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世界は、戒めを忘れてしまうことで成り立っている。
パンドラの箱の神話が生まれた何千年前から、
人々はひたすら希望に未来を託しているが、
幾多の欺瞞と悪徳と暴力に溢れた世界から解放されたことがない。
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人々の口から何万回も平和が叫ばれただろう。
争いを目前にして、一番簡単な対応は平和を口にすることだ。
だが、絶え間ない紛争と殺戮が易々とその口を覆ってしまう。
どうやれば実現できるかの問いに対して、人類は何千年も答えに窮している。
平和という言葉には、その為に戦うという自己矛盾が隠されている。
平和の実現を叫びながら、
その方策は大概、脅迫と暴力が正義に転化されている。
平和は出口が見つからない迷路で、その知恵が狼狽している。
歴史家とか評論家の論述で解明されても、
ある社会とある社会の摩擦がこの後の世紀でも減るとは思えない。
正義が一元的でないからだ。
人間たちの愛は、殺戮的な排他の衝動に負け続けている。
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ある日、少年は図書室で処刑された女性の写真を見てしまった。
アヘン戦争かアロー戦争時と思われる中国大陸で撮られた古い写真だった。
捕らえられた女性の全裸体がXに組んだ木に張り付けられており、
その乳房は両方ともえぐられていた。
人間の人間に対する残虐さを初めて知って、彼の心身は硬直した。
戦争行為は背景を背負って始まり、噴き出し、残酷に限りが無い。
どの時代にあってもどの地域を巡っても、大虐殺が起きている。
殺戮の正義があちこちに転がっていて、
その主役たちが歴史上の人物になってしまう。
自らの正義を宣って殺して殺して、自らは天寿を全うする者もいる。
報道されない殺戮が、山ほど歴史に潜んでいるに違いない、
地表は大量死の積層である。
生き物のなかで人間はそれほど安価なのだろう。
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文明はなんと多くの殺し方を発明してきたか。
効率的な殺人兵器が開発され、地球全域に売り渡されている。
しかも、高い利益の産業として社会の正面に存在している
戦いの場面では、まさに暴力が主役となる。
理性がそれを嫌悪しても、暴力の発揮を強制される。
戦争とは、暴力の総合戦である。
属する社会に公認された殺戮ほど、無慈悲なものはない。
兵士も装備も暴力の優位を保つために駆使される。
指揮官は、その残虐や破壊を、作戦または戦略と言い換える。
無数の残虐が発生して、人間が破壊されて、いずれ終局する。
誰も免罪されるはずもないのに、残虐に優れた側が勝者と呼ばれ、
新たな支配が生まれ、愛と理性の人間の姿にすり替わる。
様々な弁明が用意されるが、戦略的な残虐さは常に優位を占める。
最も大きな罪は、支配を企んで戦闘を仕掛けた側にある。
なぜなら、人に潜在する残虐さを誘発してしまうからだ。
オセロゲームより甚だしく,人の価値の罠は入れ替わる
死刑囚が死刑執行人になり,さらにそれが逆にもなる
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戦場に限らず、状況優位を得た人間たちの恐ろしさ,
深奥に隠し持つ悪が露出してとても不気味である。
人間には残虐を計画的に行う残虐さがある。
屍が山のように積み上げられ、腐臭とともに埋められている。
人間は何回も何回も繰り返している、今も地球のどこかで。
人間が作る地獄的な場面がどういうものであるかを、具体的に知りたければ、
フランクルの「夜と霧」にある。
これに劣らず人間のサディズムは、中国の文化大革命にも容易く現れている。
人は、保身の口実があれば、こうも簡単に変心するものか。
テロ集団の、殺戮だけを目的にした無差別な攻撃。
そこに生まれる加害と被害との底知れない隔たりには、言葉を失う。
人間の変貌は、加害者の方に顕著に顕れ、餌食になるものは全く無力である。
人類の歴史に繰り返し起きている事だ。
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兵士も市民も戦争の死に様は、ただ無残である。
手足は千切れ、顔に鉈を打ち込まれたような惨たらしさは、
攻撃した人間の恐怖に比例している、
もしくは残酷さにとりつかれた者の瞬間が読める。
狂気と理性は全く触れ合わない。
その無残を知っていても、戦争を仕掛ける。
限りない不安と憤怒の混沌から、この後も何百年も抜け出せない。
戦争が愚かな結末を迎える事を知っていても、人は戦争に挑む。
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