ゴタゴタはあったものの、私は無事に大学病院へ入院する事が出来た。DBは、見込み通りに郵便物に網を張ったが、待てど暮らせど「診断書」は届かない。情報網も寸断され、五里霧中に陥ったDBは、血眼になって私の行方を追った様だが、何の情報も手掛かりも得られず、挙句「降格人事」を言い渡され「課長補佐」と言う名前だけの窓際へ落とされた。即ち、管理監督権限を剥奪されたのである。最も、最初は「辞職勧告」が出るはずだったのだが、会社から放り出せば逆にDBの「思う壺」になり、何をするか予測不可能なので、事態をより悪化させる事になりかねず、危険度は増すばかりとなると判断した会社側は、窓際へ追いやる事で「監視の網」から逃げ出せない様にする策を選んだのである。ある意味、この策は後に大きな意味を持ち、図に当たるのだが、正直なところ「治療計画」を台無しにし、療養期間を長引かせる一因となるのだから皮肉なものだ。
精神科病棟イコール「鉄格子」と思われている方も多いと思うが、大学病院の精神科病棟は「開放病棟」、すなわち「普通の病棟と変わらない」場所であった。私が病棟へ案内されて、真っ先に洗礼を受けたのは「手荷物検査」であった。金属やガラス製品は、精神科病棟では「御法度」なのである。何故なら「自傷行為」を防ぐためには、入って来るものを取り締まるしかない。周囲に「置かせない事」が入院患者さん達の命を守る事になるからだ。検査の結果は「問題なし」。担当看護師さんを紹介され、病棟での生活について、事細かに説明を受けた。私の担当はHさんと言う「大柄な保育士さん」の様な方だった。割と美形。でも「しっかり者」だと直ぐに分かる話し方、手際の良さは今でも良く覚えている。最初の担当看護師さんは、誰でも印象が残るもの。一通りの説明を受けてから、まずは「一般検査」の旅へと送り出された。血液、尿、心電図、レントゲン、一回りをして異常が無いがを確認し、異常があれば合わせての治療計画が組まれる。検査の結果、血液中のイオンバランスが崩れており、心肺に負担がかかっている事、肝機能の数値に異常が見られる事、慢性的な脱水症状となっている事が判明した。こうした症状については、主治医の先生が予期していた通りではあったが、少しでも入院が遅れていたら「より深刻な状況」になっていてもおかしくはなかったそうで「ギリギリのところで踏み止まっていた」と後から説明をされたが、仮にも境を越えていたらどうなっていたのか?今でも思い出すと背筋が寒くなる。
治療の第1段階は、体力の回復から始められた。左腕には「点滴ライン」が固定され、24時間の点滴処置がなされ、小水は管へ流れる様に尿管へラインが確保されたが、苦しくて痛くて恥ずかしくてたまらない処置でもあった。更には尿管のラインが上手く入らなくて、膀胱から小水が少ししか出なかった為、入れ直すハメになったので、同じ苦しみを2度味わうことになってしまった。どうやら、男性は膀胱までの距離がなまじあるため、管が素直に通らない事があるそうなので、覚悟しておかれた方がいいらしい。当然の事ながらトランクスから紙おむつに「履き替える」事となり、上半身にはモニター用の電極があたこちに貼り付けられ「絶対安静」が言い渡された。それから10日程の記憶はあまり定かでは無い。食事や検温、清拭の際のぼんやりとした状況しか思い出せないのである。恐らく、強力な薬剤と睡眠薬が投与されていた影響だろう。だが、そのお陰で体力は回復に向かい、小水の管は外され自力で病棟内を歩ける様になるまでに漕ぎ着ける事が出来た。まだ、点滴ラインは取れなかったが、食事も「流動食」から「通常食」になり、静かな時間が緩やかに経過していた。Hさんも「段々と血圧が下がって行くし、脈が遅くなってるのは何故?!普段から低血圧で脈が遅いの?」と首をかしげるので「そうです」と答えると「私の勘違いや血圧計の故障じゃないのね。毎日の記録だけ見ているとこっちが不安になる!そう言う事なのね。みんなに申し送りしておかなきゃ!」と笑いながら検温をしてくれる様になり、主治医の先生も「順調ですね。このまま経過すれば回復も早まるかも知れませんよ!」と安堵し始めていた。入院から2週間、誰もが「もう底から離れた」と思っていた矢先に「事件」は発生した。土曜日の昼過ぎにかかって来たナースコールで平和は破られた。「叔父さんがお見えになりました。ナースステーションに出てこられますか?」親戚に入院するとは一切伝えて居ない。「叔父とかには入院するとは知らせていませんが?誰ですか?」聞き返しつつ冷や汗が出た。心臓は早鐘の如く脈を打ち、嫌な予感が頭を駆け巡り出した。「そのまま待っていて下さい」とナースコールが切れて10秒で当直の看護師さんが病室へ駆け込んで来た。「50代半ばの割と小柄な方ですが、親戚の方ではありませんか?」と聞かれたが、親戚などが来るはずがないと言うと「とにかく面会したいと言っておられるのですが、陰から覗いてみます?」と言うので廊下の壁からナースステーション付近を覗いた。電流が流れて全身が硬直し、一気に血の気が引いた。ナースステーションの前に居たのは、他ならぬDBだったのだ。
精神科病棟イコール「鉄格子」と思われている方も多いと思うが、大学病院の精神科病棟は「開放病棟」、すなわち「普通の病棟と変わらない」場所であった。私が病棟へ案内されて、真っ先に洗礼を受けたのは「手荷物検査」であった。金属やガラス製品は、精神科病棟では「御法度」なのである。何故なら「自傷行為」を防ぐためには、入って来るものを取り締まるしかない。周囲に「置かせない事」が入院患者さん達の命を守る事になるからだ。検査の結果は「問題なし」。担当看護師さんを紹介され、病棟での生活について、事細かに説明を受けた。私の担当はHさんと言う「大柄な保育士さん」の様な方だった。割と美形。でも「しっかり者」だと直ぐに分かる話し方、手際の良さは今でも良く覚えている。最初の担当看護師さんは、誰でも印象が残るもの。一通りの説明を受けてから、まずは「一般検査」の旅へと送り出された。血液、尿、心電図、レントゲン、一回りをして異常が無いがを確認し、異常があれば合わせての治療計画が組まれる。検査の結果、血液中のイオンバランスが崩れており、心肺に負担がかかっている事、肝機能の数値に異常が見られる事、慢性的な脱水症状となっている事が判明した。こうした症状については、主治医の先生が予期していた通りではあったが、少しでも入院が遅れていたら「より深刻な状況」になっていてもおかしくはなかったそうで「ギリギリのところで踏み止まっていた」と後から説明をされたが、仮にも境を越えていたらどうなっていたのか?今でも思い出すと背筋が寒くなる。
治療の第1段階は、体力の回復から始められた。左腕には「点滴ライン」が固定され、24時間の点滴処置がなされ、小水は管へ流れる様に尿管へラインが確保されたが、苦しくて痛くて恥ずかしくてたまらない処置でもあった。更には尿管のラインが上手く入らなくて、膀胱から小水が少ししか出なかった為、入れ直すハメになったので、同じ苦しみを2度味わうことになってしまった。どうやら、男性は膀胱までの距離がなまじあるため、管が素直に通らない事があるそうなので、覚悟しておかれた方がいいらしい。当然の事ながらトランクスから紙おむつに「履き替える」事となり、上半身にはモニター用の電極があたこちに貼り付けられ「絶対安静」が言い渡された。それから10日程の記憶はあまり定かでは無い。食事や検温、清拭の際のぼんやりとした状況しか思い出せないのである。恐らく、強力な薬剤と睡眠薬が投与されていた影響だろう。だが、そのお陰で体力は回復に向かい、小水の管は外され自力で病棟内を歩ける様になるまでに漕ぎ着ける事が出来た。まだ、点滴ラインは取れなかったが、食事も「流動食」から「通常食」になり、静かな時間が緩やかに経過していた。Hさんも「段々と血圧が下がって行くし、脈が遅くなってるのは何故?!普段から低血圧で脈が遅いの?」と首をかしげるので「そうです」と答えると「私の勘違いや血圧計の故障じゃないのね。毎日の記録だけ見ているとこっちが不安になる!そう言う事なのね。みんなに申し送りしておかなきゃ!」と笑いながら検温をしてくれる様になり、主治医の先生も「順調ですね。このまま経過すれば回復も早まるかも知れませんよ!」と安堵し始めていた。入院から2週間、誰もが「もう底から離れた」と思っていた矢先に「事件」は発生した。土曜日の昼過ぎにかかって来たナースコールで平和は破られた。「叔父さんがお見えになりました。ナースステーションに出てこられますか?」親戚に入院するとは一切伝えて居ない。「叔父とかには入院するとは知らせていませんが?誰ですか?」聞き返しつつ冷や汗が出た。心臓は早鐘の如く脈を打ち、嫌な予感が頭を駆け巡り出した。「そのまま待っていて下さい」とナースコールが切れて10秒で当直の看護師さんが病室へ駆け込んで来た。「50代半ばの割と小柄な方ですが、親戚の方ではありませんか?」と聞かれたが、親戚などが来るはずがないと言うと「とにかく面会したいと言っておられるのですが、陰から覗いてみます?」と言うので廊下の壁からナースステーション付近を覗いた。電流が流れて全身が硬直し、一気に血の気が引いた。ナースステーションの前に居たのは、他ならぬDBだったのだ。