味が薄れて、
所持放棄というパターンがなくならない。
物欲はやっかいだ。
つまり私の最少化は、倹約美学には少しも貢献してない。
買い替えればこれまでのモノは手元に残さない。
スペアとして残すこともない。
誰かに使ってもらうか、廃棄する蛮勇を奮う。