この世界はずっと前に終わっている。 ケネス・ワプニック Ph.D.
This World Was Over Long Ago
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https://www.youtube.com/watch?v=Xoazqr_M8yY
質問者: 心が癒された時は、2000年前にイエスが来た時ではなく、心が分離したと思った時に癒されたのですか。
Kenneth: それは最初の瞬間に癒されました。
質問者: 私たちは、2000年前にイエスが現れて、彼が理解したことを、私たちにも皆、理解するように教えてくれたのだと考えたいのですが、実際には、彼は私たちに思い出させるために来たのかもしれません…。
Kenneth: はい、そして彼は、私たちが思い出したいと思ったから、思い出させるために来たのです。 彼は来たというよりか、ただ存在しているのです。 そして、おっしゃる通り、それは2000年前に起こったことではありません。 贖罪は、それが否定されたまさにその瞬間に受け入れられました。 そして私たちは、それが起こった時と私たちがそれを受け入れる時との間に、途方もない時間が経過したと今、考えていますが、それはすでに起こったことなのです。 ですから私たちは、すでに終わった時間の夢の中を歩いているのです。
イエスが第28章の冒頭で「この世界はとうの昔に終わっていた」と言うように、私はいつも人々にそれを思い出させたいと思っています。 もし世界がとうの昔に終わっていて、あなたが世界の一部であるならば、それは何を意味するのか、考えてみると本当に恐ろしい考えです。 それはつまり、「さよなら」ということです。 あなたはもうここにはいないのです。
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訳注:T.28.1.1
奇跡は何もしない。 するのは取り消すことだけである。 そのようにしてすでになされていることに対する妨げを無効にする。 付け加えることはせず、ただ取り去るだけである。 そして奇跡が取り去るものは既に消え去って久しいが、記憶に保たれているために即座に結果を生むように見えているものである。 世界はとうの昔に終わっている。 それを作り出した想念はそれらの想念を思考して、少しの間、それらを愛した心の中には、もはや存在していない。 奇跡は単に過去は消え去っているということと真に消え去ったものは何の結果ももたらさないということを見せるだけである。 原因を覚えていることは原因が存在するという幻想を生み出せるだけであり、 結果を生み出すことはできない。
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では、この本を読んでいる「あなた」とは誰なのでしょうか。 イエスが早い段階で尋ねるように、「この世界に生きているあなた」とは誰ですか? この本を読み、これらの言葉を読み、学び、実践し、それらと闘い、受け入れているあなたとは誰ですか? それは、あなたが思っているあなたであるはずがないのです。 なぜなら、あなたはとうの昔に終わっているからです。
今、私がそのようなことを言うのは、あなたをパニックに陥れることではなく、あなたがこれらすべてが一体何なのか、見当もつかないことに気づいてもらうことだと考えています。 誰もわからないのです。 なぜなら、このことを理解しようとしているのは、私たちの肉体的、心理的なエゴの自己だからです。 ですから、イエスは時々このような一節を私たちに投げかけて、これはあなたが考えていることとはまったく違うのだということを思い出させます。
あなたがどこにいると思っているか、そしてあなたが理解できると思っているところから始めましょう。 しかし、これはあなたを全く異なる場所へと導くでしょう。 そして、人々がコースに取り組む時、彼らは突然、「おや、こんなことになるとは思わなかった!」と気づくのです。 しかし、その時までに、あなたはあまりにも深入りしてしまっています。 なぜなら、あなたは他のすべてを手放してしまっており、抜け出せなくなっているからです。
すると、あなたは不当な扱いを受けたように感じるのです。 彼はあなたが受け取ると思っていたのとは違うカードをあなたに配りました。 今、それはあなたを救う唯一のカードですが、それはあなたが思っていたものではありません。 それはあなたが想像したような救いではないのです。 だから「どんな策略だ? 」とあなたは言います。 「ああ、私たちは騙された」と。 そうです。私たちは間違いなく騙されたのです。
しかし、繰り返しますが、私たちは皆一つの心なので、基本的に自分自身を騙したのだということを思い出してください。 ですから、イエスを責めることはできません。 しかし、それは、なぜこの世の中の何も機能しないのか、そしてなぜほとんどのスピリチュアリティや宗教が機能しないのかを理解するのに役立ちます。 なぜなら、それらはこのすべての核心に触れていないからです。
さて、私たち自身の悪へのこの根深い信念は、私が不可能を成し遂げ、その結果として私が存在すると信じているという考えから来ています。
神の一部である我々は、彼(神Him)から分離して、彼(神Him)を攻撃することはできません。 神の一部は、彼(神Him)から分離することはできません。 完璧な一体性、完璧な全体性は、分離することはできません。 もしそうであれば、それは完璧な全体性であることをやめてしまうでしょう。完璧な統一であることをやめてしまうでしょう。 そして、神は神であり、彼がそうである以外のものであることはできないし、神以外には何も存在しないので、それ以外のいかなる考えも幻想となります。
私が悪であるという私の信念は、私が神の心の中の観念であり、その心から去ることができるという考えから来ています。アイデアはその源から離れます。 そして、一度私が、自分の源から離れることを悪と宣言すると、それが自分の源を破壊し、彼が私なしでは彼であるべき姿ではなくなってしまうので、私は一体性が嘘であり、愛が嘘であることを証明したことになります。 もちろん、愛は一体性と同一視されるので、今私は分離しており、私自身の愛を作り上げたのです。
フロイトの反動形成の概念は非常に役に立ちますが、私たちは必死になって、それがそのようには起こらなかったふりをしようとしており、それは本当に大丈夫で、私たちはこれを機能させることができると思い込みます。 だからこそ、サンシップ(Sonship:キリスト教の用語で、神の子であるという地位)のメンバー間の違いを見て、その違いを現実のものにしようとするのです。
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訳注:反動形成
受け入れがたい感情や欲求に対して、本心とは反対の行動をとる防衛機制。この心理メカニズムは、自分自身が受け入れがたい感情を意識化しないようにする働きがある。
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なぜなら、それは、分離が現実であり、違いがルールであるというエゴが私たちに信じさせたいことを強調するからです。 聖霊は、逆に、私たちが違いはないことに気づくことからその教えを始めます。 私たちが知覚する違いは表面的なものであり、このすべてを根底にあるのは、ここの誰もが同じ邪悪な夢を共有しており、誰もが赦しの同じ幸せな夢を共有しており、誰もが邪悪な夢と幸せな夢のどちらかを選ぶ同じ能力を持っているという同一性です。
ここにいる誰もが同じ装備を持っています。 私たち全員が同じ基本的な体、腕、脚、目、鼻などを持っているように、私たち全員が同じ基本的な心を持っています。 私たちは同じです。 私たちは違いません。違いは表面的なもので、無意味であり、そして仕組まれた罠であり、その違いは現実であり、意味があるということを信じるように誘惑され、惑わされるのです。
それらのいくつかは良いものであり、いくつかは悪いものであり、いくつかは清潔であり、いくつかは醜く、いくつかは神聖であり、いくつかは不聖であり、いくつかは聖人のようであり、いくつかは邪悪です。 しかし、それらはすべて体を現実のものとし、体が知覚するものを現実のものとするのに役立ちます。 そして、全体はまたもや、夢の中にある一つの根本的な真実、つまり、それは夢であり、夢には目的があるということを隠蔽するための大規模な煙幕なのです。 私はこれをいくら言っても言い過ぎることはありません。
夢には目的があります。 イエスと共にエゴを見ることは、その目的を見ることを意味します。 その目的は、真実を隠蔽することです。 そして、私たちがそれを理解したとき、私たちはついに、幻想と真実、無意味なものと意味のあるものの間で意味のある選択をすることができるのです。 私は、二つの選択肢に直面しない限り、それができません。
世界は、私がその二つの選択肢を決して見ることがないように作られました。
他に質問がありますか? そうでなければ、休憩を取りたいと思います。 簡単な質問?
わかりました。
質問者: なぜ私たちはこんなことのすべてを始めたのでしょうか、そしてそれを始めたのは誰ですか?
Kenneth: それは基本的に、「エゴはどのようにして起こったのか? なぜ起こったのか? 誰がそれを起こしたのか? 」という質問です。 これらは非常に良い質問であり、その質問は非常に大きな問題と受け取られますが、実際はそれは、質問ではなく、コースが説明するように、それは質問を装った声明なのです。
「私はエゴが起こったと信じている。 今、私はそれがどのように起こったのか、なぜ起こったのか、そして誰に責任があるのかを教えてほしい」という声明(statement)です。それが質問の根底にあるものであり、もし私が質問に答えたら、私は基本的にあなたの声明を認め、強化することになります。
昔のジョーク「いつ妻を殴るのをやめたのか? 」を覚えていますか? その質問に答えてしまうと、多くのトラブルに巻き込まれてしまいます。 なぜなら、質問の前提として、あなたを罪に陥れることなしに答えることはできないからです。 まあ、エゴの質問がなされる方法では、エゴを現実のものにすることなしに答えることはできないのです。
そして、その質問がマニュアルの最後に、用語の明確化の中で取り上げられるとき、イエスは「神学によって遅れないようにしなさい。 ただ経験だけを求めなさい。 答えだけを求めなさい」*と言います。 そして、あなたが答えを手に入れる時、それは神の愛の経験であり、その愛の経験の中で、あなたは愛がすべてであり、神がすべてであり、分離は決して起こり得なかったことを知るでしょう。
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*訳注:用語の解説 Int.4
自我はこのコースが与えない多くの答えを要求するだろう。 質問の形をしているだけで答えることが不可能なものをこのコースは質問として認識しない。 自我はどのようにして不可能なことが起こったのか、不可能なことが何に対して起こったのかと尋ね、 しかも数多くの形で尋ねるかもしれない。 だがそれには答えがない。 ただ体験があるのみである。 これだけを求めなさい。 神学によってにあなたの歩みを遅らせてはならない。
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それが質問への答えですが、それは満足のいく知的な答えではありませんね。 ですから、もう、私に質問しないでください。
質問者: それが決して起こらなかったと言うのは、理解できます。もしそれが決して起こらなかったとしたら、それは幻想です。 しかし、幻想があります。 なぜなら、幻想とは、決して起こらなかったものだからです。
ですから、質問を修正させてください。 なぜ決して起こらなかった幻想があるのですか?
Kenneth: どうか私の答えの方を修正させないでください。 人は同じ質問を、信じられないほど独創的な方で繰り返しますよね。 アーヴィング! それに対する答えはありませんが、あなたは本当に最善を尽くしました。(but you really gave it your best shot!)
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