世態迷想・・抽斗の書き溜め

虫メガネのようであり、潜望鏡のようでも・・解も掴めず、整わず、抜け道も見つからず

囲い

2019-11-04 | 雑々と過って惑う

📌

塀や垣根の閉じこもり

ブロックの塀には風情というものが全くない。

散歩で見かけても、あんなつまらない囲いはないと僕は思ってる。

塀や垣根の堕落である。住宅の見栄えを悪くしている。

生け垣や板塀や竹垣に変わったら、風景がずいぶん違ってくると思う。

行政で補助金を出して、奨励出来ないものか。

 

ましてや、なぜ狭小住宅でさえ塀や門扉を構えるのだろう。

安易な発想だと思う。隣がそうだからウチも・・・。

防犯のためなら、むしろない方がいい。

敷地の結界を断固として主張したいのだろうか。

それなら、工夫はいくらでも他にあるはずだ。

とにかくブロック塀は止めてくれ・・

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人はいつも加害者

2017-11-18 | 雑々と過って惑う

📌

 生き物を観察したり寄り添うのは、人間のいい姿だ。

 生き物は人間に依存していないが、人間は大いに依存している。

 

 📌

人間には様々な理由で、他の生き物が必要である。

 人の生活と生き物との関わりは、水や空気なみに切り離せない。

過度の依存に慣れすぎた必然として、種の保存や保護が叫ばれる。

人間が動物を劣悪な状態に置いてしまう事への自己批判である。

だが、動物愛護を声高に宣うのは、やっぱり偽善くさい。

どんな場面を切り取っても、人は自然や生態系に対して加害者である。

生き物は人間から恩恵を受けることは決してない。

君は、再生産が容易な動物を美味そうに喰らっている。

マウスや猿の生体実験で開発された薬を服用している。

使役にも研究にも観賞やペットとしても生き物たちがいる。

 

📌

どの基準を、生き物に対する非情と言うのだろうか。

生き物は人間たちに関わりを持ちたくないに違いない。

等しく生き物であっても、彼らは人間から自由でいることが出来ない。

その命を区別して人間が活用しているのだから、不条理である

 
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耳障り・・

2017-11-18 | 雑々と過って惑う

 

📌

’’空気感”とか”関係性''という言い方が、どうもいやである。

なぜ感や性が必要なのか。

あきらかに冗語ではないか。

何にでも”~的”をつけるのと同じで、賢くない。

なぜ”的”が必要なのか。

漢語使いを薄めた話し方のほうが、

すっと耳に入りやすく、きれいな流れだ。

新しい定義や別な感性を表しているとでもいうのだろうか。

詰まらん言い方だ。

 

📌

クドい構内アナウンス

東京の交通機関は、クドい構内アナウンスに溢れている。

まことに五月蠅い。

情報は少なく、先導の教師よろしく、ただただ注意したくて仕方が無いようだ。

むしろ、利用者の自己判断や自己責任を、スポイルしている。

大音声で繰り返せば事足りるとするバカ感覚だ。

利用者に抗する術がなく、雑音として聞き流すしかない。

鉄道サービス先進国にしては、真にお粗末なソフトウエアである。

 
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恥部ではない

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

 

📌

性欲は世界中に溢れているので安物扱いされる、

若しくは品格の恥部とばかりに気付かないふりをされている。

食事やスポーツのようでもあるし、単に排泄欲求かもしれない。

だが、芸術や思想の発現には性がある。異性愛の原点である。

セックスレスも痴漢行為も、性情の発露を違えてる点では同じである。

 

📌

性の衝動は生命の証であろうから、第一義は良である。

 性交は人が動物の生理にもどる瞬間である。

ここで品性は必要とされない。

人格の保持がもっとも希薄になっていく。

肉体が愉悦感に達するまでの過程は、

思惟のコントロールを放棄した時間である。

その性の衝動はカップル特有の感情表現に変わる。

 

📌

生き物の生理的な欲求は、食、繁殖、休息であって、

本能は、全てそれを充足するために用意されている。

生き物の行動は、ひたすら不足と充足の循環で繁殖が保持される。

何百世代もその基本欲求に忠実である。

 

📌

人間に備わった脳力は、生理的な基本が他の生き物と同じでも、

その欲求が原初のままでいられずに、

多様な派生を繰り返し、膨張し変形する。

学習力や創造力に優れ豊かな感性を生み、その展開は多岐にわたる。

変形や深化で成し得た無形のものを文化と呼んで尊ぶ。

あらゆる道具を作り出す。

自らの生命や宇宙の成り立ちまで解明する欲求に溢れている。

ではあっても幸福欲が満たされているわけではない。

実現した充足より破壊の方が際立っている。

破壊された側が声を発せられないだけだ。

 

📌

色彩はわずか赤、緑、青の三色から合成される。

この三色の微妙な混ざり方であれほどにも多様な色調になる。

混ざり合う事の不思議さに驚く。自然現象の無量無辺である。

誰かの視覚の三原色のひとつが微弱だったらどうだろう、

他の人たちと同じ事象を見ているのに、

その人の視野にある色彩は悉く違って映り、

その印象や思考や反応が、きっと別物になるに違いない。

もしかして、

私たちは同じ事象を同じ色として見ていない可能性がある。

性にまつわる感性が根深くても、同じ水準の行動になることはない。

人の反応にもきっと当てはまる。

何かの不足や過剰が時には犯罪になり、

別には素晴らしい業績になる。

わずかな過不足によって社会的な混乱が誘発される。

であるから、人にも社会にも基準値に戻る復元力が必要だ。

 

📌

衣服を脱いでしまえば、人の姿はわかりやすい。

世界の姿も同じだ、ここでも言葉やモノで巧みに飾られ、

私たちはその幻想に酔いしれる。

だが、修飾を1枚ずつ剥ぐ毎に、社会の動機が見えてくる。

欲望と手法が汗をかいて熱演しているはずだ。

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筋肉を数えると

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

 📌

身体の動きに使う筋肉は400もあり、関節は265箇所に及ぶようだ。

それらは、どんな小さな動きにさえも複雑に反応し連携して作用する。

軽い怪我でも身体の動きがぎこちなくなることからみても、

複雑多様な連携があることが判る。

 

加えて、

人の持つ身体的な特徴や筋肉のつき方、関節の柔軟性には違いがある。

それらは、無自覚な動きの癖となって誰にでも現れる。

走るという基本的な姿さえ、人それぞれ5体の動きが微妙に違っていて

同じフォームはない。

 

日常生活の身体の使い方にはまったく支障ないが、

ひとたび、スポーツなど特定の動きを習熟しょうとする場合には、

キチンと自分の癖を認識しなければない。

そのフォームにとって邪魔になる癖を修正することが必要だ。

身体に染みついている癖は容易に消えない。

適切な反復練習で動きのリセットが必須である

 

400の筋肉と265の関節の反射的な作用と、

身に付いている癖との調和を図って、

そのスポーツに適した自分特有のフォームを会得して、

動きの効率を高めなければならない。

 

癖を自覚しないまま反復練習しても、

安定した良いフォームに辿り着くのは難しい。

機械ではないから一流のプレイヤーであっても

自分の癖と折り合った結果として、

それぞれのフォームが微妙に違っていても不思議はない。

 
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自然は正確無比である

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

 

 📌

宇宙の万物を変化させる科学的な法則が

絶対であることは自明である。

1グラムの違いでも計りは大きく揺れる。

わずか1°の温度差でも現象が明白に変化する。

あらゆる事象はその科学性の経過である。

その物理的な変化のままに動物世界も反応していく。

感情を生み出す脳の反応も化学的なのであって、

人間がそのことを言語で伝えたがらないだけだ。

そんな場面で人は神を活用し始めるのである

 

 📌

絶対の法則は、物理だけにある。

微生物や植物や動物の法則性も揺るぎないだろう。

常に不安定なのは、人間の精神である。

そこには絶対と認められるモノが存在したことがない。

人間世界にあるのは、比較によって、選択された価値にすぎない。

すぐに次なる比較に迫られる。その繰り返しが連綿と続く。

 

 📌

我々は風に平伏している。

あの優しい風が、勢いをつけると 

荒れ狂って 私らを容赦なく苦しめる

怖ろしいぞ 風の巨大さ

地球を支配しているのは、風だ。

 

 📌

世にある物は、例外なく腐敗し 酸化し 風化する

地球にとって腐敗は害ではなく、単なる工程に過ぎない。

地上を支配しているのは微生物である。

空気や土や水を支配しているのは化学反応である。

人間の知恵は、それらを少しだけ制御したり変化することが出来る。

自然は生き物を枯らす 

生き物は生き物を殺す 生き物だけがそうする

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non-collection

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

 

 📌

物への執着心をなくすことはとても難しい。

所持することの快感が人を捉えてしまう。

餌に満たされている動物が穏やかでいられるのと似ている。

物を持つことの豊かさに心身が安らぐのである。

まして、便利さや快適さを十分にもたらしてくれる物なら

いっそう手放せないものだ。

物欲は執拗である。遠ざけるのにはかなりの精神的な代償が必要だ。

 

 📌

所持することの最少化、

日常生活の持ち物を出来うる限り少なくするということを、

生活の流儀にする。

持ち物が少なければ少ないほど、愉快になる。

この最少化の理想は

、そう、タンザニアの広大なサバンナで見かけたマサイの若者だ。

世界に携帯電話など存在しない、ずいぶん昔のことである。

身には赤い布だけを纏い、槍一本を持って果てしない高原を抜けていった

あの孤高な姿だ。

彼にとってはなるべくしてなったスタイルであろうが、

とてもシンプルでしなやかな生き様と感じ入ったのである。

 

 📌

同じ事が出来ようもないが、

転じれば、モノを殺ぎ落とすことを所有への抵抗美学と見立て、

内なる悟りと心得るのである。

最少の物揃えで滑らかな日常を過ごせることにこそ、

心の平安があるという信仰である。

その基準値は、一用途に一点、一点の最大活用である。

法則は家具、衣服、身の回りの道具、キッチン用具、

趣味のツールなどすべての持ち物に亙る。

とにかくダブってモノを所有しないことを目指すのである。

「あれば便利--」などというのを排すること。

 

暇が出来ると、もっと整頓できないか、ダブった物どもはないかと、

前回の点検の甘さを見つけにかかる習癖が顔を出す。

購入額に拘泥しない。聖域はないのである。

あれこれと逡巡ののち、残すか手放すか決断に至ると、

心が洗われたような気分に浸れるのだ。

点検の目安の第一は、この一年間に必要としなかったもの、

同じ機能をもったもの、或は他の物でも代用できる物。

今までの点検で生き残ったモノの再吟味、反芻などである。

それでも踏ん切りがつかないモノについては、

目につくところに1ヶ月ほど出しておき、

迷いを払拭する時間をとることで、気持ちの決着をつけている。

で、整頓のベテランと自負している。

 

 📌

無論のこと、何かのコレクションなどはまったく楽しくない。

そんな恐ろしい事はとても出来ない。

逆さに言えば、どれだけ最少の持ち物で気分がすっきりするのかという、

最少所有物を選択するコレクターやもしれぬ。

 

ただ、思うに、

もう若い頃からの習い性にもかかわらず、

依然として変わらぬ点検が続いているという事は、

どういう事だろう。

こんな些事をとっても、手軽な悟りは実に危ういものである。

新しい物を欲しがり、持ってなかった物を持ってみたいという欲が

消え失せることもなく

根強く潜在しており、まだまだ甘いと自戒している。

 

 📌

こうした性癖の原点を遡ると、それらしい原体験に思い至る。

幼きころ、敗戦直後に引き揚げてきた体験に因ると思っている。

モノを多く持てば素早く移動できない、

モノにこだわると親と離ればなれになってしまう、

身の安全にかかわるという警告が、

幼少の脳の自衛回路に刻み込まれたのだと思っている。

追い立てられている強迫感、この非日常的な旅程の日々が、

子供にとって強烈でないはずはない。

 

さて、とはいっても現実、やはり煩悩はやっかいだ。

図書館が近くにあっても本の購入が止むわけもなく、

用途は同じでも新たなスグレ物を見付けると、

強い取り換え衝動を抑えられないのである。

あらゆる持ち物がこれまで何度入れ替わったことだろう。

新たな趣味が加わることもある。しかも道具から入るタイプだ。

衝動に抗しがたく手に入れ、やがて興味が薄れて、

所持放棄というパターンがなくならない。

物欲はやっかいだ。

つまり私の最少化は、倹約美学には少しも貢献してない。

買い替えればこれまでのモノは手元に残さない。

スペアとして残すこともない。

誰かに使ってもらうか、廃棄する蛮勇を奮う。

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空の空のそして空

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

📌

宇宙の事がちっとも判らない。

普段、宇宙の大きさを感じるのは、巨大な太陽の存在である。

なんと無限のエネルギーなんだろうと思う。

科学者らの解明では、

宇宙の広大さに比べると我らの太陽は針先の大きさにも

満たないようである。

人間の時間感覚と空間認識力では太刀打ちできない

遠い遠いあちこちで、

光を放っている恒星がゴロゴロあるというのか。

しかもなお、

数兆光年の遠くまで観測できる可能性もあるようだ。

空の向こうに空があり、その向こうにも空がある、

それをなんど繰り返しても

未だその向こうがあるなんて、どう想像すればいいのか。

無限とは何を意味する言葉なのか判らなくなってくる。

私の脳は、無重力の暗闇に浮かぶを微細なゴミにもすぎない。

 

「新たに発見された銀河 [WISE J224607.57-052635.0] の明るさは、

太陽の300兆倍を超える・・」のニュース、

我ら太陽系なんて微少なもので、しかも宇宙の僻地にあるらしい。

まて、宇宙に中心はあるのか・・?

宇宙の起源ていったいなんなのだ、

はて、起源の前は空間も時間もなかったのか

なかったとは、あったとは、何のことになるのだろう

小学生が抱くような問いだが、私には今でも理解できない。

 

陽射しは まっすぐまっすぐ進む 地球の隅っこにいても

来てくれる

私のためにここにやってきたと言ってるみたいだ。

生きるものに力を与え、生きるものに過酷さを教える

われらにとって、きみより大切なものなどありはしない

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