点滴で眠った翌朝、私は副師長さんに揺り起こされた。「さあ、そろそろ起きて下さいな。もう、午前9時を過ぎてますよ!」「えっ!ヤバイ!やっちまったー・・・、女性陣が騒ぎを起こしちまう!」慌てて跳ね起きると「残念ながら、騒動は既に起ってます!ギャーギャーと、あれこれ憶測が飛び交ってますよ!」体温計を渡され、腕には血圧計が装着される。「朝食は取り置きしてあるので、ちゃんと食べて!それから、かしましい“女の子達”を黙らせてちょうだいね!」「はい・・・」今日は厄日だ。目覚めて数分も経たないウチに厄日に気付くとは最悪だ!しかも、既に“あらぬ憶測”が飛び交っているらしい。女性陣の口を封ずるには、相応の覚悟が必要だろう。洗顔をしてヒゲを剃っていると早速「〇ッシー!幽体離脱して何処に行ってたの?!みんな!〇ッシー生きて帰って来たよ!」と騒ぎが拡大し始めた。ホールへ行き、朝食を食べていると女の子達がわらわらと集まり始め、あれこれと憶測を話し始めた。「幽体離脱して何処へ行ってたの?」「やり過ぎて疲れたのね!」「昨夜、あたし達の部屋も覗いたんでしょ?」「えー!あたし達も覗かれたの?」「調べた結果を報告しなさいよ!」「マイちゃんを見つけたの?どこに居た?」ここまで来ると反論は通用しそうにない。だが、あからさまな“誤解”は否定して置く必要はありそうだ。「昨夜はね、点滴を入れて貰って久々に深く眠っただけ!残念ですが、幽体離脱などは出来ません!仮に出来たとしても“覗き”はやりません!マイちゃんを見つけられるはずなどありません!誰ですか?幽体離脱だ、覗きだと言ったのは?!」「マイちゃんが、〇ッシーなら出来るって言ってた。ねえ、本当は病院内をくまなく捜索したんでしょ!」「でなきゃ起きられるはずだわ!私の着替え見てたんでしょ!今日のパンティー何色か言って見なさいよ!」取り付く島が無いとはこの事か?!やはり厄日の様だ。ギャイギャイと騒ぐ女性陣を尻目に早々に病室へ逃げかえるハメになった。「何なんだ?!この仕打ちは!」ベッドの上で毒づいたものの、状況は変わらない。「疲れた・・・、疲れ果てたよ・・・」体は重く気力も萎えかけていた。身を横たえていると「〇ッシー、ちょっといいかな?」と女性陣3人が病室に押し掛けて来た。「ごめん!寝かせて欲しい。今日は気力ゼロ!」私は布団を被って逃避にかかる。「あのさー、みんなが謝りたいって言ってるんだ。チョットだけ顔出してくれない?」「今日は勘弁して。マジで気力無いから、寝かせて欲しい」私は、偽らざる真意を吐露した。本当に疲れ果てて、眠りたかったのだ。「そこを何とか、お願いします!」閉じた貝をこじ開けようと女性陣も躍起になる。「休ませてあげなさい!無理強いは良くない事よ!それに、勝手に病室へ立ち入らないで!!」凛とした声が響いた。「はい、すいません、師長さん」女性陣は蜘蛛の子を散らすように退散していった。私も慌てて跳ね起きようとするが、師長さんの目と手に制止された。「少し、話せるかな?」と師長さんが言う。私が黙って頷くと、体温計を渡され腕には血圧計が巻かれた。暫くの沈黙の後「やっぱり血圧が高いし、僅かに発熱してるわね。タフな貴方も休息が必要だわ」と言って脈を取り始めた。「昨日、Kさんから聞いてると思うけど、マイさん回復へ向かってるわ。4~5日したら、元の病室へ戻れそう。だけど、今の問題は貴方の方ね!どんな状況になっても、平然とした顔で立ち向かった貴方が逃げ出すなんて初めて見るわ。それだけ、心身共に疲れ切ってる証拠!やっぱり脈も速くなってる。元々徐脈なのに普通の人と変わらなくなってる!安静にしていないと、私達がマイさんに怒られるわ!」師長さんは、一通りのチェックを終えると、私に横になる様に指示した。いつになく優しい師長さん。Hさんと共に怒られた時の表情とは別人の様だった。「まず、マイさんの事だけど“インフルエンザに感染していた”事にして隔離している理由を作るわ。今日一杯の経過次第だけど、女の子達にもそれとなく伝えるつもり。もう少しの辛抱よ。それと、今日の騒ぎは私達が鎮めるから、貴方は安静にしていて。主治医の先生に、至急点滴の指示を出して貰うわ。やっと回復して来たのに、ここで返って悪くしたらご家族に申し訳が立たないわ!もう、心配はいらない。ゆっくり眠って。やれる事は全てやってくれた。“がんばり過ぎた”ぐらいよ。もう、重荷は降ろしていいの。安心して休んで」師長さんは、静かに言うと私の手を握り、微かに微笑んでいた。「大丈夫、彼女達に邪魔はさせないから。直ぐに点滴を持って来るから。何かあったらコールを押してね」と言って師長さんは、ベッド回りのカーテンを閉めると病室を出て行った。「貴方達、彼は安静が必要よ!静かにしてあげて!具合の悪い人を無理矢理引っ張りだす様な真似はおやめなさい!!」どうやら廊下にタムロしていた女性陣が怒られた様だ。暫くすると点滴のバックが2つ運び込まれ、私の腕にラインが設定された。「ゆっくり、休んでね」チューブが接続されると5分も経たない内に、私は深い眠りに落ちて行った。
目覚めには違和感が伴った。下半身が変だ。ゴワゴワした感触と、何かが突き刺さっている感触。「紙おむつに導尿か。俺はどれだけ眠ってたっんだ?」日付は2日進んで、時刻は午前4時を指していた。「少しは落ち着いたな。だが、これじゃあ自由に動けないな」小声で呟くと点滴の有無を見る。バックが2連で釣り下がっていた。残りは僅かだ。夜勤の看護師さんがそろそろ交換に来るはずだ。少し姿勢を動かして強張った筋肉を解していると、案の定、夜勤の看護師さんが覗きに来た。「あっ、起きてたの。気分はどう?」バックを交換しながら、囁く様に聞く。「大分、いいです。点滴まだ続くんですか?」「この後もう一度で最後よ。先生の診察を受けてから、管を抜いて貰ってね。まだ、時間あるから眠った方がいいよ。後でKさんが見に来てくれるから、細かい事は彼女に聞いて」と言うと病室を静かに出て行った。29時間以上は前後不覚だった事になる。眠れた事で心身ともに落ち着いていられる様になったのはいいが、私が“落ちてから”何があったのか?師長さんのカミナリがどの程度炸裂したのか?Kさんから聞く以外にない様だ。目を閉じると私は再び眠りの世界へ沈んでいった。再度、目覚めたのは午前9時頃だった。依然として点滴バックが2連で釣り下がっているが、残りは半分ぐらいだった。カーテンが揺れてKさんが顔を見せた。「どうかな?よく眠っていたって聞いてるけど」「久々に眠った感はありますね。下半身が不自由ですけど」「先生を呼んでくるわ。まずは、許可を貰わないと抜管も出来ないしね。ちょっと待ってて!」彼女は、主治医の先生を呼びに行った。診察の結果は、“大丈夫でしょう”と出て点滴は抜かれる事に決まった。同時に採血がなされた。「さて、まずは抜管ね!」Kさんが丸めたタオルを差し出す。それをしっかりと口で噛んで体の力を抜く。個人差はあるが、導尿の管を抜くのには痛みが伴う。これが意外に痛いのだ!男性の場合は特に痛い。勢いよく管が引き抜かれ、痛みが全身を駆け抜ける。「ご苦労様。おむつ脱いでシャンとしてから、改めて検温しようね。1人先に済ませて来るから、その間に着替えておいてね。話さなきゃならない事が沢山あるの!」そう言うと、彼女は一旦出て行った。病室の洗面台で顔を洗って、着替えを済ませた頃、彼女は戻って来た。体温計を受け取り、腕に血圧計が巻かれる。「マイちゃん、明日戻る事が決まったわ。思いの外、クスリが早く効いてくれたみたいで、もうすっかり落ち着きを取り戻したわ」「表向きは“インフルエンザ”ですか?」「師長さんから聞いたのね!季節柄、妥当な理由だと思う。でも、言うまでも無いけれど“本当の理由”は他言無用よ!言わなくても分かると思うけれど」「分かりました。あらぬ誤解は生みたくはありませんから」「身に染みて感じてるみたいね!あくまでも、当事者以外は“知る必要はない事”だもの!そうでなくても、やかましい女性陣に手を焼いて、こんな目にあったんだから当然かな?」「そうですね。恐るべしウーマンパワーですよ・・・」「でも、貴方が点滴で眠った後、師長さんのカミナリが久々に大爆発した様で、女性陣も大反省してるらしい。“お通夜の席”みたいに静まり返ってるわ!横綱2人が“休場”なんだから当然と言えば当然なんだけどね。“不気味過ぎて怖い”ってナースステーションでは言ってる」「“お通夜の席”か・・・、マイちゃんと私が揃えば、またにぎやかになりそうだけど、今度は秩序を保った状況にしなきゃならない。私も気を引き締めて過ごさなきゃ!」「手のかかる女の子達だけど、また面倒を見てあげて。貴方にしか出来ない事だから」「ええ、倒れない程度に」Kさんは、脈を計り始めた。「戻ってるね。人の身体は正直だよね、危ないと思うと必ずシグナルを出して知らせてくれる。軽い疲れでも甘く見ちゃだめよ!ここは、病院なんだから、遠慮なく私達に言って頂戴!Hさんもようやく安心するわ!」「Hさんが来てくれたんですか?」「昨日の夕方、帰る前に来てくれたみたい。凄く心配して手を握って“戻って来て”って言って半泣きだったって。私から外来へ知らせておくわ。“お友達は無事回復しました”って」「Hさんは、Kさんの先輩になる訳?」「そうよ“手綱をゆるめちゃダメ!”って託されてもいるし・・・。他にも貴方を心配していたのは、病棟の看護師全員!これでみんなホッとするわ。とにかく、大したことにならなくて良かった。みんな“重荷を背負わせて倒れてしまった”って後悔してたから」「でも、今回の場合は“やむを得ない特別な事情”があったから、看護師さん達の責任とは言えない部分も・・・」と私が言いかけると「それは違う!私達は分け隔てなく患者さんに接しなくてはいけないの。“やむを得ない特別な事情”があっても、貴方のケアが出来なかったのは事実。それは素直に反省して謝らなくちゃいけない。師長さんもそう言ってた。私もそう思ってる。だから、許して欲しいの。ごめんなさい!」Kさんは深々と頭を下げた。「でも、“あの場面”で、Kさんが決めた事は間違いではなかったと思う。そうでなければ、マイちゃんは守れなかった。僕はそう思う」私は“あの場面”を振返って言った。「そう言ってくれると、私個人としては救われるけれど、看護師としてはまだまだ力不足と思い知らされる。今回は、色々あったけれど、結果的には運が良かったと思うしかないわ。貴方もマイちゃんも快方に向かってくれた。一歩間違えば、取り返しがつかなかったかも知れない。2人に助けられた。私はそう思うの。まだまだ、私も学ばなくてはならない。それを教えられたのが今回の事」Kさんは反省しきりだった。だが、彼女は“最善の選択”をしたと、私は感じていた。咄嗟の判断を求められて、毎回“最善手”を指せる人が世の中に何人いるだろう?私はKさんが“最善を尽くした”と思っていると告げた。「うーん、そう言って貰えると少しホッとする。でも、今回は反省点の方が多いから、引き分けだよね。お気遣い感謝します!」Kさんの表情がようやく緩んだ。「ところで、あのー、朝食あります?猛烈に腹が減ってるんですけど・・・」と私が言うと「それがねー、残念ながらお昼からになるの。点滴が抜けるか分からなかったから、オーダー入れてないの。何か買ってこようか?お金出してくれれば、至急誰かに売店へ行って貰うわ!」「しゃあ、これでコッペパンをお願いします」私は財布をKさんへ手渡した。「丸ごと!お札か硬貨でいいのに、預かっていい訳?」「私は“信の置ける人”には丸ごと預けますよ。僕の信念ですから」と言った。「へー、そんな人居るんだ!だから女の子達に信頼があるのかもね。じゃあ、待ってて。直ぐに用意する。午後からは、自由行動をしていいから、お昼まではベッドから出ないでね!」Kさんはステーションへと急いで病室を飛び出して行った。廊下にタムロしていた女性達が「Kさん、〇ッシーの様子はどうですか?」と誰何する声が微かに聞こえた。「絶対安静よ!貴方達は病室へ戻りなさい!」Kさんは、強い口調で女性達を退散させていた。「鉄のタガは容易に外れない様だ。それにしてもよくやるな。下手に出て行けば餌食になりかねない。籠城が最善の策か?!」私は呆れつつ、独り呟いた。
病棟北側の個室に隔離されていたマイちゃんの元へ、Kさんが昼食を運び込んだ時、彼女の意識はかなり回復していた。「Kさん、〇ッシーの様子はどう?女の子達を抑えるの大変なんじゃないかな?」「彼の心配が出来るなら、もう直ぐ出られそうね。容態も安定しているみたいだから、話すけれど落ち着いて聞いて。彼、体調を崩して一時休んでもらってるの。原因は睡眠不足と女の子達からのプレッシャー。でも、今朝私が行ったら、もう7割くらい回復していたわ。点滴が効いたのね。流石に彼も全てを抑え込む事は無理だった様よ」「そっかー、〇ッシー1人じゃ無理だったのね。悪い事しちゃったなー」マイちゃんが深刻な表情を浮かべる。「でも、彼は約束をしっかり守って“幻聴”の事は誰にも話していないわ。むしろ、話を必死に逸らしてくれた。少し無理が重なって眠れなかっただけだから、もう心配する事は必要ないわ!」Kさんは静かにマイちゃんに告げた。「あの、〇ッシーがダウンするぐらいだから、女の子達の不安と焦燥感は相当なレベルだったんじゃない?」「この間、師長さんが久々にカミナリ大爆発をお見舞いして、ようやく鎮静化してる。私も午前中に彼にあやまって来たの。“重荷を背負わせてごめんなさい”って、彼、一言のグチを言わずに“咄嗟に最善手が打てるはずはない。あの場面ではああするしかなかった”って言ってくれた。どこまでも、優しくて勇気と責任感のある人ね」「〇ッシーらしい答え。どんな事でも人を悪く言わないし、必ず答えを考えてくれる。だから・・・、」「だから女子達も頼りにしてるし、あれやこれやと相談も持ちかける。そうなのよね!」「うん、頼れるお父さん?!じゃなくてお兄さんだよ、〇ッシーは。他の男子には、誰も寄り付かないのが何よりの証拠!」「でも、流石に今回は、彼もオーバーヒートしちゃったの。許してあげて」Kさんが優しくマイちゃんに言う。「許すも何も、感謝しなきゃバチが当たる。ボロボロになっても、あたしを気遣ってくれたんだもの。真っ先にお礼に連れて行って!」マイちゃんがKさんにせがんだ。「申し送りに追加しておくわ。私が居る日なら責任もって連れて行くわ。さあ、少し休んで。まだ、時間は必要だわ。彼には“マイちゃんが心配してたから、早く復活しろ!”って言って置く」「うん!お願いします!」マイちゃんは力を込めて言った。Kさんが食器を下げると「〇ッシー、ガンバ!」とマイちゃんは念じたと言う。
久しぶりに固形物を摂った私は、身体の隅々にまで力が戻って行く感触に浸っていた。だが、病室からは出ようとはしなかった。「絶対に網を張ってるだろうな!師長さんのカミナリで大人しくなってるとは言え、易々と獲物を逃がすような彼女達じゃない!」私がそう言っていると「当り!そこかしこにトラップが仕掛けられてるわ。そのまま出て行けば、あっと言う間に餌食になるだけ。まったく、諦めの悪い子達だわ!」Kさんが点滴バックを手にやって来た。「マイちゃんからの伝言、“無理しないで早く復活して”。彼女も心配してた。お昼に私、彼女に会って来たの。全部話して置いたわ」小声でさりげなくKさんが言う。「それと、これは悪いお知らせ!血液検査の結果、軽い貧血の症状が出たわ。これから鉄材と安定剤の点滴を入れさせてもらいます!」今度は病室の外にも聞こえる様な声でKさんが言う。「鉄のタガに聞こえたかしら?これで少しは遠慮するかもね。でも、今言ったのは本当の事よ。残念だけどもう少し我慢して!」まだ外されていなかった点滴ラインにチューブが接続された。鉄材のバックは小さいが、落とす速度がゆっくりなので相応の時間がかかる。大手を振って歩けるのは、明日に延期になりそうだ。「さて、気分転換に連れて行ってあげる。一服したいでしょ!1本だけ許可するから車椅子に乗って!」「いいんですか?」「大丈夫、ステーションから応援も来るし、私達が盾になるから。さあ、乗って!」Kさんが押してくれる車椅子に乗り、点滴台を引き連れて喫煙所へ久しぶりに顔を出した。私達の動きにつれて、遠巻きに女性陣達も動いてくる。だが、ガードが堅いので接近しては来れない。喫煙所から病棟を眺めるのは久しぶりだ。“指定席”に陣取るとやはり落ち着く。意を決したのか3人の女の子達が近づいて来た。「Kさん、少しだけ〇ッシーと話してもいいですか?」「今日は勘弁して。彼、やっと起き上がれたばかりなの。直ぐに部屋へ戻るから、そっとして置いてあげて」Kさんが静かに言う。ステーションから手の空いている看護師さん達が応援に駆け付け、彼女達を病室へ連れ戻す。遠巻きにしていた女性陣達も解散させられていく。「そろそろ戻ります」私はタバコの火をもみ消すと車椅子に戻った。「じゃあ、帰ろうか?準夜勤の人が来たら“清拭”に行くから、今日はゆっくり過ごそう。彼女達には邪魔はさせないから、安心して!」Kさんは珍しく優しく言った。その夜は不思議と落ち着いて眠れた。
翌朝、午前5時に私は目覚めた。身体は随分軽くなったし、気分も悪くない。顎に手を当てるとヒゲが伸びている。今日、まずしなくてはならないのはヒゲ剃りと決まった。早朝なので、カミソリで慎重に剃って行く。静かな病棟の洗面台の前で、息を殺して顔を作った。サッパリした顔が戻ったその次は着替えの確認だ。洗濯機を回さないとダメだと分かり、仕分けをする。その後は、本を手に取り読みふけった。“零式戦闘機”その栄光と衰退は太平洋戦争と共に語られていた。ズブズブと活字の世界へ沈んでいると、朝食のアナウンスが流れた。しばらくすると看護師さんが朝食を運んできてくれた。「気分はどう?置いとくから食べてね。終わったらコールして」と言ってくれた。「そろそろ、立て篭もるのも飽きたな。だが、出て行けば確実に餌食になる。分かっていて出て行くのは愚の骨頂だが、いい加減頃合いか?」私が独り呟いていると「そうよ!〇ッシー!行こうよ!」マイちゃんが車椅子に乗って病室にやって来た。自力でベッド脇に進んで来ると「心配かけてごめん。みんな待ってるよ。〇ッシーをイジメる子は、あたしが許さないから安心して来て!」彼女は説得に来てくれたのだ。「もういいのかい?」と私が聞くと「今、引っ越しが終わったところだよ。また、みんなで楽しく話そうよ!横綱が揃わないとカッコ悪いと言うか、締まらないのよ!〇ッシーが“デン”と座ってないとみんな落ち着かないの」マイちゃんの必死の訴えは心を打った。「よし!そこまで言われたら、行くしかないな。手のかかる女の子達の面倒は、俺が引き受けるしかない。マイちゃんの回復祝いから始めよう!今日は盛大なる祝いからスタートだ!」マイちゃんにトレーを持ってもらい、私が車椅子を押して、病室を出た。「〇ッシー!みんな、〇ッシーが来たよ!」女の子達がキャイキャイと騒ぐ。「うーん、相変わらずやかましい。俺は仙人でも千里眼でもないからな!」「仙人とか千里眼って何?」マイちゃんが聞く。「幽体離脱とか出来るって誰かに吹き込まれて、散々突かれたからね」ため息交じりに言うと「あっ!犯人はあたしか?!ごめん!」マイちゃんが“にわか煎餅”で誤魔化しにかかる。久しく途絶えていた雑談が戻った瞬間だった。
目覚めには違和感が伴った。下半身が変だ。ゴワゴワした感触と、何かが突き刺さっている感触。「紙おむつに導尿か。俺はどれだけ眠ってたっんだ?」日付は2日進んで、時刻は午前4時を指していた。「少しは落ち着いたな。だが、これじゃあ自由に動けないな」小声で呟くと点滴の有無を見る。バックが2連で釣り下がっていた。残りは僅かだ。夜勤の看護師さんがそろそろ交換に来るはずだ。少し姿勢を動かして強張った筋肉を解していると、案の定、夜勤の看護師さんが覗きに来た。「あっ、起きてたの。気分はどう?」バックを交換しながら、囁く様に聞く。「大分、いいです。点滴まだ続くんですか?」「この後もう一度で最後よ。先生の診察を受けてから、管を抜いて貰ってね。まだ、時間あるから眠った方がいいよ。後でKさんが見に来てくれるから、細かい事は彼女に聞いて」と言うと病室を静かに出て行った。29時間以上は前後不覚だった事になる。眠れた事で心身ともに落ち着いていられる様になったのはいいが、私が“落ちてから”何があったのか?師長さんのカミナリがどの程度炸裂したのか?Kさんから聞く以外にない様だ。目を閉じると私は再び眠りの世界へ沈んでいった。再度、目覚めたのは午前9時頃だった。依然として点滴バックが2連で釣り下がっているが、残りは半分ぐらいだった。カーテンが揺れてKさんが顔を見せた。「どうかな?よく眠っていたって聞いてるけど」「久々に眠った感はありますね。下半身が不自由ですけど」「先生を呼んでくるわ。まずは、許可を貰わないと抜管も出来ないしね。ちょっと待ってて!」彼女は、主治医の先生を呼びに行った。診察の結果は、“大丈夫でしょう”と出て点滴は抜かれる事に決まった。同時に採血がなされた。「さて、まずは抜管ね!」Kさんが丸めたタオルを差し出す。それをしっかりと口で噛んで体の力を抜く。個人差はあるが、導尿の管を抜くのには痛みが伴う。これが意外に痛いのだ!男性の場合は特に痛い。勢いよく管が引き抜かれ、痛みが全身を駆け抜ける。「ご苦労様。おむつ脱いでシャンとしてから、改めて検温しようね。1人先に済ませて来るから、その間に着替えておいてね。話さなきゃならない事が沢山あるの!」そう言うと、彼女は一旦出て行った。病室の洗面台で顔を洗って、着替えを済ませた頃、彼女は戻って来た。体温計を受け取り、腕に血圧計が巻かれる。「マイちゃん、明日戻る事が決まったわ。思いの外、クスリが早く効いてくれたみたいで、もうすっかり落ち着きを取り戻したわ」「表向きは“インフルエンザ”ですか?」「師長さんから聞いたのね!季節柄、妥当な理由だと思う。でも、言うまでも無いけれど“本当の理由”は他言無用よ!言わなくても分かると思うけれど」「分かりました。あらぬ誤解は生みたくはありませんから」「身に染みて感じてるみたいね!あくまでも、当事者以外は“知る必要はない事”だもの!そうでなくても、やかましい女性陣に手を焼いて、こんな目にあったんだから当然かな?」「そうですね。恐るべしウーマンパワーですよ・・・」「でも、貴方が点滴で眠った後、師長さんのカミナリが久々に大爆発した様で、女性陣も大反省してるらしい。“お通夜の席”みたいに静まり返ってるわ!横綱2人が“休場”なんだから当然と言えば当然なんだけどね。“不気味過ぎて怖い”ってナースステーションでは言ってる」「“お通夜の席”か・・・、マイちゃんと私が揃えば、またにぎやかになりそうだけど、今度は秩序を保った状況にしなきゃならない。私も気を引き締めて過ごさなきゃ!」「手のかかる女の子達だけど、また面倒を見てあげて。貴方にしか出来ない事だから」「ええ、倒れない程度に」Kさんは、脈を計り始めた。「戻ってるね。人の身体は正直だよね、危ないと思うと必ずシグナルを出して知らせてくれる。軽い疲れでも甘く見ちゃだめよ!ここは、病院なんだから、遠慮なく私達に言って頂戴!Hさんもようやく安心するわ!」「Hさんが来てくれたんですか?」「昨日の夕方、帰る前に来てくれたみたい。凄く心配して手を握って“戻って来て”って言って半泣きだったって。私から外来へ知らせておくわ。“お友達は無事回復しました”って」「Hさんは、Kさんの先輩になる訳?」「そうよ“手綱をゆるめちゃダメ!”って託されてもいるし・・・。他にも貴方を心配していたのは、病棟の看護師全員!これでみんなホッとするわ。とにかく、大したことにならなくて良かった。みんな“重荷を背負わせて倒れてしまった”って後悔してたから」「でも、今回の場合は“やむを得ない特別な事情”があったから、看護師さん達の責任とは言えない部分も・・・」と私が言いかけると「それは違う!私達は分け隔てなく患者さんに接しなくてはいけないの。“やむを得ない特別な事情”があっても、貴方のケアが出来なかったのは事実。それは素直に反省して謝らなくちゃいけない。師長さんもそう言ってた。私もそう思ってる。だから、許して欲しいの。ごめんなさい!」Kさんは深々と頭を下げた。「でも、“あの場面”で、Kさんが決めた事は間違いではなかったと思う。そうでなければ、マイちゃんは守れなかった。僕はそう思う」私は“あの場面”を振返って言った。「そう言ってくれると、私個人としては救われるけれど、看護師としてはまだまだ力不足と思い知らされる。今回は、色々あったけれど、結果的には運が良かったと思うしかないわ。貴方もマイちゃんも快方に向かってくれた。一歩間違えば、取り返しがつかなかったかも知れない。2人に助けられた。私はそう思うの。まだまだ、私も学ばなくてはならない。それを教えられたのが今回の事」Kさんは反省しきりだった。だが、彼女は“最善の選択”をしたと、私は感じていた。咄嗟の判断を求められて、毎回“最善手”を指せる人が世の中に何人いるだろう?私はKさんが“最善を尽くした”と思っていると告げた。「うーん、そう言って貰えると少しホッとする。でも、今回は反省点の方が多いから、引き分けだよね。お気遣い感謝します!」Kさんの表情がようやく緩んだ。「ところで、あのー、朝食あります?猛烈に腹が減ってるんですけど・・・」と私が言うと「それがねー、残念ながらお昼からになるの。点滴が抜けるか分からなかったから、オーダー入れてないの。何か買ってこようか?お金出してくれれば、至急誰かに売店へ行って貰うわ!」「しゃあ、これでコッペパンをお願いします」私は財布をKさんへ手渡した。「丸ごと!お札か硬貨でいいのに、預かっていい訳?」「私は“信の置ける人”には丸ごと預けますよ。僕の信念ですから」と言った。「へー、そんな人居るんだ!だから女の子達に信頼があるのかもね。じゃあ、待ってて。直ぐに用意する。午後からは、自由行動をしていいから、お昼まではベッドから出ないでね!」Kさんはステーションへと急いで病室を飛び出して行った。廊下にタムロしていた女性達が「Kさん、〇ッシーの様子はどうですか?」と誰何する声が微かに聞こえた。「絶対安静よ!貴方達は病室へ戻りなさい!」Kさんは、強い口調で女性達を退散させていた。「鉄のタガは容易に外れない様だ。それにしてもよくやるな。下手に出て行けば餌食になりかねない。籠城が最善の策か?!」私は呆れつつ、独り呟いた。
病棟北側の個室に隔離されていたマイちゃんの元へ、Kさんが昼食を運び込んだ時、彼女の意識はかなり回復していた。「Kさん、〇ッシーの様子はどう?女の子達を抑えるの大変なんじゃないかな?」「彼の心配が出来るなら、もう直ぐ出られそうね。容態も安定しているみたいだから、話すけれど落ち着いて聞いて。彼、体調を崩して一時休んでもらってるの。原因は睡眠不足と女の子達からのプレッシャー。でも、今朝私が行ったら、もう7割くらい回復していたわ。点滴が効いたのね。流石に彼も全てを抑え込む事は無理だった様よ」「そっかー、〇ッシー1人じゃ無理だったのね。悪い事しちゃったなー」マイちゃんが深刻な表情を浮かべる。「でも、彼は約束をしっかり守って“幻聴”の事は誰にも話していないわ。むしろ、話を必死に逸らしてくれた。少し無理が重なって眠れなかっただけだから、もう心配する事は必要ないわ!」Kさんは静かにマイちゃんに告げた。「あの、〇ッシーがダウンするぐらいだから、女の子達の不安と焦燥感は相当なレベルだったんじゃない?」「この間、師長さんが久々にカミナリ大爆発をお見舞いして、ようやく鎮静化してる。私も午前中に彼にあやまって来たの。“重荷を背負わせてごめんなさい”って、彼、一言のグチを言わずに“咄嗟に最善手が打てるはずはない。あの場面ではああするしかなかった”って言ってくれた。どこまでも、優しくて勇気と責任感のある人ね」「〇ッシーらしい答え。どんな事でも人を悪く言わないし、必ず答えを考えてくれる。だから・・・、」「だから女子達も頼りにしてるし、あれやこれやと相談も持ちかける。そうなのよね!」「うん、頼れるお父さん?!じゃなくてお兄さんだよ、〇ッシーは。他の男子には、誰も寄り付かないのが何よりの証拠!」「でも、流石に今回は、彼もオーバーヒートしちゃったの。許してあげて」Kさんが優しくマイちゃんに言う。「許すも何も、感謝しなきゃバチが当たる。ボロボロになっても、あたしを気遣ってくれたんだもの。真っ先にお礼に連れて行って!」マイちゃんがKさんにせがんだ。「申し送りに追加しておくわ。私が居る日なら責任もって連れて行くわ。さあ、少し休んで。まだ、時間は必要だわ。彼には“マイちゃんが心配してたから、早く復活しろ!”って言って置く」「うん!お願いします!」マイちゃんは力を込めて言った。Kさんが食器を下げると「〇ッシー、ガンバ!」とマイちゃんは念じたと言う。
久しぶりに固形物を摂った私は、身体の隅々にまで力が戻って行く感触に浸っていた。だが、病室からは出ようとはしなかった。「絶対に網を張ってるだろうな!師長さんのカミナリで大人しくなってるとは言え、易々と獲物を逃がすような彼女達じゃない!」私がそう言っていると「当り!そこかしこにトラップが仕掛けられてるわ。そのまま出て行けば、あっと言う間に餌食になるだけ。まったく、諦めの悪い子達だわ!」Kさんが点滴バックを手にやって来た。「マイちゃんからの伝言、“無理しないで早く復活して”。彼女も心配してた。お昼に私、彼女に会って来たの。全部話して置いたわ」小声でさりげなくKさんが言う。「それと、これは悪いお知らせ!血液検査の結果、軽い貧血の症状が出たわ。これから鉄材と安定剤の点滴を入れさせてもらいます!」今度は病室の外にも聞こえる様な声でKさんが言う。「鉄のタガに聞こえたかしら?これで少しは遠慮するかもね。でも、今言ったのは本当の事よ。残念だけどもう少し我慢して!」まだ外されていなかった点滴ラインにチューブが接続された。鉄材のバックは小さいが、落とす速度がゆっくりなので相応の時間がかかる。大手を振って歩けるのは、明日に延期になりそうだ。「さて、気分転換に連れて行ってあげる。一服したいでしょ!1本だけ許可するから車椅子に乗って!」「いいんですか?」「大丈夫、ステーションから応援も来るし、私達が盾になるから。さあ、乗って!」Kさんが押してくれる車椅子に乗り、点滴台を引き連れて喫煙所へ久しぶりに顔を出した。私達の動きにつれて、遠巻きに女性陣達も動いてくる。だが、ガードが堅いので接近しては来れない。喫煙所から病棟を眺めるのは久しぶりだ。“指定席”に陣取るとやはり落ち着く。意を決したのか3人の女の子達が近づいて来た。「Kさん、少しだけ〇ッシーと話してもいいですか?」「今日は勘弁して。彼、やっと起き上がれたばかりなの。直ぐに部屋へ戻るから、そっとして置いてあげて」Kさんが静かに言う。ステーションから手の空いている看護師さん達が応援に駆け付け、彼女達を病室へ連れ戻す。遠巻きにしていた女性陣達も解散させられていく。「そろそろ戻ります」私はタバコの火をもみ消すと車椅子に戻った。「じゃあ、帰ろうか?準夜勤の人が来たら“清拭”に行くから、今日はゆっくり過ごそう。彼女達には邪魔はさせないから、安心して!」Kさんは珍しく優しく言った。その夜は不思議と落ち着いて眠れた。
翌朝、午前5時に私は目覚めた。身体は随分軽くなったし、気分も悪くない。顎に手を当てるとヒゲが伸びている。今日、まずしなくてはならないのはヒゲ剃りと決まった。早朝なので、カミソリで慎重に剃って行く。静かな病棟の洗面台の前で、息を殺して顔を作った。サッパリした顔が戻ったその次は着替えの確認だ。洗濯機を回さないとダメだと分かり、仕分けをする。その後は、本を手に取り読みふけった。“零式戦闘機”その栄光と衰退は太平洋戦争と共に語られていた。ズブズブと活字の世界へ沈んでいると、朝食のアナウンスが流れた。しばらくすると看護師さんが朝食を運んできてくれた。「気分はどう?置いとくから食べてね。終わったらコールして」と言ってくれた。「そろそろ、立て篭もるのも飽きたな。だが、出て行けば確実に餌食になる。分かっていて出て行くのは愚の骨頂だが、いい加減頃合いか?」私が独り呟いていると「そうよ!〇ッシー!行こうよ!」マイちゃんが車椅子に乗って病室にやって来た。自力でベッド脇に進んで来ると「心配かけてごめん。みんな待ってるよ。〇ッシーをイジメる子は、あたしが許さないから安心して来て!」彼女は説得に来てくれたのだ。「もういいのかい?」と私が聞くと「今、引っ越しが終わったところだよ。また、みんなで楽しく話そうよ!横綱が揃わないとカッコ悪いと言うか、締まらないのよ!〇ッシーが“デン”と座ってないとみんな落ち着かないの」マイちゃんの必死の訴えは心を打った。「よし!そこまで言われたら、行くしかないな。手のかかる女の子達の面倒は、俺が引き受けるしかない。マイちゃんの回復祝いから始めよう!今日は盛大なる祝いからスタートだ!」マイちゃんにトレーを持ってもらい、私が車椅子を押して、病室を出た。「〇ッシー!みんな、〇ッシーが来たよ!」女の子達がキャイキャイと騒ぐ。「うーん、相変わらずやかましい。俺は仙人でも千里眼でもないからな!」「仙人とか千里眼って何?」マイちゃんが聞く。「幽体離脱とか出来るって誰かに吹き込まれて、散々突かれたからね」ため息交じりに言うと「あっ!犯人はあたしか?!ごめん!」マイちゃんが“にわか煎餅”で誤魔化しにかかる。久しく途絶えていた雑談が戻った瞬間だった。
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