「俺は“正義の鉄槌”を下そうとしただけだ!精神病などと言う病気は無い!詐病だ!会社を欺き、多額の金をむしり取る“寄生虫”は、修行によってのみ、救済の道が開けるのだ!」「DB、君の言っている事は、非科学的かつ非論理的な“根性論”に過ぎない。私はその様な考えには賛同できない。むしろ、嫌悪感を・・・」
「チョイ待ち!どうもイントネーションがスッキリしねぇ。DBの“修行によってのみ、救済の道が”の部分を修正しよう」N坊が言うと「うーん、上か下か?」とF坊が聞く。この様な地道な作業は、もう2日目に突入していた。合成によって肉声を繋ぎ合わせても、声のトーンやイントネーション、抑揚の強弱は実際に耳で聞いて微調整するしかなかった。しかも、今回は“寸分違わぬモノ”が条件だ。チェックは厳しすぎても過ぎる事は無いのだ。「よし、次はバージョンBの方だ。DBが哀訴する場面を流してくれ」N坊が言うと、
「どうかお慈悲を!国内が無理なら海外でも構いません!」「そうは言っても社則に違背した事実は覆らん!犯罪に加担した以上、懲戒解雇は免れんぞDB!役員を説得する・・・」
「ここは、やっぱりY副社長の声に“ドス”を効かせなきゃダメだ!」「トーンを若干下げるか?」「その方がいい。DBの声は高めに修正すればバランスがいいだろう」2人はY副社長とDBの声を聴き比べて、微妙な言い回しや顔の表情まで想像して仕上げにかかっていた。「よく続くなー。ほんの僅かなズレも聞き逃さない」“車屋”が目を丸くする。「あれが仕事人の魂だ。良く見て置け!」“スナイパー”が肩を叩く。「完璧を目指すあくなき執念。あれがあってこそ“本物”が生み出される。お前さんも、いずれああやって“本物”を作れる様になれ!」「はい!」“車屋”にとっては新鮮な経験だった。学ぶことは数多に渡る。それらを1つ1つ自己のモノにした時、常時“メンバー”として招集される人になるのだ。
ミセスAは、“司令部”とZ病院を往復する様になっていた。R女史の容態は、一進一退を繰り返していた。Z病院へ搬送された直後、血圧が下がり虚血状態になりかけたが、それはどうにか切り抜けられた。クリーンルームに収容された女史は、体中の菌を撃滅させるために、“グリコペプタイド系抗生物質”の投与を受けた。今の所、小康状態は保っているが、MRSAを完全に撃滅できている訳ではない。依然として危険な状態に変わりはなかった。「今一番の問題は、患者さんが病院内で感染した事にあるのよ。多かれ少なかれ、抗生物質を大量に使い、多くの患者さんが居る日本中の病院に、MRSAは居る可能性がある。そこで働いている医師や看護師が伝播者となり、病院内や手術室が汚染されている可能性は、非常に高いの。それを防ぐためには院内の消毒、清掃そして職員の手洗いの徹底しかないの。□病院で、MRSAが出たと言う事はその不足があったと言う事。私も含めてね。体を治すために病院へやって来た患者さんが、その病院の中で感染する病など、本来あってはならないのよ!」ミセスAは荒れ狂っていた。「母さん、あなたのせいではありませんよ。問題は、抗生物質を多量に使う現代医療体制そのもの。MRSAは言わば現代医療の落とし子のようなもの。母さんが責任を背負う必要は無いんですよ」精神科医の息子が優しく語りかける。「父さんが診てます。何かあれば直ぐに知らせます。母さんには“任務”がある。“任務”の対象者が患者になり、危険な状態にあるのは事実ですが、ここは父さんと僕達に任せて下さい」ミセスAは何も言えなかった。手を尽くす範囲で打てる手は全て打った。現状では薬剤と患者の体力に賭けるしかない事も分かっていた。「“ドクター”の帰国を待つしかない。そして速やかに“ドクター”にここへ来てもらうしかない。分かっているわ。でも、何かできる事が・・・」「休む事ですよ!あの日以来ロクに休んでないじゃないですか。ホテルに戻って下さい。車は玄関に回してあります」息子は静かに語りかけた。「分かった。父さんとあなたに賭けるわ。全力を尽くして頂戴!」ミセスAは“司令部”へ戻って行った。彼女が“司令部”に戻るとリーダーが受話器を片手に「トルコ航空518便だそうだ。“スナイパー”はどこだ?」「今、“録音”の真っ最中です」「よし!完了し次第、成田へ向かわせる。“ドクター”、間違いありませんね?ええ、迎えの手配はしてます。必ず戻って来て下さい!では」「リーダー、“ドクター”は何時になりそう?」ミセスAはすがる様に聞いた。「夜には戻れそうです。成田から“スナイパー”がZ病院へ直接送り届けます!間に合いそうですよ!」彼女の目に光が戻った。
「怪しいな!」「何がですか?」モニター画面を睨んで事業所長が呟く。「DBは眠っています。何が怪しいんです?」「分からないか!寝た振りをして紐を作っているとしたら、重大な問題だ!ヤツは狡猾かつ老獪な油断のならん存在だ!不安の種は早急に摘み取る必要がある!」事業所長は、マイクのスイッチを入れた。「DB!君は何を企んでいる?紐など作っても無駄だ!諦めて降服しろ!」ノイズ交じりの声が地下空間に響いた。「何故、そう言える?」DBはゆっくりとベッドの上に置きあがると反論した。「紐など作ってはいない。証拠が・・・」と言いかけると、レーザーが枕を射抜いた。焦げ臭い匂いが漂った。「諦めの悪さ、狡猾な手口、君の姿勢、そう言うものを総合すると、脱走の用意は周到に計画しているはず。まず、紐を出したまえ!話はそれからだ!」「ちっ!」DBは舌打ちをすると3本の紐を床に投げた。「やはりそうか!どうやら君には衣服を与えるのは危険だ!作務衣を脱ぎ床に丸めて投げろ!」「ちっ!」ボロボロになった作務衣をDBは脱ぎ捨てると、紐の近くへ投げた。汚れたトランクス1枚になったDBの身体は、やせ細り火傷の跡が生々しく見えた。大出力のレーザー8本が床を焼いて、紐と作務衣を煙に変えた。「絶対服従!これが君を生かす道だ!君はまたしてもこれに違背した!それなりの報いは受けてもらう!」事業所長はレーザーの出力を絞ると、DBの右腕上腕を狙った。4本のレーザーがDBに襲い掛かった。しかし、DBも必死に逃げる。レーザーは枕と布団に命中して穴を開けたが、DBは無傷だった。本能的に足の方向へ逃げたのが幸いした。「ほう、まだまだ元気じゃないか。だが、次は外さない!」「ターゲット自動追尾モード起動。出力10%アップ。目標右上腕部。射撃開始マデ1分」合成ボイスが警告を発した。DBは布団を丸めると右半身をかばった。だが、レーザーは以外にも左上腕部を直撃した。「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁ・・・」火傷の痛みに耐えかねたDBは床に転がった。「外さないと言ったはずだ!次は布団諸共狙う!」「まっ・・・待ってくれ!従う!服従を・・・誓う!」DBは苦痛に顔を歪めながらも懇願する。「そのセリフは聞き飽きた!違背は許さぬ!」事業所長は容赦を認めなかった。今度は、レーザーが右足の大腿部を直撃した「あぎゃぁぁぁぁぁぁ・・・」再びDBは床を転げまわった。肉の焦げる匂いが充満した。「事業所長!その辺で止めて下さい!殺してしまっては元も子もありません!」部下は必死に止めた。事業所長が頷いた。「今回はここまでにしよう。だが違背すれば、容赦はしない!それを忘れるな!」ノイズ交じりの声は途絶えた。DBは苦痛に耐えながら布団をベッドに敷いて横たわった。脂汗が傷口に触れて更に痛みを生む。「軟膏を差し入れてやれ!正し紙容器で。食事は通常通りでよい」「はい、これでDBは紐を作る“材料”を失いました。少しは安堵されてもいいのでは?」「いや、まだシーツと布団が残っている。繊維類はいずれ一掃しなくてはならん様だ。今回の件、本社へ至急報告しろ!脱走を防ぐにはそれしかあるまい!」「はい、直ちにメールを送り、指示を待ちます」「メールではなくFAXにしろ!データーが残る方法はいかん!」「では、おっしゃる通りに」監視システムはオートに戻された。苦痛に耐えながらDBは“密かな作業”を再開した。布団や枕に穴が開いた事で、綿が取り出しやすくなった。“作務衣の様にはいかんが、糸は作れる。紐の材料はまだ残っている。”懲りないDBは、脱走を目指して糸づくりを開始した。気が遠くなる作業かも知れないが、時間はある。“小僧の首をねじ切るまでは死なん!”この一念がDBを奮い立たせていた。
T女史が¨司令部¨を訪れるのは、もう3回目だった。R女史から¨引き継ぎ¨を受けてDBの件の調査に着手したいのは山々だったが、肝心要の¨音声記録¨が完成しなくてはY副社長の元へ出向けない。R女史には¨正しい認識¨を植え付けなくてはならない。Kからの依頼に対して「DBとY副社長が会談の末に、双方が譲歩した」結果、ベトナム工場へ異動したと言うオチにしなくてはならないのだ。「¨音声記録¨はいつ完成します?」「今日中には出来上がります。¨依頼者¨の承認が出れば、先生も動けるかと」「実は、大手の事務所が、本件を嗅ぎ付けて¨介入¨しようと画策を始めた様です。あまり、悠長な事をしていると¨拐われる¨恐れが出て来ました。ミスターJも懸念しています」「その話なら、こちらも聞いています。確か¨AD事務所¨ですよね?」「ええ、なにせ成りが大きな所ですから、資金力も人手もあります。向こうが動き出す前に手を打たないと」「撹乱と援護はいつでも出来ます。今、¨侵入¨を開始してます。向こうのシステムをダウンさせればいいんですよね?」「そうですが、気付かれずに出来るんですか?」「¨シリウス¨、どうだ?」「後、5分下さい。今、¨ウイルスプログラム¨を仕掛けてます。DBの件を検索すると、システムがダウンして、復旧に時間が掛かる仕組みです!」「まあ、そんな仕掛けを?それなら安心してかかれますわ」T女史は目を丸くした。「お待たせしました。¨音声記録¨が仕上がりました!」¨スナイパー¨が2台のICレコーダーを持って現れた。「どうだ?上手くいったか?」「オーディオマニアの誇りに駆けてもいい出来上がりですよ!」彼は胸を張った。早速、再生が開始された。銀色のICレコーダーだ。
「俺は“正義の鉄槌”を下そうとしただけだ!精神病などと言う病気は無い!詐病だ!会社を欺き、多額の金をむしり取る“寄生虫”は、修行によってのみ、救済の道が開けるのだ!」「DB、君の言っている事は、非科学的かつ非論理的な“根性論”に過ぎない。私はその様な考えには賛同できない。むしろ、嫌悪感を・・・」
「どうです?耳を澄ませても、合成とは分からない様に仕上げてあります!」「イヤホンはありますか?」「ええ、これをどうぞ」「すみません。何せ大切なモノ。寸分たがわぬかを検証しなくてはなりません」T女史はしばらくICレコーダーの声に聞き入った。「これは・・・、本当に合成なんですか?」女史は心底驚いた様子だ。「ええ、100%合成したものです。雑音も含めて」「R女史に手渡すモノも同じですか?」T女史が尋ねる。「R先生へお送りするのはこちらですよ」“スナイパー”は別の黒いICレコーダーを差し出した。
「どうかお慈悲を!国内が無理なら海外でも構いません!」「そうは言っても社則に違背した事実は覆らん!犯罪に加担した以上、懲戒解雇は免れんぞDB!役員を説得するのは無理だ。弁護士も同じことだ!」「私は家族を養わなくてはなりません。どうか見捨てないで下さい!副社長、お言いつけは何でも聞きます!」「尋常な事では無いぞ!余程の理由が無ければ、周囲を納得させられん。だが・・・、1つだけ手はあるそれは・・・」
「先程の“音声記録”とは“別物”ですね。DBが哀訴していますが、この2つにどう言う意味があるのでしょう?」「R先生には“DBが自主的に海外への赴任を希望して、国外へ消えた”と認識してもらう必要があります。一方、Y副社長は、社内手続きを円滑に進めてもらう必要があるんです」「それで、こんな手の込んだ“音声記録”を?」「ええ、双方にとって法的に問題の無い様にしなくてはなりませんから」「参りました。ミスターJは気配りが凄い方ですが、皆さんにもそれは言える事ですね!」T女史は呆れ返った様に言った。「では、私はY副社長に面会のアポを取ります。この黒いICレコーダーは預かっても構いませんか?」「元々そのつもりで、用意したモノです。R先生には“そちらの”音声を聞かせてあげて下さい」「分かりました。では、お預かりします」T女史は鞄に黒のICレコーダーをしまい込んだ。「もう1つ、不安材料を言うのを忘れていました。“AD事務所”に“サイバーグループ”が設立された模様です!完全な影の実行部隊ですので、詳細は不明ですが、サイバーテクノロジーに通じた人材を採用したのは分かっています。遅かれ早かれ、ここも狙われます!」「でしょうね。でも、我々も黙っているつもりはありません!」“シリウス”が自信ありげに言った。「彼らがここへ“侵入”しようとしても、別のサーバーへ行くとしたらどうします?」「例えば?」T女史が聞く。「旧KGBとかペンタゴンとか様々な所へジャンプさせられたら、逆に問題になります。ここのシステムは“強引に入り込もうとすると、海外のサーバーから第三国の諜報機関へ飛ばさる”様に細工してあります。“AD事務所”も海外の諜報機関からマークされるのは、本意ではないでしょう?」「そうでしょうね。でも、油断はしないで下さい。折角ここまで漕ぎつけたのです。要らぬ手は触らないのが一番です!」「分かりました。夜は外部アクセスを遮断しましょう!それなら、どうです?」「そうして下さい。私達も細心の注意を払っています。作戦が成功するまでは、決して気は抜かないで下さい!」T女史はそう言うと“司令部”を後にした。「“スナイパー”、悪いが、至急成田へ飛んでくれ!」リーダーが指示を出した。「“ドクター”のお出迎えとZ病院への送迎ですな!」「そうだ、一刻も早く抗生物質を届けなきゃならん!そうしないとR女史は、さっきの“音声記録”を効き逃してしまう」「俺様の努力を水泡に帰す訳にはいかんな!」“スナイパー”の目が鋭く光った。「了解だ!最速記録を更新してみせる!」“スナイパー”は“司令部”を飛び出して行った。
「はははは・・・、ぐぁはははは・・・」Y副社長は、笑いを堪えるのに必死だった。ICレコーダーから聞こえる¨自身¨の声が、あまりにもリアルだったからだ。「どうされたんだ?」大爆笑は外へ漏れだして、秘書課まで聞こえていた。バイク便で荷物が届いて10分後から延々と笑い声は続いている。「DBもそうだが、自分の声がこんなに真面目に聞こえるとは、これは¨世紀の傑作¨だ!」涙ながらに笑い転げるY副社長。社内の人間が見たら、気が動転したのか?と疑いを抱いた筈だ。イヤホンを外して、秘書課長を呼び出す。「どうされました?Y副社長?!」秘書課長は、身をよじって笑うY副社長の姿に動転した。「いや、すまん!可笑しくたまらんのだ!君も聞いて見れば分かる!」そう言ってICレコーダーとイヤホンを差し出した。秘書課長は、不審な顔つきで再生された音声を聞いた。
「俺は“正義の鉄槌”を下そうとしただけだ!精神病などと言う病気は無い!詐病だ!会社を欺き、多額の金をむしり取る“寄生虫”は、修行によってのみ、救済の道が開けるのだ!」「DB、君の言っている事は、非科学的かつ非論理的な“根性論”に過ぎない。私はその様な考えには賛同できない。むしろ、嫌悪感を抱かざるを得ない。犯罪の片棒を担いだ罪は許されるものではない!社則に従い、この場で辞表を出したまえ!」
「これは・・・、そんな馬鹿な?!・・・」秘書課長は絶句した。「これが、人為的に¨作られた会話¨だと信じられるか?自分の¨セリフ¨を聞いていると、可笑しくてたまらんのだよ!」Y副社長はハンカチで眼を覆う。「¨作られた会話¨とは到底思えません!会話の声、雑音に至るまで…、完璧ではありませんか!元の音声記録の片鱗もありません」秘書課長は呆然と立ち尽くしていた。「元の音声記録は何だね?」「本年度の経営方針の説明会のものです」「あれか・・・、ふふふふ、それが¨DBと対峙する声¨に化けるとはな!全く持ってミスターJの部下達には驚かされるよ!」「どうやったら¨幻の対峙¨を作り出せるのでしょう?」「全く分からん!だが、これで社内と顧問弁護士は抑えられるな?」「はい、これならば誰も疑う余地はありません!」Y副社長は立ち上がると「最後まで聞けば分かるが、結末はDBを“危険人物”と認定して、私がDBの辞表を預かりベトナムへ無期限出向させると言う筋書きになっている。“彼”に危害を及ぼす恐れが高い“懲戒解雇”の代わりにな!実際問題、“懲戒解雇”になどしたら、“彼”に実害が及ぶのは火を見るより明らかだ!」「なるほど、その点は心得ているのですな」「役員会で私が、この音声記録を披露して“DBに下した処分”について補足すれば、誰もおかしいとは思うまい。顧問弁護士にしても然りだ」「となると、DBの“辞表”を作っておかねばなりませんね!」「そうなんだ、その“メイキング”を君に任せたい。稟議書よりは簡単だろう?」「はい、雲泥の差です。直ぐにでも作成できます」「早速、かかってくれ」「分かりました。それと、T弁護士から面会の依頼が入っております。何でもR弁護士が急病で入院したそうで、引継ぎを受けた方の様です。いかがいたしましょうか?」「会おう。何時だ?」「明日の午後にでもと言われています。大丈夫でしょうか?」「心配はいらん。T女史は、ミスターJの顧問弁護団の一員だ。この音声記録の内容も知っているはずだ。その上で、形式的に会うだけだ。恐らく“別物の音声記録”を披露してくれるだろう!」「“別物の音声記録”ですか?!」「ああ、R女史の手に渡る文字通りの“別物”だ。多分、DBの泣き落としに私が折れた様な内容だろう。DBが自分からベトナム行きを志願したか、私が情けをかけたか・・・、法的には何の問題も出ない内容になっているだろう」「それでは、ミスターJの部下達は2つの筋書きを作って・・・」「法的に問題が無い様に細心の意を払ったのだよ」Y副社長がセリフを引き取って答えた。「両方の顔を立てるには、それくらいの事はしないといかん。労を惜しまぬ彼らの姿勢には、敬意を払わねばなるまい!」「では、T弁護士へは、私から“お会いになる”旨を伝えて置きます。DBの“辞表”は直ぐにお持ちします」「いいだろう。手配を宜しく頼む。私はもう一度、頭から聞いて見るとしよう!こんな“傑作”は滅多にない!」「すみませんが、お笑い声を抑えて頂きますよう。他の者が聞けば不審に思います」「分かった、分かった。さて、もう一度・・・」Y副社長は、ICレコーダーとイヤホンを手にした。そして、笑いの世界へと戻って行った。
“スナイパー”の運転する車は、闇夜を突いて一路Z病院を目指していた。「“ドクター”、ベルトをしっかり締めて下さい。それと“司令部”を呼んで下さい。厄介なヤツらが現れました!」「なんじゃと?誰だ?」「分かれば苦労しません。後ろから猛然と追い上げを喰らってます!」“司令部”に携帯が繋がった。「オープンマイクに切り換えて!リーダー、ヤバイ事になりました!ケツに不審なベンツがくっ付いて来ました!」「何!どういう事だ?!」「Z病院へ行かれては困るとしか思えません!」「振り切れないか?」「やって見ますが、際どい話になります。それより、R女史と“AD事務所”の間にトラブルが無かったかを至急調べた方がいいかも知れませんぜ!」「“スナイパー”、無茶はするな!」「何とか振り切ってZ病院へ・・・」ブツっと音がして通話が途切れた。「“スナイパー”、応答しろ!」リダイヤルをしたリーダーだったが、通じなかった。「“シリウス”、“スナイパー”の車のビーコンを追ってくれ!」「了解!」「何があったの?!」ミセスAの顔が蒼白になっていた。「“スナイパー”の車が襲われたらしい。詳細は不明だ」「リーダー、ビーコンは拾えましたが、都心環状線に逃げ込んでいます!」「マズイな、相手は何者だ?!」リーダーも顔が蒼白になっている。「我々には手は出せない!“スナイパー”の腕に賭けるしかない!」握りしめた拳に爪が食い込んで、血が流れた。「監視カメラの映像を手に入れろ!何者かを割り出すにはそれしかない!」「直ぐには無理です!“侵入”から始めないと!」“シリウス”はそう叫びながらも、目と手は一瞬たりともPCから逸らしてはいない。全力で操作に当たっていた。「依然として、都心環状線を移動中!安否は不明!」ミセスAが空いているPCを操作してビーコンを追う。「“車屋”とNとFを起こしてくる!」リーダーは部屋へ向かった。「何者だ?!“AD事務所”が絡んでいるのか?!」実態が掴めない中、リーダーの胸に不安が渦巻いた。
「チョイ待ち!どうもイントネーションがスッキリしねぇ。DBの“修行によってのみ、救済の道が”の部分を修正しよう」N坊が言うと「うーん、上か下か?」とF坊が聞く。この様な地道な作業は、もう2日目に突入していた。合成によって肉声を繋ぎ合わせても、声のトーンやイントネーション、抑揚の強弱は実際に耳で聞いて微調整するしかなかった。しかも、今回は“寸分違わぬモノ”が条件だ。チェックは厳しすぎても過ぎる事は無いのだ。「よし、次はバージョンBの方だ。DBが哀訴する場面を流してくれ」N坊が言うと、
「どうかお慈悲を!国内が無理なら海外でも構いません!」「そうは言っても社則に違背した事実は覆らん!犯罪に加担した以上、懲戒解雇は免れんぞDB!役員を説得する・・・」
「ここは、やっぱりY副社長の声に“ドス”を効かせなきゃダメだ!」「トーンを若干下げるか?」「その方がいい。DBの声は高めに修正すればバランスがいいだろう」2人はY副社長とDBの声を聴き比べて、微妙な言い回しや顔の表情まで想像して仕上げにかかっていた。「よく続くなー。ほんの僅かなズレも聞き逃さない」“車屋”が目を丸くする。「あれが仕事人の魂だ。良く見て置け!」“スナイパー”が肩を叩く。「完璧を目指すあくなき執念。あれがあってこそ“本物”が生み出される。お前さんも、いずれああやって“本物”を作れる様になれ!」「はい!」“車屋”にとっては新鮮な経験だった。学ぶことは数多に渡る。それらを1つ1つ自己のモノにした時、常時“メンバー”として招集される人になるのだ。
ミセスAは、“司令部”とZ病院を往復する様になっていた。R女史の容態は、一進一退を繰り返していた。Z病院へ搬送された直後、血圧が下がり虚血状態になりかけたが、それはどうにか切り抜けられた。クリーンルームに収容された女史は、体中の菌を撃滅させるために、“グリコペプタイド系抗生物質”の投与を受けた。今の所、小康状態は保っているが、MRSAを完全に撃滅できている訳ではない。依然として危険な状態に変わりはなかった。「今一番の問題は、患者さんが病院内で感染した事にあるのよ。多かれ少なかれ、抗生物質を大量に使い、多くの患者さんが居る日本中の病院に、MRSAは居る可能性がある。そこで働いている医師や看護師が伝播者となり、病院内や手術室が汚染されている可能性は、非常に高いの。それを防ぐためには院内の消毒、清掃そして職員の手洗いの徹底しかないの。□病院で、MRSAが出たと言う事はその不足があったと言う事。私も含めてね。体を治すために病院へやって来た患者さんが、その病院の中で感染する病など、本来あってはならないのよ!」ミセスAは荒れ狂っていた。「母さん、あなたのせいではありませんよ。問題は、抗生物質を多量に使う現代医療体制そのもの。MRSAは言わば現代医療の落とし子のようなもの。母さんが責任を背負う必要は無いんですよ」精神科医の息子が優しく語りかける。「父さんが診てます。何かあれば直ぐに知らせます。母さんには“任務”がある。“任務”の対象者が患者になり、危険な状態にあるのは事実ですが、ここは父さんと僕達に任せて下さい」ミセスAは何も言えなかった。手を尽くす範囲で打てる手は全て打った。現状では薬剤と患者の体力に賭けるしかない事も分かっていた。「“ドクター”の帰国を待つしかない。そして速やかに“ドクター”にここへ来てもらうしかない。分かっているわ。でも、何かできる事が・・・」「休む事ですよ!あの日以来ロクに休んでないじゃないですか。ホテルに戻って下さい。車は玄関に回してあります」息子は静かに語りかけた。「分かった。父さんとあなたに賭けるわ。全力を尽くして頂戴!」ミセスAは“司令部”へ戻って行った。彼女が“司令部”に戻るとリーダーが受話器を片手に「トルコ航空518便だそうだ。“スナイパー”はどこだ?」「今、“録音”の真っ最中です」「よし!完了し次第、成田へ向かわせる。“ドクター”、間違いありませんね?ええ、迎えの手配はしてます。必ず戻って来て下さい!では」「リーダー、“ドクター”は何時になりそう?」ミセスAはすがる様に聞いた。「夜には戻れそうです。成田から“スナイパー”がZ病院へ直接送り届けます!間に合いそうですよ!」彼女の目に光が戻った。
「怪しいな!」「何がですか?」モニター画面を睨んで事業所長が呟く。「DBは眠っています。何が怪しいんです?」「分からないか!寝た振りをして紐を作っているとしたら、重大な問題だ!ヤツは狡猾かつ老獪な油断のならん存在だ!不安の種は早急に摘み取る必要がある!」事業所長は、マイクのスイッチを入れた。「DB!君は何を企んでいる?紐など作っても無駄だ!諦めて降服しろ!」ノイズ交じりの声が地下空間に響いた。「何故、そう言える?」DBはゆっくりとベッドの上に置きあがると反論した。「紐など作ってはいない。証拠が・・・」と言いかけると、レーザーが枕を射抜いた。焦げ臭い匂いが漂った。「諦めの悪さ、狡猾な手口、君の姿勢、そう言うものを総合すると、脱走の用意は周到に計画しているはず。まず、紐を出したまえ!話はそれからだ!」「ちっ!」DBは舌打ちをすると3本の紐を床に投げた。「やはりそうか!どうやら君には衣服を与えるのは危険だ!作務衣を脱ぎ床に丸めて投げろ!」「ちっ!」ボロボロになった作務衣をDBは脱ぎ捨てると、紐の近くへ投げた。汚れたトランクス1枚になったDBの身体は、やせ細り火傷の跡が生々しく見えた。大出力のレーザー8本が床を焼いて、紐と作務衣を煙に変えた。「絶対服従!これが君を生かす道だ!君はまたしてもこれに違背した!それなりの報いは受けてもらう!」事業所長はレーザーの出力を絞ると、DBの右腕上腕を狙った。4本のレーザーがDBに襲い掛かった。しかし、DBも必死に逃げる。レーザーは枕と布団に命中して穴を開けたが、DBは無傷だった。本能的に足の方向へ逃げたのが幸いした。「ほう、まだまだ元気じゃないか。だが、次は外さない!」「ターゲット自動追尾モード起動。出力10%アップ。目標右上腕部。射撃開始マデ1分」合成ボイスが警告を発した。DBは布団を丸めると右半身をかばった。だが、レーザーは以外にも左上腕部を直撃した。「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁ・・・」火傷の痛みに耐えかねたDBは床に転がった。「外さないと言ったはずだ!次は布団諸共狙う!」「まっ・・・待ってくれ!従う!服従を・・・誓う!」DBは苦痛に顔を歪めながらも懇願する。「そのセリフは聞き飽きた!違背は許さぬ!」事業所長は容赦を認めなかった。今度は、レーザーが右足の大腿部を直撃した「あぎゃぁぁぁぁぁぁ・・・」再びDBは床を転げまわった。肉の焦げる匂いが充満した。「事業所長!その辺で止めて下さい!殺してしまっては元も子もありません!」部下は必死に止めた。事業所長が頷いた。「今回はここまでにしよう。だが違背すれば、容赦はしない!それを忘れるな!」ノイズ交じりの声は途絶えた。DBは苦痛に耐えながら布団をベッドに敷いて横たわった。脂汗が傷口に触れて更に痛みを生む。「軟膏を差し入れてやれ!正し紙容器で。食事は通常通りでよい」「はい、これでDBは紐を作る“材料”を失いました。少しは安堵されてもいいのでは?」「いや、まだシーツと布団が残っている。繊維類はいずれ一掃しなくてはならん様だ。今回の件、本社へ至急報告しろ!脱走を防ぐにはそれしかあるまい!」「はい、直ちにメールを送り、指示を待ちます」「メールではなくFAXにしろ!データーが残る方法はいかん!」「では、おっしゃる通りに」監視システムはオートに戻された。苦痛に耐えながらDBは“密かな作業”を再開した。布団や枕に穴が開いた事で、綿が取り出しやすくなった。“作務衣の様にはいかんが、糸は作れる。紐の材料はまだ残っている。”懲りないDBは、脱走を目指して糸づくりを開始した。気が遠くなる作業かも知れないが、時間はある。“小僧の首をねじ切るまでは死なん!”この一念がDBを奮い立たせていた。
T女史が¨司令部¨を訪れるのは、もう3回目だった。R女史から¨引き継ぎ¨を受けてDBの件の調査に着手したいのは山々だったが、肝心要の¨音声記録¨が完成しなくてはY副社長の元へ出向けない。R女史には¨正しい認識¨を植え付けなくてはならない。Kからの依頼に対して「DBとY副社長が会談の末に、双方が譲歩した」結果、ベトナム工場へ異動したと言うオチにしなくてはならないのだ。「¨音声記録¨はいつ完成します?」「今日中には出来上がります。¨依頼者¨の承認が出れば、先生も動けるかと」「実は、大手の事務所が、本件を嗅ぎ付けて¨介入¨しようと画策を始めた様です。あまり、悠長な事をしていると¨拐われる¨恐れが出て来ました。ミスターJも懸念しています」「その話なら、こちらも聞いています。確か¨AD事務所¨ですよね?」「ええ、なにせ成りが大きな所ですから、資金力も人手もあります。向こうが動き出す前に手を打たないと」「撹乱と援護はいつでも出来ます。今、¨侵入¨を開始してます。向こうのシステムをダウンさせればいいんですよね?」「そうですが、気付かれずに出来るんですか?」「¨シリウス¨、どうだ?」「後、5分下さい。今、¨ウイルスプログラム¨を仕掛けてます。DBの件を検索すると、システムがダウンして、復旧に時間が掛かる仕組みです!」「まあ、そんな仕掛けを?それなら安心してかかれますわ」T女史は目を丸くした。「お待たせしました。¨音声記録¨が仕上がりました!」¨スナイパー¨が2台のICレコーダーを持って現れた。「どうだ?上手くいったか?」「オーディオマニアの誇りに駆けてもいい出来上がりですよ!」彼は胸を張った。早速、再生が開始された。銀色のICレコーダーだ。
「俺は“正義の鉄槌”を下そうとしただけだ!精神病などと言う病気は無い!詐病だ!会社を欺き、多額の金をむしり取る“寄生虫”は、修行によってのみ、救済の道が開けるのだ!」「DB、君の言っている事は、非科学的かつ非論理的な“根性論”に過ぎない。私はその様な考えには賛同できない。むしろ、嫌悪感を・・・」
「どうです?耳を澄ませても、合成とは分からない様に仕上げてあります!」「イヤホンはありますか?」「ええ、これをどうぞ」「すみません。何せ大切なモノ。寸分たがわぬかを検証しなくてはなりません」T女史はしばらくICレコーダーの声に聞き入った。「これは・・・、本当に合成なんですか?」女史は心底驚いた様子だ。「ええ、100%合成したものです。雑音も含めて」「R女史に手渡すモノも同じですか?」T女史が尋ねる。「R先生へお送りするのはこちらですよ」“スナイパー”は別の黒いICレコーダーを差し出した。
「どうかお慈悲を!国内が無理なら海外でも構いません!」「そうは言っても社則に違背した事実は覆らん!犯罪に加担した以上、懲戒解雇は免れんぞDB!役員を説得するのは無理だ。弁護士も同じことだ!」「私は家族を養わなくてはなりません。どうか見捨てないで下さい!副社長、お言いつけは何でも聞きます!」「尋常な事では無いぞ!余程の理由が無ければ、周囲を納得させられん。だが・・・、1つだけ手はあるそれは・・・」
「先程の“音声記録”とは“別物”ですね。DBが哀訴していますが、この2つにどう言う意味があるのでしょう?」「R先生には“DBが自主的に海外への赴任を希望して、国外へ消えた”と認識してもらう必要があります。一方、Y副社長は、社内手続きを円滑に進めてもらう必要があるんです」「それで、こんな手の込んだ“音声記録”を?」「ええ、双方にとって法的に問題の無い様にしなくてはなりませんから」「参りました。ミスターJは気配りが凄い方ですが、皆さんにもそれは言える事ですね!」T女史は呆れ返った様に言った。「では、私はY副社長に面会のアポを取ります。この黒いICレコーダーは預かっても構いませんか?」「元々そのつもりで、用意したモノです。R先生には“そちらの”音声を聞かせてあげて下さい」「分かりました。では、お預かりします」T女史は鞄に黒のICレコーダーをしまい込んだ。「もう1つ、不安材料を言うのを忘れていました。“AD事務所”に“サイバーグループ”が設立された模様です!完全な影の実行部隊ですので、詳細は不明ですが、サイバーテクノロジーに通じた人材を採用したのは分かっています。遅かれ早かれ、ここも狙われます!」「でしょうね。でも、我々も黙っているつもりはありません!」“シリウス”が自信ありげに言った。「彼らがここへ“侵入”しようとしても、別のサーバーへ行くとしたらどうします?」「例えば?」T女史が聞く。「旧KGBとかペンタゴンとか様々な所へジャンプさせられたら、逆に問題になります。ここのシステムは“強引に入り込もうとすると、海外のサーバーから第三国の諜報機関へ飛ばさる”様に細工してあります。“AD事務所”も海外の諜報機関からマークされるのは、本意ではないでしょう?」「そうでしょうね。でも、油断はしないで下さい。折角ここまで漕ぎつけたのです。要らぬ手は触らないのが一番です!」「分かりました。夜は外部アクセスを遮断しましょう!それなら、どうです?」「そうして下さい。私達も細心の注意を払っています。作戦が成功するまでは、決して気は抜かないで下さい!」T女史はそう言うと“司令部”を後にした。「“スナイパー”、悪いが、至急成田へ飛んでくれ!」リーダーが指示を出した。「“ドクター”のお出迎えとZ病院への送迎ですな!」「そうだ、一刻も早く抗生物質を届けなきゃならん!そうしないとR女史は、さっきの“音声記録”を効き逃してしまう」「俺様の努力を水泡に帰す訳にはいかんな!」“スナイパー”の目が鋭く光った。「了解だ!最速記録を更新してみせる!」“スナイパー”は“司令部”を飛び出して行った。
「はははは・・・、ぐぁはははは・・・」Y副社長は、笑いを堪えるのに必死だった。ICレコーダーから聞こえる¨自身¨の声が、あまりにもリアルだったからだ。「どうされたんだ?」大爆笑は外へ漏れだして、秘書課まで聞こえていた。バイク便で荷物が届いて10分後から延々と笑い声は続いている。「DBもそうだが、自分の声がこんなに真面目に聞こえるとは、これは¨世紀の傑作¨だ!」涙ながらに笑い転げるY副社長。社内の人間が見たら、気が動転したのか?と疑いを抱いた筈だ。イヤホンを外して、秘書課長を呼び出す。「どうされました?Y副社長?!」秘書課長は、身をよじって笑うY副社長の姿に動転した。「いや、すまん!可笑しくたまらんのだ!君も聞いて見れば分かる!」そう言ってICレコーダーとイヤホンを差し出した。秘書課長は、不審な顔つきで再生された音声を聞いた。
「俺は“正義の鉄槌”を下そうとしただけだ!精神病などと言う病気は無い!詐病だ!会社を欺き、多額の金をむしり取る“寄生虫”は、修行によってのみ、救済の道が開けるのだ!」「DB、君の言っている事は、非科学的かつ非論理的な“根性論”に過ぎない。私はその様な考えには賛同できない。むしろ、嫌悪感を抱かざるを得ない。犯罪の片棒を担いだ罪は許されるものではない!社則に従い、この場で辞表を出したまえ!」
「これは・・・、そんな馬鹿な?!・・・」秘書課長は絶句した。「これが、人為的に¨作られた会話¨だと信じられるか?自分の¨セリフ¨を聞いていると、可笑しくてたまらんのだよ!」Y副社長はハンカチで眼を覆う。「¨作られた会話¨とは到底思えません!会話の声、雑音に至るまで…、完璧ではありませんか!元の音声記録の片鱗もありません」秘書課長は呆然と立ち尽くしていた。「元の音声記録は何だね?」「本年度の経営方針の説明会のものです」「あれか・・・、ふふふふ、それが¨DBと対峙する声¨に化けるとはな!全く持ってミスターJの部下達には驚かされるよ!」「どうやったら¨幻の対峙¨を作り出せるのでしょう?」「全く分からん!だが、これで社内と顧問弁護士は抑えられるな?」「はい、これならば誰も疑う余地はありません!」Y副社長は立ち上がると「最後まで聞けば分かるが、結末はDBを“危険人物”と認定して、私がDBの辞表を預かりベトナムへ無期限出向させると言う筋書きになっている。“彼”に危害を及ぼす恐れが高い“懲戒解雇”の代わりにな!実際問題、“懲戒解雇”になどしたら、“彼”に実害が及ぶのは火を見るより明らかだ!」「なるほど、その点は心得ているのですな」「役員会で私が、この音声記録を披露して“DBに下した処分”について補足すれば、誰もおかしいとは思うまい。顧問弁護士にしても然りだ」「となると、DBの“辞表”を作っておかねばなりませんね!」「そうなんだ、その“メイキング”を君に任せたい。稟議書よりは簡単だろう?」「はい、雲泥の差です。直ぐにでも作成できます」「早速、かかってくれ」「分かりました。それと、T弁護士から面会の依頼が入っております。何でもR弁護士が急病で入院したそうで、引継ぎを受けた方の様です。いかがいたしましょうか?」「会おう。何時だ?」「明日の午後にでもと言われています。大丈夫でしょうか?」「心配はいらん。T女史は、ミスターJの顧問弁護団の一員だ。この音声記録の内容も知っているはずだ。その上で、形式的に会うだけだ。恐らく“別物の音声記録”を披露してくれるだろう!」「“別物の音声記録”ですか?!」「ああ、R女史の手に渡る文字通りの“別物”だ。多分、DBの泣き落としに私が折れた様な内容だろう。DBが自分からベトナム行きを志願したか、私が情けをかけたか・・・、法的には何の問題も出ない内容になっているだろう」「それでは、ミスターJの部下達は2つの筋書きを作って・・・」「法的に問題が無い様に細心の意を払ったのだよ」Y副社長がセリフを引き取って答えた。「両方の顔を立てるには、それくらいの事はしないといかん。労を惜しまぬ彼らの姿勢には、敬意を払わねばなるまい!」「では、T弁護士へは、私から“お会いになる”旨を伝えて置きます。DBの“辞表”は直ぐにお持ちします」「いいだろう。手配を宜しく頼む。私はもう一度、頭から聞いて見るとしよう!こんな“傑作”は滅多にない!」「すみませんが、お笑い声を抑えて頂きますよう。他の者が聞けば不審に思います」「分かった、分かった。さて、もう一度・・・」Y副社長は、ICレコーダーとイヤホンを手にした。そして、笑いの世界へと戻って行った。
“スナイパー”の運転する車は、闇夜を突いて一路Z病院を目指していた。「“ドクター”、ベルトをしっかり締めて下さい。それと“司令部”を呼んで下さい。厄介なヤツらが現れました!」「なんじゃと?誰だ?」「分かれば苦労しません。後ろから猛然と追い上げを喰らってます!」“司令部”に携帯が繋がった。「オープンマイクに切り換えて!リーダー、ヤバイ事になりました!ケツに不審なベンツがくっ付いて来ました!」「何!どういう事だ?!」「Z病院へ行かれては困るとしか思えません!」「振り切れないか?」「やって見ますが、際どい話になります。それより、R女史と“AD事務所”の間にトラブルが無かったかを至急調べた方がいいかも知れませんぜ!」「“スナイパー”、無茶はするな!」「何とか振り切ってZ病院へ・・・」ブツっと音がして通話が途切れた。「“スナイパー”、応答しろ!」リダイヤルをしたリーダーだったが、通じなかった。「“シリウス”、“スナイパー”の車のビーコンを追ってくれ!」「了解!」「何があったの?!」ミセスAの顔が蒼白になっていた。「“スナイパー”の車が襲われたらしい。詳細は不明だ」「リーダー、ビーコンは拾えましたが、都心環状線に逃げ込んでいます!」「マズイな、相手は何者だ?!」リーダーも顔が蒼白になっている。「我々には手は出せない!“スナイパー”の腕に賭けるしかない!」握りしめた拳に爪が食い込んで、血が流れた。「監視カメラの映像を手に入れろ!何者かを割り出すにはそれしかない!」「直ぐには無理です!“侵入”から始めないと!」“シリウス”はそう叫びながらも、目と手は一瞬たりともPCから逸らしてはいない。全力で操作に当たっていた。「依然として、都心環状線を移動中!安否は不明!」ミセスAが空いているPCを操作してビーコンを追う。「“車屋”とNとFを起こしてくる!」リーダーは部屋へ向かった。「何者だ?!“AD事務所”が絡んでいるのか?!」実態が掴めない中、リーダーの胸に不安が渦巻いた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます