ノーやん日記パート2

春星忌

 画俳両道の偉人・与謝蕪村の亡くなった日。俳人としては29歳の時蕪村と号したが画家としては後年「謝春星」と号していた。命日はいまから225年ほど前、陰暦の12月25日(太陽暦では1784・1・17)。68歳だった。いまのぼくと同じ歳に。
 芭蕉や一茶と同じように人口に膾炙する句を多く残した。
 春の海終日のたりのたりかな
 なの花や月は東に日は西に
 牡丹散て打かさなりぬ二三片
 顔見世やふとんをまくる東山
 一茶のように実生活から泥臭く直情的に詠うのでなく生まれ故郷に舞い戻った生き方とも違い、絵画的といおうか漢詩的、芝居的といおうか、萩原朔太郎が誉め上げたように少し理知的に磨いたきれいな句を多く遺しはった。淀川べりの大阪の毛馬の生まれと伝えられているが、大阪には戻らず京都に晩年を送った。出生のことはほとんど謎のままである。二十歳ごろ京都から江戸に出て夜半亭巴人の門をたたき、下総・結城など北関東から奥羽地方を遍歴し36歳の時京都に戻り定住した。絵画で生計を立て俳句は自分の楽しみにしていたように思える。なぜか、生まれ故郷のはずの大阪のことは書き残していない。ただ、代表作「春風馬堤曲」は親里への「懐旧のやるかたなきよりうめき出たる」作品であると、その真情を知人に伝えている。毛馬の堤には「春風や堤長うして家遠し」の句碑が立っている。子どもの頃絵を習いに通っていたという池田には、蕪村や弟子の呉春の絵を所蔵する逸翁美術館がある。ここには昨年、千里を根城にする句会のメンバーで雨降りだったが見学に行った。京都・烏丸には生活した跡らしき場所がある。洛東の金福寺にはお墓もある。句会で一度、「蕪村を訪ねて」の吟行を企画したが、こちらは果たせず、家族で行った。大阪には、毛馬の堤や芭蕉と蕪村の句碑を集めた「蕉蕪園」というのがあるし、京都には金福寺などがある。どちらでもいい。ぜひ来年にはリカバリー蕪村を試みたい。萩原朔太郎も司馬遼太郎も蕪村を冬の詩人としているが、田辺聖子は「あたたかな、やわらかな、やさしいなぐさめの芸術」と評し、「春雨や同車の君がさざめごと」など春の句を推奨している。美意識の乏しいぼくはこんな句が好きだ。
貧乏に追つかれけりけさの秋 蕪村
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