Kが去り、DBも横浜へ「島流し」となり、私の周囲はすっかり平穏になった。ようやく治療に専念出来る環境が整った事で、本格的な薬剤を使用が始まった。体力も一定の回復を果たした事で、院内への「外出」も許可された。売店への買い物が自由に行けるのは、素直に嬉しい事であった。外気に触れる喜びはひとしお。気づいたら桜の花は満開であった。ただ、薬の副作用で眠りが浅いのはどうにもならなかった。抗うつ薬の代表的な副作用の一つが「不眠」であり、とにかく寝付けない。睡眠薬が加速度的に増えていったのは、必然性があり不可欠だった。幸い、ここは病棟なので一般社会とは時間の流れが違う。しっかりと睡眠を取るのも治療の一環ではあった。夜は9時に消灯、起床は朝の7時だから寝る時間は「たっぷり」あるのだ。どうしても「眠れない」場合には、注射剤で沈めてもらうのだが、薬剤で眠るのがあくまでも「基本」だ。寝る前に飲む薬剤が「半端無く増量」されるのに左程の時間は要らなかった。それでも朝は5時には目が覚めたのだから、今から考えると「かなり睡眠が狂っていた」のは確かだ。普通の人が「精神安定剤」を飲んだとしたら、相当な睡魔と格闘する羽目になる。増してや「睡眠薬」なんぞ飲んだ日には、起きて来られるはずがない。市販の睡眠薬より遥かに強力なのだから、間違っても服用はされないように!
さて、横浜へ移送されたDBだが、ヤツも新たな「地獄」を徘徊していたらしい。「4直3交代」とは、24時間365日生産を止めずに稼働し続けるのだが、土日祝日も全て「振り替え」になるので、想像以上に過酷な勤務となる。真夏の昼間に寝て、夜は勤務となると「エアコン」が無いと正直「やっていられない」「笑えない」事態に陥る。DBもそうだったらしいが、ひたすら仕事に追われて、ただ寝るだけの日々に半気狂いになったようだ。輝かしい会社人生からの「転落」だっただけに、マシン同然に働き続けるのは「屈辱感」で満ちていたに違いない。私も経験があるが、まず「時間の概念」が崩壊し曜日感覚を失う。次第に体内時計が狂って、食事が不規則になり始め、ひたすら寝る時間が増えていく。人として正常に生活する事が困難になり、ひたすら飲酒量が増えていく。いい事は何も無いのだ。定年前にこうした「屈辱感」を味わうとはDBも考えなかったはずだ。これこそがY副社長が下した「罰条」であり、真の目的であった。「同じ条件でお前は闘えるのか?」とDBに問うていたのだ。無論、DBが根を上げれば「速クビ」である。ヤツもそれは分かっていた。故に、必死に耐えて耐えて食らいつくのみであった。結局、フラフラになりながらもDBは耐えて耐えて、返り咲きを果たしてしまうのだが、それは大分時間が過ぎてからの話になる。
ある日、朝の検温の時だ。Hさんの表情が険しいのに気づいた。何か思い詰めた様子だった。「よし、いつもと変わりなし!」と言った後に彼女はカーテンを閉めて「黙っているつもりだったけど話すね」と言って突然涙目になった。「私、病棟から外来へ移る事になったの。だから貴方の検温、今日が最後なんだ。本当は退院するまで担当したかった。でもね、子供が小学生になったから病棟勤務が無理になっちゃったの。今まで旦那がカバーしてくれてたから病棟勤務も出来たけど、色々あって。男の子だから手も時間も必要だし、何より母親として子供に向き合ってあげないとグレちゃいそうなの。貴方の様な強くて優しい子にしたいの。だから、外来を希望したの。ごめんなさい。ちゃんと治して送り出せないのは、心残りだけど、でもね・・」続きは涙で言葉は途切れた。しばらく涙にくれるHさん。振り返れば、左程歳も離れていない私と彼女は「迷コンビ」と呼ばれ、看護師長さんから数々の「お小言」を頂戴した仲だ。詳細は明かせないと言うか「生涯封印」するように言われているのでご容赦願いたいが、ともかく私を袖の陰に隠して庇ってくれたのはいつも彼女だった。「気にする事じゃないよ!私と馬鹿やっているより、お子さん優先は当たり前でしょ。自分の意志と言うか家庭優先!泣かないで。いつかは私も退院するけど、笑って病棟を出たい。泣かれるのは困ります」そう言ってボックスティッシュをHさんに差し出しつつ「私は強くない。強かったら病気にはなってない。私のようにならない心と身体をもった人に育てて」と言った。「でもね、私は貴方を治す事を投げ出すのよ。どうしてもそれが心残りなの。今週一杯で治して退院できない?」Hさんが無茶を振る。「流石にそれは無理でしょ。先生もOKは出さないと思う」あまりの無茶振りに私も半ば吹き出しそうになった。「でも、いつかは退院出来る日が来ると思う。まだ、先だろうけれど。後任は決まっているのかな?」「うん。決まったよ。今度はベテランを担当にする。貴方みたいな暴走野郎には母親のように叱れる人が適任だって師長が言ってた!」Hさんはまだ半べそである。だが、口調はいつもらしさが出始めた。「会うは別れの始まりって言うでしょ。いつかは退院するのだから、その時に"まだダメ"って袖を引っ張られてもね。そろそろお互いの道に進んでもいいと思う。だから治療放棄なんて思わないで。Hさんの治療は効果適面だったよ。後は後任に任せて大丈夫!」私は懸命に言った。自身に向けても。Hさんにも。「許してくれるの?」と問われ「優しい看護でした。ありがとうございます!」と答えた。「ごめんね。でも、認めてくれるのなら、私もいい母親になるね!色々あったけど"楽しませて"もらいました。絶対に元気になって!多分一生忘れないから。じゃあ、握手して」Hさんとは多分最後の握手になるだろう。広い大学病院では、すれ違う事も無くなる。私は、柔らかなHさんの手を優しく包んで「頑張れ!」と言った。「貴方も無理するな〜」とHさんが笑って言った。「じゃあ、明日の午後に後任の人とまた来るね。もう師長にお目玉くらうな!私はもう庇ってあげられないんだよ!」泣いた烏がいつの間にか笑っていた。Hさんはカーテンを開けて、手を振りながら病室から出て行った。今、彼女はどうしているのか?「アイツいま何してる?」である。
さて、横浜へ移送されたDBだが、ヤツも新たな「地獄」を徘徊していたらしい。「4直3交代」とは、24時間365日生産を止めずに稼働し続けるのだが、土日祝日も全て「振り替え」になるので、想像以上に過酷な勤務となる。真夏の昼間に寝て、夜は勤務となると「エアコン」が無いと正直「やっていられない」「笑えない」事態に陥る。DBもそうだったらしいが、ひたすら仕事に追われて、ただ寝るだけの日々に半気狂いになったようだ。輝かしい会社人生からの「転落」だっただけに、マシン同然に働き続けるのは「屈辱感」で満ちていたに違いない。私も経験があるが、まず「時間の概念」が崩壊し曜日感覚を失う。次第に体内時計が狂って、食事が不規則になり始め、ひたすら寝る時間が増えていく。人として正常に生活する事が困難になり、ひたすら飲酒量が増えていく。いい事は何も無いのだ。定年前にこうした「屈辱感」を味わうとはDBも考えなかったはずだ。これこそがY副社長が下した「罰条」であり、真の目的であった。「同じ条件でお前は闘えるのか?」とDBに問うていたのだ。無論、DBが根を上げれば「速クビ」である。ヤツもそれは分かっていた。故に、必死に耐えて耐えて食らいつくのみであった。結局、フラフラになりながらもDBは耐えて耐えて、返り咲きを果たしてしまうのだが、それは大分時間が過ぎてからの話になる。
ある日、朝の検温の時だ。Hさんの表情が険しいのに気づいた。何か思い詰めた様子だった。「よし、いつもと変わりなし!」と言った後に彼女はカーテンを閉めて「黙っているつもりだったけど話すね」と言って突然涙目になった。「私、病棟から外来へ移る事になったの。だから貴方の検温、今日が最後なんだ。本当は退院するまで担当したかった。でもね、子供が小学生になったから病棟勤務が無理になっちゃったの。今まで旦那がカバーしてくれてたから病棟勤務も出来たけど、色々あって。男の子だから手も時間も必要だし、何より母親として子供に向き合ってあげないとグレちゃいそうなの。貴方の様な強くて優しい子にしたいの。だから、外来を希望したの。ごめんなさい。ちゃんと治して送り出せないのは、心残りだけど、でもね・・」続きは涙で言葉は途切れた。しばらく涙にくれるHさん。振り返れば、左程歳も離れていない私と彼女は「迷コンビ」と呼ばれ、看護師長さんから数々の「お小言」を頂戴した仲だ。詳細は明かせないと言うか「生涯封印」するように言われているのでご容赦願いたいが、ともかく私を袖の陰に隠して庇ってくれたのはいつも彼女だった。「気にする事じゃないよ!私と馬鹿やっているより、お子さん優先は当たり前でしょ。自分の意志と言うか家庭優先!泣かないで。いつかは私も退院するけど、笑って病棟を出たい。泣かれるのは困ります」そう言ってボックスティッシュをHさんに差し出しつつ「私は強くない。強かったら病気にはなってない。私のようにならない心と身体をもった人に育てて」と言った。「でもね、私は貴方を治す事を投げ出すのよ。どうしてもそれが心残りなの。今週一杯で治して退院できない?」Hさんが無茶を振る。「流石にそれは無理でしょ。先生もOKは出さないと思う」あまりの無茶振りに私も半ば吹き出しそうになった。「でも、いつかは退院出来る日が来ると思う。まだ、先だろうけれど。後任は決まっているのかな?」「うん。決まったよ。今度はベテランを担当にする。貴方みたいな暴走野郎には母親のように叱れる人が適任だって師長が言ってた!」Hさんはまだ半べそである。だが、口調はいつもらしさが出始めた。「会うは別れの始まりって言うでしょ。いつかは退院するのだから、その時に"まだダメ"って袖を引っ張られてもね。そろそろお互いの道に進んでもいいと思う。だから治療放棄なんて思わないで。Hさんの治療は効果適面だったよ。後は後任に任せて大丈夫!」私は懸命に言った。自身に向けても。Hさんにも。「許してくれるの?」と問われ「優しい看護でした。ありがとうございます!」と答えた。「ごめんね。でも、認めてくれるのなら、私もいい母親になるね!色々あったけど"楽しませて"もらいました。絶対に元気になって!多分一生忘れないから。じゃあ、握手して」Hさんとは多分最後の握手になるだろう。広い大学病院では、すれ違う事も無くなる。私は、柔らかなHさんの手を優しく包んで「頑張れ!」と言った。「貴方も無理するな〜」とHさんが笑って言った。「じゃあ、明日の午後に後任の人とまた来るね。もう師長にお目玉くらうな!私はもう庇ってあげられないんだよ!」泣いた烏がいつの間にか笑っていた。Hさんはカーテンを開けて、手を振りながら病室から出て行った。今、彼女はどうしているのか?「アイツいま何してる?」である。
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