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宗教の儀式は、どう見ても大人のおママごと。
僧侶や信者になって、お祈りごっこをする遊び。
信心ばかりでは生活できないので、何かの折に纏めて信心ごっこをすること。
人が善良であるためには、神や宗教が必要と考える人は、
心理の均衡が保てず弱々しいのではないかと私には見える。
立ち続けるために、杖がないと不安になってしまうのだ。
自分で立てる能力を育てずに、初めから終わりまで柱に寄りかかっている。
その安心が堪らなく気持ちが良いらしいのだ。
しかも科学の明解さを示されても、大胆に無視してしまう分からず屋である。
白を白と認めない狭量さ。その上に排他の度合いはいつも諍いを産んでいる。
全ては科学性によって生かされている事を知らずに生きているだけだ。
神を信じることは人間にだけできることだ、と優越に思ってるに違いない。
崇めれているその神とは、先人が妄想し、脚色したフェイク話を伝聞したに過ぎない。
史実にしては矛盾だらけである。
そうであっても信じたい、信じてしまう人々なのだ。
被暗示性がまことに強いと思う他ない。
神が与えたルールブックがないと、人は善良になれないと思っている。
人が善良であるために、荘厳な建物や芝居がかった儀式にひれ伏す必要などこにもない。
思考停止のなかでの自慰行為である。
忌まわしい事に、現実世界はそうした宗教がさまざまな諍いを生み、
人類に残酷な悲劇史を産む動機のひとつになっている。
人々の錯覚が次々とと盲導へ突き進んでいる。
宗教に依らない善良と安心の方が、ずっと純粋に気高い。
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